千津の涙
文字数 6,682文字
次の日、朝から動き出した。
ここ最近、朝から動く事は苦ではなくなった。
しかしまだ年が明けて三月程、朝は肌寒い。
二人は京の町中を抜け、鈴味屋と京の町中を繋ぐ小さな川の橋を渡る。
鈴味屋を通り越し更に歩くと、森に囲まれた歓楽街が現れる。
京の花街、島薗である。
島薗は緩やかな坂になっており、まだ早いからか人通りは少ない。
「島薗言うんは遊郭が立ち並ぶとこかち思っちょった」
「島薗は遊郭とはまた違うんです」
伝之助に詳細を説明してやる。
島薗は女が囲いにいる遊郭の様ではなく、飲み食いできる店が立ち並ぶ。
その中で女と遊び、芸事などを楽しむのである。
通い詰めて女と一緒に楽しんで懇意になっていくのが島薗の醍醐味であったが、坂谷が支配してからは少し、いや、かなり違う。
優之助は続ける。
「坂谷の作った島薗は遊郭と飲み食いする場所を一緒にしたようなもんです。気に入った女がいたらそのまま金を追加して別の部屋に行くんです」
鈴味屋のようにお酌をして話し相手になるだけではない。
本人の意思関係なしに金次第で男と寝る。
遊郭だって通い詰めて懇意になっていくと言うのに、気に入った女がいれば金さえ払えば寝れるのだ。
そして聞く所によるとそれを無理矢理やらされているのだ。
「よう知っちょうやなかか」
「いや、まあ……」
実は鈴味屋に行く前はよく行っていた。
当時はぼったくりは無かったし、無理矢理働かされている事もなかった。
坂谷が支配して悪評を聞くようになってからは行かなくなった。
事情はどうあれ、当時の島薗で働く女は自らの意思で働いていた。
「まあよか。適当な店に入って話を聞くかのう」
伝之助は呑気に腕を天に伸ばして言う。
無計画で朝から島薗にやってきたのだ。
こいつはいつも行き当たりばったりだ。
「俺、いいとこ知ってますよ」
久しぶりによく行っていた店に行ってみようと思った。
まだあるだろうか。
「お前の知っちょう店に行ってどげんすっとか。もっと怪しい店探していっど。そん方が働いとる人間からおもしろかこつが聞けるかもしれん」
なるほど。
単細胞の伝之助にしてはよく考えている。
「怪しそうな店ってどんな店ですかね」
「お前が入んたくなか店じゃ」
「俺が入りたくない店ね……」
よく考えていると思ったら結局は勘か。
緩やかな坂を歩き、左右に広がる店を見て歩く。
時折すれ違う人々は島薗に勤めている女のようだ。
目が合うと微笑んでくれる。
まだ開いていない店も多いが、開いている店では女が立って客引きをしている。
客引きの女も優之助に愛想を振り撒く。
「さっきからお前、やたらと女に見られちょらんか?」
確かに島薗の女達が色目を使ってきている。
「そりゃあこんな良い顔した男、島薗の女がほっとかんでしょ」
自慢ではないが島薗に通っていた頃、懇意になった女は片手に余るのだ。
「そうか。顔がよかち言うんはお前が唯一、人より秀でとるとこじゃな。あとは無駄に背が高く髪が長かもんじゃから邪魔なとこに生えとる柳の木の如く、ひょろ長か木偶の棒じゃ。事あるごとに腰が引け、毎日毎日だらだら過ごし、親のくれた家に住んで親の脛だけで飽き足らず弟の脛までしゃぶりつくし、情けのう生きとるお前が唯一、人に誇れるとこじゃ」
「ひ、酷い……そこまで言わんでも……」
ちくしょう、こいつ僻んでるんか。
「今は前ほどだらだらしてないし脛かじりもしゃぶりつくすまでやないです。ちょっとなめてる程度です」
優之助は身振り手振りを交えて熱弁を振るう。
「お前、ほんのこて口がうまかのう」
伝之助は冷めた様子で優之助に構わず歩を進める。
「俺が細長いのはこの顔をより活かし強調する為です。ほら、髪の長いのだって雨が降った時に水も滴るいい男を演出できるでしょ。空に向かって満開に咲く桜よりも川辺に咲く枝垂桜の方が風情あって美しいやないですか」
「お前と枝垂桜を一緒にすな。枝垂桜に失礼じゃ」
「いや、きっと枝垂桜も俺の顔と並べて寧ろ光栄に――」
「わかったわかった。もうよか」
伝之助が鬱陶しそうに手を振って話を打ち切る。
ちくしょう……この糞侍、いつか殴りつけてやりたい。
下らないやり取りをしていると一件の店が目に付き、思わず立ち止まる。
「どげんした」
「あの柴(し)蝶屋(ちょうや)てとこ、気になりますね」
紫の蝶と書いて柴蝶屋。
店先で女が客引きをしている。
長屋で一見よくある店だが、雰囲気に何となく陰りがある。
さびれているとかぼろいとかではなく、華やかだがどことなく暗い。
「ないが気になる?」
伝之助にはあの雰囲気が伝わらないのだろうか。
「いや、何がと言われると困るんですが何となく……俺ならあの店は入らんと言うか、他にも気になる店はありましたけど特別足を止める程ではありませんでした。でもあの店は思わず足を止める違和感があると言うか、何か気になります」
首を傾け言った。
「そうか。そいならあん店に決まりじゃ」
伝之助が頷く。
どうせ当てもないのだ。
伝之助の言葉を合図に柴蝶屋へ向かう。
店前の女が近付いてきた。
「これまた男前なお二人。よかったら柴蝶屋に寄っていきませんか」
声を掛けてきた女はおさき程ではないが綺麗な顔立ちをしていた。
微笑んでいるが何処となく陰りのある笑みだ。
「おう。寄ってくど」
「おおきに」
柴蝶屋と書いた紫の暖簾をくぐると、両側に連なる仕切られた各部屋がある。
華やかな鈴味屋とは雰囲気が全く違った。
ここは酒を飲んで女を抱くだけの店なのだ。
「この部屋でお待ち下さい」
女が部屋の一室を案内する。
「おいらはおはんに着いてもらいたか」
「私ですか……私はまだ未熟者で十分なおもてなしが出来まへん」
「よか」
伝之助が優之助を見る。
女を口説けと言う事か。
なぜこの女に拘るのだろう。
「いや、俺らは飯食うて行くだけやし、あんたみたいな綺麗な人についてもろたら飯も酒もうまいやろう思ってな」
女は逡巡している。
信用していいか考えているのだろうか。
「じゃあ私ともうお一人はどうしましょう」
「いや、おはんだけでよか。言うた通りおいらは飯を食うだけじゃ」
「そうですか」
女はどことなくほっとした表情を浮かべたような気がした。
「それではこの部屋でお待ち下さい。すぐに用意します」
女が下がり、二人は部屋で待機した。
伝之助は腰から刀を抜き、左側に置いて座る。
優之助は伝之助の右隣に座った。
「刀、最初に預けなかったんですね」
「当たり前じゃ。こいは敵の膝元じゃ。預けるんは余程間抜けな奴じゃ」
どこの店でも入ると刀番がいてそこで預けるか、刀掛けがあるので刀掛けに置く。
肌身離さず持つ者もいるが、気兼ねない所では預けるものだ。
柴蝶屋にも店に入った所に刀掛けがあり、それを見張る番がいた。
しかし伝之助は一度も腰から抜く事なく部屋まで来た。
そして伝之助は刀を自分の左側に置いた。
刀の刃も外へ向けている。
有事の際にすぐに抜けるようにだ。
言った通り敵の膝元だから油断しない為だろう。
しかし礼儀としては無礼にあたる。
「何であの女に拘ったんですか。一目惚れしたんですか」
半笑いで茶化して聞いてみる。
「お前はおいをからかっとるとか?」
伝之助の冷たい視線に背筋がひやっとする。
「いえ、滅相もない」
からかっているのだがそう言うとここを無事に出られない。
「あん女、武士の娘とちごうかの。ちょっとした所作を見てそげな気がした」
歩き方や立ち振る舞いが様になっていると言う。
「そうですかね。武士の娘ならなんですか」
「お前はほんのこて鈍かのう。武士の娘がこげなとこで働く訳がなか」
そうか。何かの事情で働かされているのだ。
「じゃあ無理矢理働かされてるんや。それなら坂谷のことも良く思ってない」
「話を聞くにはうってつけ言うこつじゃ。お前の勘も馬鹿にはできんの」
鈍いと言われた直後に馬鹿には出来ない勘だと褒めてもらえた。
複雑だ。
しかし伝之助の行き当たりばったりの作戦がうまくいったようだ。
「失礼します」
先程の女が料理を運んできた。
膳に乗せた料理を二人の前に置く。
伝之助の前に置く時、女は伝之助の刀を暫し見つめたが、気にしない素振りで繕った。
「これはうまそうや」
白米に焼き魚の鯵、葉物のお浸しに豆腐の吸い物が付いている。
まだ昼になっていないからかあっさりとしている。
女は二人の前に正座し、手を付く。
「申し遅れました。私、千津(ちづ)と申します。どうぞお手柔らかに」
言うなり頭を下げた。
確かに武士の娘と言われればそんな気がする。
作法が様になっている。
それに先程伝之助の刀を気にしていた。
刀の置き方など知っているとすれば武士の娘の可能性もある。
「千津さん言うんか。えらい若う見えるけど」
「十八です」
千津は頭を上げる。
十八の娘は鈴味屋にもいるが、鈴味屋では女を無理矢理働かせてはいない。
「そうか。千津、おはんは武家の出か」
早速伝之助が問い質す。
千津は俯いたと思うと、僅かに体を震わせているように見えた。
やがて掠れる声で「はい」と答える。
「千津さん、何もあんたの事をどうこうしよ思てない。ちょっと話を聞きたいだけや。な?」
優之助は出来るだけ穏やかに言った。
少しでも千津の警戒を解かなければいけない。
「はい、何でしょう」
千津は顔を上げずにか細い声で言う。
もしかしたら今までに武家の娘と見抜かれ、嫌な思いをしたのかも知れない。
「千津さんは武家の娘でありながらなんでこんな所で働いてるんやろか。いや、何も詮索するわけやないんやけどちょっと気になったんや」
詮索するわけではないとは無理があるが聞いてみた。
千津は何も答えず俯いている。
「おはんがどこで働いてようがおいらには関係がなか。じゃっどん不当な理由で働いとうもんなら改めてやれんこつもなかち思っての」
無駄に希望を抱かせる事になるかもしれないのに、そんな事を言って良いのだろうか。
案の定、千津は表情を明るくさせ顔を上げた。
「それは私をここから出して下さると言う事ですか」
「おう。出して生きられるよう考える」
できなければどうする。
そう思い伝之助を見るが、伝之助は意に介していない。
「でも私、坂谷さんにお金を返さんといけません」
坂谷に金で縛られているのか。
「千津さん、詳しく話してくれるか?」
千津はしばらくためらっていたが、やがてぽつぽつと話し出した。
千津の家は下級武士の家で母と内職をして家計を助けて暮らしていた。
家の跡取りとなる二つ下の弟と父で家族四人、慎ましく暮らしていた。
しかしそんな平穏が一日にして崩れた。
ある日父が浪人に因縁を付けられ、浪人を数人連れて家に帰ってきた。
大人しい父は言われるがまま金を払おうとしたが、気の強い弟がそれを止め、口論の末刀を抜いた。
それを皮切りに一人が刀を抜き、躊躇なく弟の手首を斬った。
父が止めに入ると父の無防備な腹を斬った。
浪人は幾度となく二人を斬りつけ、斬殺した。
呆気なく父と弟が目の前で死んでしまった。
浪人たちは逃げ、奉行所に訴えるも未だに捕まらない。
母は大層嘆き体を壊してしまった。
忽ち生活は立ち行かなくなり、家を出て行かなければいけなくなった。
そんな時、坂谷が現れた。
住まいを用意し、金を貸し、母の面倒を見させてやる。
その代わり島薗で働けと言われた。
千津はそれがどういう事かわかっていたので躊躇したが、生きて行くにはそれしか道が無いと悟った……
千津は目に涙をため、しかし決して流すまいと懸命に堪えながら話した。
「なんて酷い話や……どうせ坂谷が仕組んだんや。あいつ人間やない」
優之助は拳で膝を叩く。
千津の悔しさ、悲しさ、やりきれなさを思うと、とても許せない。
知った以上は他人事で済ませられない。
しかしどうすればいいのか。
「ええ、坂谷さんの部下に絡んできた浪人がいるように思いますので恐らく仕組まれての事でしょう。しかし私はもうどれだけ足掻いてもこの島薗に絡み取られて抜け出せなくなってます。あなた様方に出してもらえると言われた時は舞い上がりましたが、今こうして改めてお話をするととても無理だと思い知りました。それにこの柴蝶屋には私以外にも武士の娘が多数働いています。私だけが助かるわけにもいきませんし、私の話は忘れて下さい」
千津は手をついて頭を下げた。
柴蝶屋の雰囲気がどんよりしているのは他の店に比べて武士の娘が多いからなのだろうか。
柴蝶屋に限った事でも武士の娘に限った事でもなく、この島薗には千津のような女が何人もいるのだろう。
噂通りだとそう言う事だ。
「千津。おいらはな、坂谷を潰すつもりじゃ。助けるんは千津だけでんなか」
伝之助が静かに言うと、千津は驚いて顔を上げた。
「奉行所の人間が島薗を調べちょった。そいを疎んじた坂谷がそん人間を殺した。そいをきっかけに今奉行所が血眼でこん島薗を調べ上げとる」
千津の目にまた希望の光が宿る。
「お二人は奉行所の方ですか」
「うんにゃちごう。おいらは奉行所から目を付けられちょる二人じゃ」
「え……」
瞬く間に千津の目に宿った希望の光が消えて行く。
「色々あっての。おいらは坂谷らが奉行所の人間をやったち思っちょるが、奉行所んの中にはおいらが坂谷から依頼されてやったち思っちょるもんもおる。おいらが生き残るには坂谷を潰すしかなか。おはんの知っちょうこつ、話してほしか」
千津はしばらく逡巡したが、やがて僅かな希望に縋るように頷いた。
島薗の女の間でも坂谷が黒木(くろき)を手に掛けたと噂が立っており、改めて坂谷に対して恐怖が募っている。
その恐怖の為、口外しないよう皆口をつぐんでいる。
千津はその危険を冒し、恐怖に打ち勝って優之助たちを信用し話してくれた。
「しかしどうやって攻め込むんです?」
柴蝶屋を出るなり、優之助は早速伝之助に尋ねる。
「ただ攻め込むだけじゃあ意味がなか。ないか証拠を上げんと奉行所も納得せんど。そん上で金を取り戻すとじゃ」
伝之助が言ったように奉行所と同じく証拠を揃えてから攻め込む必要はないが、攻め込んだ後には奉行所を納得させる何かが必要なのは違いない。
「証拠ですか。あの紙は盗まれたしなあ。もう焼かれるなりされてますかね」
「さあの。じゃっどんあん紙は坂谷にとってもお前に依頼したち言う証拠にもなる。自分はやってない、やったんはあいつらじゃち言う最後の足掻きとしてまだ残しとるかもしらん」
「それええんか悪いんか……それにしてもどこにあるかですね」
聞くまでもなく坂谷の屋敷にあるのだろうが、何となくそう言ってみる。
「紙を取り戻しただけじゃどうにもならんど」
伝之助は歩きながら横目で優之助を見る。
そんな事はわかっている。
紙を取り戻したら万事が解決するわけではない。
「わかってますよ。そう言えば黒木さんは刀で斬られたんですかね」
「さあの。どげんして殺されたんかの。奉行所からは黒木が殺されたち言うだけで、詳しいこつはないも出ちょらんの」
それも調べてなかったのかと思ったが、それを言うと自分も何を言われるか分かったものではない。
藪蛇になる。
しかし伝之助も所々抜けている。
「もし斬られてたらその斬った刀を回収出来たらいいんですけどね」
「お前中々よかこつ言うの。まずは黒木がどうやって死んだかじゃ。川から上がった言うのは聞いたが、斬殺か毒殺か撲殺か、そこんところはわからん」
いい事を言ったのだろうか。
まずい事を言ったのかも知れない。
もし斬られたとして、その刀をどうやって回収するのだ。
きっと伝之助の事だ。
正面突破を考えるだろう。
それだと命がいくつあっても足りない。
島薗を出て歩いていると鈴味屋が見えてきた。
「鈴味屋に寄っていこかな」
無性におさきに会いたくなった。
きっと千津に会ったからだろう。
千津の様な悲しい運命の女をこれ以上増やしたくないと思った。
その想いとおさきと会う事はあまり関係ないかも知れないが、おさきに会いたくなったのだ。
「お前はもう条件反射ち言うやつじゃの」
伝之助がこれ見よがしに呆れる。
優之助はどんな態度を取られようとも平気だった。
「何とでも言うて下さい。今日は朝から動いてあまり進歩無しです。ちょっと休憩しましょ」
「進歩はあったど。おいは黒木の殺害方法を調べ考える。お前は鈴味屋に行くなり好きにせえ」
これは願っても無い事だ。
無理矢理連れ回されると思っていたが、意外と言ってみるものだ。
「これはこれは。伝之助さんはあちこちで考えて下さい。俺は鈴味屋でゆっくり考えますわ」
「お前はおさきに会うて鼻の下伸ばすだけで脳みそは溶けていくばかりじゃろ」
何とでも言え。全く腹が立たん。
嘘やけど。
「じゃ、失礼します」
鈴味屋の前で伝之助と別れ、そそくさと鈴味屋へ入っていった
ここ最近、朝から動く事は苦ではなくなった。
しかしまだ年が明けて三月程、朝は肌寒い。
二人は京の町中を抜け、鈴味屋と京の町中を繋ぐ小さな川の橋を渡る。
鈴味屋を通り越し更に歩くと、森に囲まれた歓楽街が現れる。
京の花街、島薗である。
島薗は緩やかな坂になっており、まだ早いからか人通りは少ない。
「島薗言うんは遊郭が立ち並ぶとこかち思っちょった」
「島薗は遊郭とはまた違うんです」
伝之助に詳細を説明してやる。
島薗は女が囲いにいる遊郭の様ではなく、飲み食いできる店が立ち並ぶ。
その中で女と遊び、芸事などを楽しむのである。
通い詰めて女と一緒に楽しんで懇意になっていくのが島薗の醍醐味であったが、坂谷が支配してからは少し、いや、かなり違う。
優之助は続ける。
「坂谷の作った島薗は遊郭と飲み食いする場所を一緒にしたようなもんです。気に入った女がいたらそのまま金を追加して別の部屋に行くんです」
鈴味屋のようにお酌をして話し相手になるだけではない。
本人の意思関係なしに金次第で男と寝る。
遊郭だって通い詰めて懇意になっていくと言うのに、気に入った女がいれば金さえ払えば寝れるのだ。
そして聞く所によるとそれを無理矢理やらされているのだ。
「よう知っちょうやなかか」
「いや、まあ……」
実は鈴味屋に行く前はよく行っていた。
当時はぼったくりは無かったし、無理矢理働かされている事もなかった。
坂谷が支配して悪評を聞くようになってからは行かなくなった。
事情はどうあれ、当時の島薗で働く女は自らの意思で働いていた。
「まあよか。適当な店に入って話を聞くかのう」
伝之助は呑気に腕を天に伸ばして言う。
無計画で朝から島薗にやってきたのだ。
こいつはいつも行き当たりばったりだ。
「俺、いいとこ知ってますよ」
久しぶりによく行っていた店に行ってみようと思った。
まだあるだろうか。
「お前の知っちょう店に行ってどげんすっとか。もっと怪しい店探していっど。そん方が働いとる人間からおもしろかこつが聞けるかもしれん」
なるほど。
単細胞の伝之助にしてはよく考えている。
「怪しそうな店ってどんな店ですかね」
「お前が入んたくなか店じゃ」
「俺が入りたくない店ね……」
よく考えていると思ったら結局は勘か。
緩やかな坂を歩き、左右に広がる店を見て歩く。
時折すれ違う人々は島薗に勤めている女のようだ。
目が合うと微笑んでくれる。
まだ開いていない店も多いが、開いている店では女が立って客引きをしている。
客引きの女も優之助に愛想を振り撒く。
「さっきからお前、やたらと女に見られちょらんか?」
確かに島薗の女達が色目を使ってきている。
「そりゃあこんな良い顔した男、島薗の女がほっとかんでしょ」
自慢ではないが島薗に通っていた頃、懇意になった女は片手に余るのだ。
「そうか。顔がよかち言うんはお前が唯一、人より秀でとるとこじゃな。あとは無駄に背が高く髪が長かもんじゃから邪魔なとこに生えとる柳の木の如く、ひょろ長か木偶の棒じゃ。事あるごとに腰が引け、毎日毎日だらだら過ごし、親のくれた家に住んで親の脛だけで飽き足らず弟の脛までしゃぶりつくし、情けのう生きとるお前が唯一、人に誇れるとこじゃ」
「ひ、酷い……そこまで言わんでも……」
ちくしょう、こいつ僻んでるんか。
「今は前ほどだらだらしてないし脛かじりもしゃぶりつくすまでやないです。ちょっとなめてる程度です」
優之助は身振り手振りを交えて熱弁を振るう。
「お前、ほんのこて口がうまかのう」
伝之助は冷めた様子で優之助に構わず歩を進める。
「俺が細長いのはこの顔をより活かし強調する為です。ほら、髪の長いのだって雨が降った時に水も滴るいい男を演出できるでしょ。空に向かって満開に咲く桜よりも川辺に咲く枝垂桜の方が風情あって美しいやないですか」
「お前と枝垂桜を一緒にすな。枝垂桜に失礼じゃ」
「いや、きっと枝垂桜も俺の顔と並べて寧ろ光栄に――」
「わかったわかった。もうよか」
伝之助が鬱陶しそうに手を振って話を打ち切る。
ちくしょう……この糞侍、いつか殴りつけてやりたい。
下らないやり取りをしていると一件の店が目に付き、思わず立ち止まる。
「どげんした」
「あの柴(し)蝶屋(ちょうや)てとこ、気になりますね」
紫の蝶と書いて柴蝶屋。
店先で女が客引きをしている。
長屋で一見よくある店だが、雰囲気に何となく陰りがある。
さびれているとかぼろいとかではなく、華やかだがどことなく暗い。
「ないが気になる?」
伝之助にはあの雰囲気が伝わらないのだろうか。
「いや、何がと言われると困るんですが何となく……俺ならあの店は入らんと言うか、他にも気になる店はありましたけど特別足を止める程ではありませんでした。でもあの店は思わず足を止める違和感があると言うか、何か気になります」
首を傾け言った。
「そうか。そいならあん店に決まりじゃ」
伝之助が頷く。
どうせ当てもないのだ。
伝之助の言葉を合図に柴蝶屋へ向かう。
店前の女が近付いてきた。
「これまた男前なお二人。よかったら柴蝶屋に寄っていきませんか」
声を掛けてきた女はおさき程ではないが綺麗な顔立ちをしていた。
微笑んでいるが何処となく陰りのある笑みだ。
「おう。寄ってくど」
「おおきに」
柴蝶屋と書いた紫の暖簾をくぐると、両側に連なる仕切られた各部屋がある。
華やかな鈴味屋とは雰囲気が全く違った。
ここは酒を飲んで女を抱くだけの店なのだ。
「この部屋でお待ち下さい」
女が部屋の一室を案内する。
「おいらはおはんに着いてもらいたか」
「私ですか……私はまだ未熟者で十分なおもてなしが出来まへん」
「よか」
伝之助が優之助を見る。
女を口説けと言う事か。
なぜこの女に拘るのだろう。
「いや、俺らは飯食うて行くだけやし、あんたみたいな綺麗な人についてもろたら飯も酒もうまいやろう思ってな」
女は逡巡している。
信用していいか考えているのだろうか。
「じゃあ私ともうお一人はどうしましょう」
「いや、おはんだけでよか。言うた通りおいらは飯を食うだけじゃ」
「そうですか」
女はどことなくほっとした表情を浮かべたような気がした。
「それではこの部屋でお待ち下さい。すぐに用意します」
女が下がり、二人は部屋で待機した。
伝之助は腰から刀を抜き、左側に置いて座る。
優之助は伝之助の右隣に座った。
「刀、最初に預けなかったんですね」
「当たり前じゃ。こいは敵の膝元じゃ。預けるんは余程間抜けな奴じゃ」
どこの店でも入ると刀番がいてそこで預けるか、刀掛けがあるので刀掛けに置く。
肌身離さず持つ者もいるが、気兼ねない所では預けるものだ。
柴蝶屋にも店に入った所に刀掛けがあり、それを見張る番がいた。
しかし伝之助は一度も腰から抜く事なく部屋まで来た。
そして伝之助は刀を自分の左側に置いた。
刀の刃も外へ向けている。
有事の際にすぐに抜けるようにだ。
言った通り敵の膝元だから油断しない為だろう。
しかし礼儀としては無礼にあたる。
「何であの女に拘ったんですか。一目惚れしたんですか」
半笑いで茶化して聞いてみる。
「お前はおいをからかっとるとか?」
伝之助の冷たい視線に背筋がひやっとする。
「いえ、滅相もない」
からかっているのだがそう言うとここを無事に出られない。
「あん女、武士の娘とちごうかの。ちょっとした所作を見てそげな気がした」
歩き方や立ち振る舞いが様になっていると言う。
「そうですかね。武士の娘ならなんですか」
「お前はほんのこて鈍かのう。武士の娘がこげなとこで働く訳がなか」
そうか。何かの事情で働かされているのだ。
「じゃあ無理矢理働かされてるんや。それなら坂谷のことも良く思ってない」
「話を聞くにはうってつけ言うこつじゃ。お前の勘も馬鹿にはできんの」
鈍いと言われた直後に馬鹿には出来ない勘だと褒めてもらえた。
複雑だ。
しかし伝之助の行き当たりばったりの作戦がうまくいったようだ。
「失礼します」
先程の女が料理を運んできた。
膳に乗せた料理を二人の前に置く。
伝之助の前に置く時、女は伝之助の刀を暫し見つめたが、気にしない素振りで繕った。
「これはうまそうや」
白米に焼き魚の鯵、葉物のお浸しに豆腐の吸い物が付いている。
まだ昼になっていないからかあっさりとしている。
女は二人の前に正座し、手を付く。
「申し遅れました。私、千津(ちづ)と申します。どうぞお手柔らかに」
言うなり頭を下げた。
確かに武士の娘と言われればそんな気がする。
作法が様になっている。
それに先程伝之助の刀を気にしていた。
刀の置き方など知っているとすれば武士の娘の可能性もある。
「千津さん言うんか。えらい若う見えるけど」
「十八です」
千津は頭を上げる。
十八の娘は鈴味屋にもいるが、鈴味屋では女を無理矢理働かせてはいない。
「そうか。千津、おはんは武家の出か」
早速伝之助が問い質す。
千津は俯いたと思うと、僅かに体を震わせているように見えた。
やがて掠れる声で「はい」と答える。
「千津さん、何もあんたの事をどうこうしよ思てない。ちょっと話を聞きたいだけや。な?」
優之助は出来るだけ穏やかに言った。
少しでも千津の警戒を解かなければいけない。
「はい、何でしょう」
千津は顔を上げずにか細い声で言う。
もしかしたら今までに武家の娘と見抜かれ、嫌な思いをしたのかも知れない。
「千津さんは武家の娘でありながらなんでこんな所で働いてるんやろか。いや、何も詮索するわけやないんやけどちょっと気になったんや」
詮索するわけではないとは無理があるが聞いてみた。
千津は何も答えず俯いている。
「おはんがどこで働いてようがおいらには関係がなか。じゃっどん不当な理由で働いとうもんなら改めてやれんこつもなかち思っての」
無駄に希望を抱かせる事になるかもしれないのに、そんな事を言って良いのだろうか。
案の定、千津は表情を明るくさせ顔を上げた。
「それは私をここから出して下さると言う事ですか」
「おう。出して生きられるよう考える」
できなければどうする。
そう思い伝之助を見るが、伝之助は意に介していない。
「でも私、坂谷さんにお金を返さんといけません」
坂谷に金で縛られているのか。
「千津さん、詳しく話してくれるか?」
千津はしばらくためらっていたが、やがてぽつぽつと話し出した。
千津の家は下級武士の家で母と内職をして家計を助けて暮らしていた。
家の跡取りとなる二つ下の弟と父で家族四人、慎ましく暮らしていた。
しかしそんな平穏が一日にして崩れた。
ある日父が浪人に因縁を付けられ、浪人を数人連れて家に帰ってきた。
大人しい父は言われるがまま金を払おうとしたが、気の強い弟がそれを止め、口論の末刀を抜いた。
それを皮切りに一人が刀を抜き、躊躇なく弟の手首を斬った。
父が止めに入ると父の無防備な腹を斬った。
浪人は幾度となく二人を斬りつけ、斬殺した。
呆気なく父と弟が目の前で死んでしまった。
浪人たちは逃げ、奉行所に訴えるも未だに捕まらない。
母は大層嘆き体を壊してしまった。
忽ち生活は立ち行かなくなり、家を出て行かなければいけなくなった。
そんな時、坂谷が現れた。
住まいを用意し、金を貸し、母の面倒を見させてやる。
その代わり島薗で働けと言われた。
千津はそれがどういう事かわかっていたので躊躇したが、生きて行くにはそれしか道が無いと悟った……
千津は目に涙をため、しかし決して流すまいと懸命に堪えながら話した。
「なんて酷い話や……どうせ坂谷が仕組んだんや。あいつ人間やない」
優之助は拳で膝を叩く。
千津の悔しさ、悲しさ、やりきれなさを思うと、とても許せない。
知った以上は他人事で済ませられない。
しかしどうすればいいのか。
「ええ、坂谷さんの部下に絡んできた浪人がいるように思いますので恐らく仕組まれての事でしょう。しかし私はもうどれだけ足掻いてもこの島薗に絡み取られて抜け出せなくなってます。あなた様方に出してもらえると言われた時は舞い上がりましたが、今こうして改めてお話をするととても無理だと思い知りました。それにこの柴蝶屋には私以外にも武士の娘が多数働いています。私だけが助かるわけにもいきませんし、私の話は忘れて下さい」
千津は手をついて頭を下げた。
柴蝶屋の雰囲気がどんよりしているのは他の店に比べて武士の娘が多いからなのだろうか。
柴蝶屋に限った事でも武士の娘に限った事でもなく、この島薗には千津のような女が何人もいるのだろう。
噂通りだとそう言う事だ。
「千津。おいらはな、坂谷を潰すつもりじゃ。助けるんは千津だけでんなか」
伝之助が静かに言うと、千津は驚いて顔を上げた。
「奉行所の人間が島薗を調べちょった。そいを疎んじた坂谷がそん人間を殺した。そいをきっかけに今奉行所が血眼でこん島薗を調べ上げとる」
千津の目にまた希望の光が宿る。
「お二人は奉行所の方ですか」
「うんにゃちごう。おいらは奉行所から目を付けられちょる二人じゃ」
「え……」
瞬く間に千津の目に宿った希望の光が消えて行く。
「色々あっての。おいらは坂谷らが奉行所の人間をやったち思っちょるが、奉行所んの中にはおいらが坂谷から依頼されてやったち思っちょるもんもおる。おいらが生き残るには坂谷を潰すしかなか。おはんの知っちょうこつ、話してほしか」
千津はしばらく逡巡したが、やがて僅かな希望に縋るように頷いた。
島薗の女の間でも坂谷が黒木(くろき)を手に掛けたと噂が立っており、改めて坂谷に対して恐怖が募っている。
その恐怖の為、口外しないよう皆口をつぐんでいる。
千津はその危険を冒し、恐怖に打ち勝って優之助たちを信用し話してくれた。
「しかしどうやって攻め込むんです?」
柴蝶屋を出るなり、優之助は早速伝之助に尋ねる。
「ただ攻め込むだけじゃあ意味がなか。ないか証拠を上げんと奉行所も納得せんど。そん上で金を取り戻すとじゃ」
伝之助が言ったように奉行所と同じく証拠を揃えてから攻め込む必要はないが、攻め込んだ後には奉行所を納得させる何かが必要なのは違いない。
「証拠ですか。あの紙は盗まれたしなあ。もう焼かれるなりされてますかね」
「さあの。じゃっどんあん紙は坂谷にとってもお前に依頼したち言う証拠にもなる。自分はやってない、やったんはあいつらじゃち言う最後の足掻きとしてまだ残しとるかもしらん」
「それええんか悪いんか……それにしてもどこにあるかですね」
聞くまでもなく坂谷の屋敷にあるのだろうが、何となくそう言ってみる。
「紙を取り戻しただけじゃどうにもならんど」
伝之助は歩きながら横目で優之助を見る。
そんな事はわかっている。
紙を取り戻したら万事が解決するわけではない。
「わかってますよ。そう言えば黒木さんは刀で斬られたんですかね」
「さあの。どげんして殺されたんかの。奉行所からは黒木が殺されたち言うだけで、詳しいこつはないも出ちょらんの」
それも調べてなかったのかと思ったが、それを言うと自分も何を言われるか分かったものではない。
藪蛇になる。
しかし伝之助も所々抜けている。
「もし斬られてたらその斬った刀を回収出来たらいいんですけどね」
「お前中々よかこつ言うの。まずは黒木がどうやって死んだかじゃ。川から上がった言うのは聞いたが、斬殺か毒殺か撲殺か、そこんところはわからん」
いい事を言ったのだろうか。
まずい事を言ったのかも知れない。
もし斬られたとして、その刀をどうやって回収するのだ。
きっと伝之助の事だ。
正面突破を考えるだろう。
それだと命がいくつあっても足りない。
島薗を出て歩いていると鈴味屋が見えてきた。
「鈴味屋に寄っていこかな」
無性におさきに会いたくなった。
きっと千津に会ったからだろう。
千津の様な悲しい運命の女をこれ以上増やしたくないと思った。
その想いとおさきと会う事はあまり関係ないかも知れないが、おさきに会いたくなったのだ。
「お前はもう条件反射ち言うやつじゃの」
伝之助がこれ見よがしに呆れる。
優之助はどんな態度を取られようとも平気だった。
「何とでも言うて下さい。今日は朝から動いてあまり進歩無しです。ちょっと休憩しましょ」
「進歩はあったど。おいは黒木の殺害方法を調べ考える。お前は鈴味屋に行くなり好きにせえ」
これは願っても無い事だ。
無理矢理連れ回されると思っていたが、意外と言ってみるものだ。
「これはこれは。伝之助さんはあちこちで考えて下さい。俺は鈴味屋でゆっくり考えますわ」
「お前はおさきに会うて鼻の下伸ばすだけで脳みそは溶けていくばかりじゃろ」
何とでも言え。全く腹が立たん。
嘘やけど。
「じゃ、失礼します」
鈴味屋の前で伝之助と別れ、そそくさと鈴味屋へ入っていった