第2話

文字数 3,379文字

 前に会ったときと同じ、真史の働いている施設の最寄りの駅前で、待ち合わせた。そこから、「ちょっと付き合って」と言われてやってきたのは、砂漠だった。
「へえ、なにここ」
「いいだろ? 砂丘だよ。わりと気に入っててさ。たまにふらっと来るんだ」
 ざくざくと砂を踏んで歩く。風が吹くと、パーッと砂が舞い上がり、目に入りそうになってあわてて顔をそむけた。
 日没が早くなってきたせいか、まだ夕方の四時過ぎだというのに、あたりはぼんやりとした淡い光に満ちている。空の低いところには雲が出ているが、砂山のなだらかな曲線の端のほうが鮮やかなオレンジ色に染まっているのは見えた。
 昼間は観光客がいたのだろうか。砂には足跡がいっぱい残っていた。今はそれほど人影はない。真史の後ろについて歩くうち、あまり人が入り込まないあたりに来たのか、足跡はだんだん少なくなった。代わりに、等間隔に並ぶ細い曲線が、美しい模様をまだ残している。
「風紋だよ。このへん風が強いから」
 真史は、砂山をゆっくりと歩いていく。
 十一月も終わりの風は、ずいぶん冷たかった。それに、意外に強く吹きつけてくる。顔に砂が当たるとけっこう痛い。口の中が、なんとなくじゃりじゃりしてきたような気もする。
 いつまでも砂しか見えないので、本当に砂漠の中を歩いているような気がしてきた。靴には砂が入るし、なかなか歩きにくい。どこまで行くのかと思っているうちに、砂丘の低い盛り上がりを越えた
 視界を左右に横切るような水平線が、目に飛び込んできた。
「うお、海!」
 海辺から離れたところで暮らしているものはみんな同じだろうと思うが、洸太も思わず、見ればわかることを口走った。
 そういえば、歩いているときも、波の音がずっと聞こえていた気がする。風の音と入り混じって、どっちの音かよくわからなくなっていた。目の前の海は、その時にイメージしていたものよりも、ずっと大きく広がる風景だった。
 薄暗くなり始めた空と、それに接する海と、絶え間なく寄せてくる波。浜に近づくほどに、波頭が崩れて白く泡立つ。
 水平線も波も、視界の右から左までいっぱいに広がっている。右手の方の空は、夕日に染まる雲の切れ間から光がもれているが、左手のほうに視線を移すと、空はだんだんと濃さを増していく。そして、奥の方で暗い水平線と接していた。
「へえ、こんなとこがあるんだ。すごいなあ」
 しばらく無言でその景色に見入っていた。遠くに、歩く人の姿が見える。日暮れの空を飛んでいくのは、カモメだろうか。
 それから、海を眺めている真史の背中に、声をかける。
「これ、預かってきたんだ」
 振り向いた真史のとなりに並んで、大きめの封筒を差し出す。
「患者さんたちから、お礼の手紙。というか、ファンレター」
「は? なにそれ」
 封筒の中には、かわいらしい便箋を折りたたんだのや、キャラクターのイラストのついた封筒なんかが、いくつか入っている。
「こないだのコンサート、評判がよかったんだって。で、見に来ていた人からそうやって何通か手紙をもらったので渡してください、って」
「へえ、ほんとに? ふうん」
 ちょっとうれしそうな顔になって、真史は封筒に手をつっこみ、取り出した便箋を開く。子供のものらしいたどたどしい文字が書かれているのが、少し見えた。
「なんて書いてあるの?」
「え? ああ、楽しかったです、って。『わたしは、りゅうのうたがすきです』って。最後のやつのことかな」
『またきてください』って、そんなこと言われると困るなあ、などと照れくさそうにつぶやく。
「ありがとな」
 手紙を読む真史に、さりげなく言う。
「いや、全然、こっちこそ」
 手紙から、真史は顔を上げた。
「千波ちゃんは、どう?」
「うん、だいぶいいよ。ちょっとずつ、リハビリ始めてる」
 数か月ぶりに意識が戻った千波は、それでもまだ、すぐに話をすることは難しかった。
―少しずつリハビリをすれば言葉は出るようになるし、運動機能も回復するでしょう。
 そう言った医者も、どこかほっとしているように思えた。
―一緒にリハビリがんばりましょうね。
 吉田さんがそう言ってくれたときには、洸太は不覚にも涙が出そうになった。
「そっか、よかったな」
「ああ、ありがとう、お前のおかげだ」
「そんなことないよ。そろそろ目の覚めるころだったんじゃない? 千波ちゃん、寝てるのに飽きてさ」
「でも、お前、何回も来てくれたし、無理言ってコンサートまでやってもらったし……」
 真史は、聞いているのかいないのか、笑顔のまま手の便箋を見ている。
「おれ……」
 真史の手元に視線を注ぎつつ、洸太は思い切って言った。
「お前に、謝ることがある」
「……え? なに?」
 便箋を折り畳みながら、真史は顔を上げた。洸太はためらいながら、思い切って口を開く。
「昔、お前が東京に行く前、ひどいことを言った。金持ちじゃなくてよかったとか、迷うならやめてしまえとか……」
 ひといきに言った。言ってしまった。
 少し真史の反応をうかがっていたが、真史は、どこかきょとんとした顔をして、それから手の封筒を持ち替えた。
「なんだっけ、そんなこと、あった?」
「え……」
 がくりと気が抜ける。
「覚えてないのか?」
「いや、なんか話した記憶はあるけど……」
 少し考えるような顔をして、それから真史は海のほうに向かって二、三歩歩いた。そのまま、波の砕ける様子でもじっと見ているようだ。
「でもまあ、そうやって言ってもらえなかったら、たぶんおれは東京に行けなかったかも」
 そういう真史の横顔を、洸太は見つめた。
「お前も知ってたと思うけど、おれんちさ……」
 祖父の代からの不動産業で、確かに地元ではわりと裕福だった。父は入り婿で、山のようにレコードやCDを持っていたけど、それを聞くことは祖父の意に添わなかった。真史が父の部屋でレコードを聴くようになると、それをとがめた。真史はいつも祖父がいないときを見計らって、こっそり父の部屋でレコードやCDを聴いた。父はそのことをむしろ喜んでいたようだ。だが、北村家では祖父の意見は絶対で、父も母も逆らえなかった。
「おれは、姉と二人きょうだいで」
 遠くに視線を向けて、真史は続ける。
 祖父は、真史が幼いころから、家を継ぐように、と繰り返していた。だから自分でもなんとなく、そうなるんだろうなと思っていた。同時に、姉がいるのにと思うと、なんだか釈然としない気持ちもあった。
「で、さ。大学入ってバンドを始めたら、これがすごく楽しくて。デビューの話が来たときは、というか、その時はまだ、東京に行くっていうだけの話だったけど、うれしくて、でも家のことをどうしようと思って」
 苦笑いのような笑顔になる。
「たぶんお前と話したのって、そのころだった気がする」
「……そうなんだ……」
「それで、実家に帰ったときにじいさんに言ったんだ。東京行ってバンドやりたいって。じいさん、三年だけなら許す、って言ったよ。でもそんなの、おれは納得できなかった。おれのじいさんさ、ちょっと血の気が多くて、すぐ手が出るんだ」
 言いながら、片手を振ってみせる。
「それでそんときも、じいさん、話してるうちにちょっと興奮してきちゃって、そのうちもみあいみたいになって、というか、投げ飛ばされて」
「え……」
「まあこっちはさ、年寄り相手だからちょっと遠慮してるじゃん。そしたらまんまとやられちゃって、柱かなんかで頭をぶつけたんだよ。けっこう強烈に。ちょっと意識なかったし」
 洸太は、ぎょっとする。
 そのせいなのかどうかはよくわからないけど、と真史は軽い調子で続けた。
「運よくデビューできて、しばらくは無我夢中で、わけもわかんないまま必死だったな。だんだん、周りの様子が見えてきて、歌の感じも、少しずつやれるような気がしてきて。でも、今思えば、東京に出たころにはもう、ちょっとなんかおかしかったんだ。ずっと、頭痛とか耳鳴りがしてたし。でも、どうしてかよくわからなくてさ。環境が変わったせいだと思って、気にしないようにしてたんだけど。ライブをやってくうちに、だんだん変になってきて。なんとかだましだましやってた。耳が変なんて、誰にも言えなかったし……」
 少し、間があった。真史は海のほうを見たままで、その横顔は、やっぱり少し笑顔のように見える。
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