薩摩の家老

文字数 8,189文字

正吉が営む田島屋は意外にも京の町中にある。
町中だが栄えた通りから外れた所にある小さな宿屋だ。
暫く身を隠すには絶好の宿屋であろう。

まさか町中に潜んでいるとも思わないだろうし、その町中の宿屋の中でも目立たない。
だからややこしい浪人に目を付けられたのもあるが、伝之助も最初はその利点に目を付けて京での拠点にしようとして田島屋に入ったのだ。

金を払って利用するつもりが、成り行きで浪人達を追い払い、正吉の好意に甘える事となった。

木は森に隠せ、と言ってもあまり外を出歩く訳にもいかない。
奉行所が京中の宿屋を隈なく探し出したらいつか見つかる。
田島屋はあくまで一時的に身を隠す場所でしかない。


「どうじゃ傷は?」

翌日の昼過ぎ、淳巳がいきなり戸を開けて尋ねてきた。

「ないじゃ淳巳さあ。今日も来てくれたとか」

伝之助は暇を持て余し、書物を読んでいた。

「薩摩屋敷の帰りに寄っただけじゃ。ここから薩摩屋敷は割と近いからな」

そう言う淳巳の住まいは薩摩屋敷のすぐ側で、田島屋に寄るにはわざわざ足を運ばなければいけない。

「そうか、あいがとな。傷は痛むが縫ってもらったち、大丈夫じゃ。薬も飲んだど」

伝之助が言うと、淳巳は「見せてみ」と包帯を解き傷口を確認する。
消毒し直すと、包帯を巻き直しながら話し出す。

「伝之助。お前、何やえらい事したんやな。すっかり町で噂になって奉行所が血眼で探しとるぞ。薩摩屋敷でもあの坂谷の屋敷にどこかの侍が一人で襲撃かけたと専ら話題じゃ。どうやらその侍はお前のようやな」

淳巳は頑固で癖があるが、淳巳なりに心配しているようだ。

「そうか。そいははようけりつけんとな」

伝之助はそんな心配を他所に敢えて呑気な様子で言うと、巻き直してもらった包帯を確認し、再び書物を手に取る。

「お前二十六人も斬ったんやてな」
「一々数えちょらんかったで知らん。そげに斬ったとか。そりゃあ奉行所も血眼じゃ」

伝之助は他人事のように肩を震わせて笑う。

「阿保、わろてる場合か。そりゃそない大人数と斬り合って、光影流の遣い手とも斬り合って鉄砲まで撃たれてたら無傷な方がおかしいわ。逆にようそんだけで済んだもんやで。お前正吉さんに話してなかったんやな。目剝いて驚いてたぞ。連れの黒木りんて子が来るて聞いてたのに、えらい返り血浴びて怪我した伝之助も来たからどないしたんかと思ってたみたいや。いつまで匿ってくれる事やらな」

淳巳はただでさえへの字に曲がっている口を更にへの字に曲げて腕を組む。

「出て行けち言われれば出て行く。正吉さあには迷惑かけれん」
「正吉さんはそないな事言わはれへん。今回も何も聞かずにお前をここに置いてくれてるやないか。お前にさぞかし恩義を感じてるからな」

伝之助は言葉を返せず目を逸らすと書物を閉じた。
淳巳は構わず話を変えた。

「それより伝之助、京の薩摩屋敷で少し前からお勤めになられてる薩摩の家老、松尾様は知ってるか」
「松尾さあち言うたら、松尾(まつお)幸則(ゆきのり)さあか」
「そうや。知ってるんか」
「ああ知っちょう。松尾さあには世話んなった。そうか、今は京に勤めておられるとか」

そこで伝之助はふと思い当った。
確か黒木が薩摩屋敷を訪れた際、伝之助に興味を抱いてあれこれ聞いてきた家老がいると言っていた。

「そいで、松尾さあがどげんした」
「今日お会いしてな。もし伝之助の居場所を知ってたら今夜、屋敷の裏口に来てくれと伝えてくれと言われた。どこで情報仕入れたか、わしが診てる言う事を確信してはった。それを見越してわしに頼んだんや」

淳巳は少し委縮しているように見えた。

「そうか。わかった」
「行くんか」
「おう」

快活に返事をすると、淳巳は色々小言を言ってきたが適当にあしらい、帰した。


現在薩摩藩家老の一人である松尾幸則は、半年程前より京の薩摩屋敷に勤めていた。
幼少の頃より現藩主に仕え、その為江戸暮らしが長く薩摩言葉は話さないが、薩摩御留流(おとめりゅう)の剣術、剛刃流(ごうじんりゅう)の遣い手だ。

現藩主になった時、新たな取り巻き達は前藩主の取り巻き達を失脚させた。
当然伝之助の存在も邪魔となったが松尾は違った。

藩主に口添えし取り巻き達を言いくるめ、伝之助も三岳(みたけ)の家も守ってくれた。
当初は新たに藩主の護衛をと交渉していたが、さすがにそれは叶わなかった。

薩摩を出て行く時、見送りに来て詫びてくれた。
そして何かと物入りだろうからといくらかの金も持たしてくれた。

それきりであったがこう言う形で再会とは……いや、罠の可能性もある。
行けば奉行所の連中が待ち構えていて――とそこではっとした。

「疑うこつばかりしとるのう。優之助に言われたとこじゃったの。松尾さあはおいが京おるち知って会おう思っただけじゃ。きっとそうじゃ」

伝之助は自分に言い聞かせて言った。


りんと共に夕飯を済まし出る事を伝えると、周囲に注意しながら薩摩屋敷を目指した。
幸い田島屋から薩摩屋敷は近い。

他の武家屋敷に比べると質素な造りの薩摩屋敷に到着すると、裏口に回る。

そこには中背で伝之助よりは細いが身体つきの良い男が立っていた。
松尾だ。

「松尾さあ」

松尾は月を見上げていたがすっと伝之助の方を向くと、端正な顔を綻ばせた。

「これは大山君、来てくれたか。もしかしたら警戒して来ないかと思った」

警戒する事も見通されていた。

松尾は頭がすこぶる切れ、二手も三手も先を読む。
家柄もあるが、その能力の高さから伝之助より五つ上の三十歳と言う若さで薩摩の家老をしている。

「正直最初は警戒しちょったがやめもした。松尾さあは騙し討ちをするような男とちごう」
「ありがとう」

松尾がにっこり微笑むのに対して伝之助は改まる。

「松尾さあ、そん節はお世話になりもした」

頭を下げて言うと松尾の微笑は苦笑と変わった。

「やめてくれ。私は君を憐んだり、礼を言われたいが為に尽力したわけではない。大山君を見込んでやった事だ。そして私が後一手及ばなかっただけさ。だから無用な気遣いは不要だ」

松尾は片手を振ってさっぱりと言った。
松尾にはこう言う器の大きな所がある。

「あいがとさげもす」

伝之助が言うと、松尾はまたにっこりと微笑み、すぐに真顔になった。

「それより、その腕は大丈夫か」

伝之助は羽織の中で左腕を吊っている。

「大したこつあなかとです」
「そうか、それはよかった。さあこちらへ」

薩摩屋敷の中へ案内される。
屋敷内も外観同様、質素なものであった。

小さな部屋がいくつかあり、その内の一つに通される。
松尾と伝之助が座ると同時に、予め言いつけていたのか女中が現れ、手際よく酒と鮪の刺身を用意する。

「まあ一杯やろう」

松尾は伝之助のお猪口に酒を注ぐ。
伝之助も松尾のお猪口に注ぎ返した。

乾杯――と杯を上げるもそこそこに、伝之助はさっと飲み干し、お猪口を置く。

「松尾さあ、ないごておいを呼びもしたか」

松尾はちびっと酒を飲むと、鮪の刺身を口に入れてゆっくり咀嚼する。

伝之助は松尾が鮪の刺身を飲み込み話し出すまで待った。

「大山君が京にいると聞いて久々に会おうと思った……と言っても信じられんか。もちろんそういう気持ちもあった。だが察しの通りそれだけではない。今日は大山君に頼み事があって呼んだ」

「そいはないですか」

松尾には借りがある。松尾の頼みとあれば応えなければいけない。

「まあ慌てずゆっくり飲みながら話そう。久々の再開を懐かしむと言う気持ちもあると言っただろう。それとも早く帰らないといけないのか」

松尾は伝之助に酒を注ぎながら言った。

「いえ、そげなこつはございもはん」

伝之助は座り直し、酒を飲んだ。

しばらく他愛の無い話をした。

伝之助が京に来るまでの話。
京に来てどうしていたか。
薩摩の様子、松尾の状況。

互いに話せる事と話せない事がある。
それは互いにわきまえ、必要以上に掘り下げず話し、笑い合った。

「松尾さあ。おいの今の状況、どこまで知っちょりもすか」

このまま他愛の無い話で時を過ごす訳にもいかない。
伝之助が不意に切り出す。

「どこまでか。細部までは分からんが、大まかは掴んでいると思う」
「そうですか。じゃったら話は早かです」

伝之助は簡潔に事の経緯を話した。

「そうか。それでその傷だけとはさすがだな。しかしそれ程多数相手によく立ち回ったな」
「数程大したこつはなかとです。忠誠心も我がの信念もなか、欲望と保身ばかりの奴です。そげな奴がどいだけおっても案山子を斬っちょるようなもんです。どれ程腕のある奴でも自分ん中に芯のなか奴は斬り合いで生き残れん。逆に腕が未熟でも揺るがぬ芯がある奴が相手じゃと不覚を取るこつもありもす。斬り合いは腕の良し悪しだけでんなかとです」

そう、坂谷の部下は坂谷に忠誠を誓っているわけではなく金に寄って来ただけだ。
そして斬り合いとなってもこの場から逃げ出したいであろうと言う奴ばかりだった。

「そうか。それは勉強になる」

松尾は朗らかに笑う。

「で、松尾さあはおいにないを言おうと思っちょりもすか」

松尾が笑うのをやめた。
すっと伝之助の目を見ると切り出した。

「そうだな。追って説明しよう」

松尾は酒を飲み喉を潤す。
伝之助は黙って促した。

「私が京に来た理由は帝(みかど)の信を得る為だ」
「帝の信を得る為……」

「ああ。今の日本は泥沼の政争が絶えない。当然だ。将軍家が将軍家の為に日本を動かしているのだから。それに追従するその他もあやかろうと利益を追求する。それでは駄目だ。藩ではなく日本を想い、我々は敵ではなく同志として日本を運営していかなければいけない。日本を真に治められるのは将軍ではなく帝だと考えている。日本を一つの国とする為に薩摩が帝の信を得る。信を得られたら他藩も巻き込み、いつの日か国を一つにまとめて国力をつけるのだ。それが今の薩摩の考えであり、私はその先駆けとして京に来たわけだ」

松尾は薩摩の情報を追われた伝之助に話す。
いや、薩摩の情報なのだろうか。

帝の信を得る目的は、藩の為に利用する場合が多い。
だが松尾は更に視野を広げて日本の為と言った。

頭が切れ、見聞を広めてきた松尾らしい発想だ。
薩摩内部には真意を漏らさず、帝の信を得られれば都合がいいぐらいで丸め込んでいるかもしれない。

つまり薩摩ではなく松尾の思惑であり計画なのだろうかと考えるが、別にどちらでもいい。
今の松尾の話は共感できるしそうあるべきだと思った。

いつかそのような考えを持った人々が多数現れる時代が来るかもしれない。

「すごか計画でごわすな。じゃっどん薩摩を追われたおいに話してよかでごわんそか」

松尾は目を逸らし、酒を手に取ると口に運ぶことなく置く。

「いや……大山君に話したのは君に頼みたい事の為だ。薩摩を追われた君に虫が良く気が引けるが、だから包み隠さず話した。誠意は見せた」

松尾は伝之助を見ると淀みなく続けた。

「私の頼み事は薩摩に帰り、もう一度力を尽くさないかと言う事だ」

「そ、そいは……」
虚を突かれた。

三岳の家、道場の仲間達、皆の笑顔が脳裏に浮かぶ。
帰られるものなら帰りたい。
道場で汗を流し、畑で泥に塗れて笑い合っていた頃の暖かさが、ふと胸に蘇る。

「大山君が薩摩を出てから三年が過ぎた。当時は私も力不足だったが今は違う。殿の信頼も厚く家老内での発言力も大きい。京での実績次第では筆頭家老になると言われている。今なら大山君を薩摩に戻すだけの力はある」

筆頭家老とは家老内で一番上の立場であり、藩主に次ぐ立場である。
この若さで筆頭家老が見えているとは、松尾はそれ程力があるのかと思った。

松尾は酒をくっと飲み、続けた。

「勿論以前のような人斬りをしろと言う事ではない。今話した計画を私の片腕となって薩摩の為、日本の為に働いてほしい。大山君がその気なら今度こそ周囲を説き伏せてみせる」

松尾は珍しく熱を帯び、前のめりになって力説する。
松尾もこの三年、さぞかし苦労したのだろう。いや、今も苦労の途中なのだ。

話に乗るのも悪くない。だが……

「おいも帰れるなら帰りたか。じゃっどんおいは帰れもはん」

皆を捨てては帰れない。
坂谷の事だけはけりを付けなければいけない。

「坂谷の事か?」
「いかにも。こんまま薩摩に帰ればおいのこつは諦めもんそ。じゃっどん残されたもんはどげんなるやらわかりもはん。いや、そげな意味でならわかっちょりもす」

拷問の挙句優之助は殺され、りんや千津は坂谷の奴隷となる。或は自害するかもしれない。
鈴味屋や優之助の実家にも飛び火するかもしれない。
いずれにせよ、誰も良い方には転ばない。

それがわかっていて全てに目を瞑り、自分だけが良いように暮らすわけにはいかない。

「私は薩摩の為なら何だってする。しかし大山君はそうではないのだな」
「おいは今でも薩摩が好きでごわす。じゃっどん筋を曲げてまで帰れもはん」
「薩摩が好きと言うのは意外だった。しかしそのいつかはもう巡って来ないかも知れんぞ」
「じゃったらそいまででごわす」

伝之助と松尾は互いに見合った。
松尾がふと溜息を漏らした。

「そうか。それ程決意は固いのだな。わかった。だが私は諦めない。いつか君を薩摩に戻す」

「先程もうそん機会はなかち言いもはんでしたか」
少し笑って言った。

「方便だ」
松尾も笑った。

「君は剣の腕だけでなく頭が切れ、度胸もある。そして過去に腐った国の運営を見てきた。君にとっては不幸な経験だったが、その経験により正しき事の為に、誰かの為に動く確固たる信念が出来た。大山君が薩摩の為に尽力する事で日本の為にも繋がると考えている」
「そげに持ち上げられても困りもす」

伝之助は照れくさそうに頭を掻く。

松尾は当時から伝之助の能力を買って留めようとしたのだろう。
結果的に去る事になったが、松尾が伝之助の為にしてくれた事は恩に着る事だ。
伝之助の事だけでなく三岳の家に飛び火しないよう計らってくれた。

松尾は薩摩の為、伝之助の為、両方にとって利となるよう考えてくれた。
頭が切れる松尾らしいやり方だ。

自分の要求を通す為に相手が不利を被って自分が利を得るのではなく、双方にとっていい条件となるよう考える。
そうする事で伝之助のように恩を感じて慕う者が出る。

結果的に自分にとって更なる利を得た事になる。
だが綺麗事ばかりではいかない。
どうにもならなければ冷酷に命令として要求を通すだろう。

伝之助が感心してそんな事を思っていると、松尾は急に真顔になった。

「しかしこの先どう考えている。相手はあの坂谷だぞ」

松尾の言い方が気になった。

松尾程の者が「あの坂谷」と言った。
つまり一筋縄ではいかない、並の武家なら二の足を踏んでもおかしくない相手と言う事だ。

「松尾さあ、坂谷の後ろについちょる武家はどこの武家かわかりもすか」

坂谷は有力な武家に通じているという噂だ。

「ああ。近江、彦根藩の上級武士が後ろで糸を引ているようだ。何という名の武家かは調べてみないとわからんが、彦根は将軍と近しい。相手によれば厄介だな」

さすがは松尾だ。
京に来てまだ長くないと言っているが、ここまで情報を得ている。

「彦根の上級武士か……松尾さあ、そいつを何とか出来んとですか」

ここで松尾を巻き込まない手はない。
薩摩の後ろ盾を得るべきだ。そう思った。

「何とかと言われてもな。薩摩が彦根に弓を引くとなればそれなりの理由がいる。いくら大山君の頼みでも個人の為に薩摩を動かすわけにはいかない」

ただでさえ薩摩は気風が猛々しい事や他藩を凌ぐ武力を持つ事で江戸から目を付けられている。
それに加え松尾は今、帝や帝に仕える公家から信を得ると言う重大な任務に就いているので、波風を立てたくないと思っているのだろう。
その為松尾は及び腰だ。頭の切れる松尾には珍しく目先の事しか見えていない。

伝之助は攻めて出た。

「直に筆頭家老となられる松尾さあが恐れをなしもすか」

伝之助は大袈裟に驚いた。

「何を言う。薩摩も私も彦根になど恐れをなさない」

江戸暮らしが長かったと言え、松尾の中身は生粋の薩摩人だ。
伝之助の言葉は松尾を焚き付けたが、こんな言葉一つで熱し、簡単には動かない。国を背負っているのだ。

もう少し駆け引きが必要だ。

「そいじゃあ薩摩の威信に賭けてこん度んこつ、ないかしもすか」
「何かしたら薩摩に戻ってくれるのかね」
「そいは……」

伝之助は沈黙した。

これが終われば薩摩に帰れという事か。
薩摩に帰る事は願ったりかなったりだが、もう少し京にいたいとも思う。

交渉の余地がありそうだ。
こちらの要求を最大限通し、相手からの条件を最小限にする。
そう言う駆け引きが必要だ。

「おいはもう少し京におりたいち思っちょりもす」
「そうか。それじゃあ――」
「松尾さあ、先程薩摩ん為ならないでもするち言われもした」

伝之助が無礼と承知しながらも松尾の言葉を遮って言った。
そして続けた。

「ないもおいの為に薩摩を動かしてくれち言うわけでんなかでごわす。坂谷は奉行所も頭を悩ます有名な悪人。薩摩が成敗すれば評判は瞬く間に上がり、京での発言権も増し、公家にも顔が利くようなりもす。そいだけではございもはん。帝まで薩摩の評判が届くやも知れぬ。更に彦根の武家を抑えたちなると、他藩もやはり薩摩はすごかちなりもす。帝の膝元、京の治安の為にやるこつなれば、将軍家も口を挟めもはん。こいは好機でごわす。そいに早くもそげな手柄を上げたとなっと、松尾さあの薩摩でん立場はもはや揺るぎなか」

伝之助は口を挟む暇も与えず一息に言い切った。
松尾は口を開けて伝之助を見る。

「大山君、君はいつからそんな策士になった」

優之助の顔が浮かぶ。
あの口八丁手八丁の男の真似をするのは癪だが、今回は役に立った。
それに優之助のように筋も何もなく言いくるめたのではなく、筋道を通し、理論で言い伏せたのだ。

どうやら効果はあったようだ。

「おいも人を斬るだけしか能がなかと違いもす」

笑みを浮かべ、そう言うに留めておいた。
それを聞いた松尾はふっと笑った。

「さっきも言った通り君は優秀な男だ。上手く言いくるめられた気がするが、まあ確かに君の言う通りだ。わかった、薩摩が介入しよう。大山君を薩摩に戻す事はまた今度だ」

松尾は考え直した。

京に来た目的をこれによりぐっと縮められるのではないか。
それだけでなく伝之助を薩摩に戻すきっかけが出来た。
それに事を成した後の他藩の評価によっては、日本を一つにと言う今後の計画も進めやすくなる。

将軍家に目をつけられると言っても今更だ。
こうなれば逆に薩摩侮るなかれと言う事を骨身に染み込ませた方がいい。
江戸も彦根が裏から糸を引いて京の治安を乱している以上、表立って手は出せない。

松尾は今の短い間でそこまで考えていた。
つまり危険少なくして大きな利を得る絶好の機会だ。

「松尾さあ、もう一つ頼みがございもす」
「なんだ。もうこの際何でも言ってみたまえ」

松尾は苦笑しながら諦めたように言った。

「そいでは遠慮なく。今おいは、ある宿に世話になっちょりもす」

伝之助はどこの何という宿かは伏せ、りんの境遇、人となりを簡単に話し、りんを匿っている事を話した。

「いつまでもそん宿には置いとけもはん。そいでりんを薩摩屋敷に置いてほしかでごわす」

松尾は難しい顔をして押し黙った。

あれこれ考えているのだろう。
やがて松尾が口を開く。

「薩摩にとってどこの誰か分からない人間を簡単に薩摩屋敷へ置く訳にはいかない」

それは百も承知だ。それを承知の上で頼んでいる。

そんな事は松尾もわかっており、打開策を考えていたのではないのかと思い始めた時、松尾が続けて言った。

「要するに立場をはっきりさせ、どこの誰かがわかっていればいいわけだ」

松尾は悪戯っぽく笑った。
伝之助は松尾の考えている事がわからなかった。

「ないか妙案があるとですか」
「ああ、ある。それには大山君、やはり君には薩摩へ戻り、薩摩の為に働いてもらわなければならない。もちろんさっき言った通り今すぐでなくてもいい。だが数年の内、そうだな、私が薩摩に帰る頃には必ず共に戻ると約束してほしい。そうすれば全て丸く収まる」

すぐでなくとも数年の内……それなら自分にとっても良い条件だと思った。

「そいでよかでごわす。おいも先程言うた通り、いつかは帰りたいち思っちょりもす」
「なら決まりだ。では妙案を話そう」

松尾の策は確かに良い案だった。
しかし伝之助は気が重たくなった。
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