第2話

文字数 2,543文字

 二、三歩近づいてから、足を止め、戸惑ったように振り向いた。洸太は、軽くうなずいてみせる。それに勇気を得たように、もう少し近づいた。
「……千波、ちゃん……?」
 洸太もそのとなりに立って、一緒にベッドを見下ろす。真史が問いかけるように洸太を見るのに、もう一度うなずき返す。真史は少しショックを受けたように、ぎこちなく千波に視線を向けた。そのまま、しばらく黙って千波を見つめている。
 洸太は、となりに並んだままじっとしていた。
 ずいぶん長いこと、真史は無言だった。
 途中で洸太は一度部屋を出て、缶コーヒーを買って戻ってきた。いすを勧めて缶コーヒーを差し出すと、真史は黙って受け取った。
 洸太は、簡単に状態を説明する。千波をじっと見つめたまま、時折聞き返しながら、洸太のひとことひとことに真史はうなずいた。
「そうなんだ……」
 はあ、とため息のような息を吐いた。
「どれくらいになるって?」
「えーっと、もう二ヶ月以上たったかなあ」
「そんなにか……」
「まあ、こいつは寝てるだけだからさ。時間とかわかんないだろうし」
「いや、お前」
「おれ?」
「よくやってるなと思って」
 そんなこと、誰にも言われなかった。
「おれは、別に……」
 どう返せばいいのかわからず、ごにょごにょと意味のわからないことを口走った。
「そうだ、聞くか? テープ」
 あたふたと立ち上がり、ごまかし気味に棚のカセットデッキに近寄る。
 再生ボタンを押すと、もう数え切れないくらいに聞いて耳にすっかりなじんでしまった音が、流れ出した。
「へえ、言ってたやつか、これ……」
 真史は、不思議そうな顔になった。曲に合わせて軽く手で拍子を取り始める。
「ふうん。おれの声だよね」
「だから、お前だよ。千波にやったんだろ、バンドの歌、録音して」
「……まあ、そんなこともあったかなあ……」
 思い出そうとするように、首をひねる。
「千波ちゃん、ずっと持ってたんだ」
「かばんに入ってたんだよ。事故の時。うち、カセットデッキなんてもうないから、聞けないのに」
「ふうん……」
「だから、よっぽど好きだったんだろうな、って思って。お前の歌」
 真史はもう一度、じっと千波の顔を見つめた。
「千波ちゃんの好きな歌って、わかる?」
「え、なんだろう、お前のバンドの歌は好きなんじゃない?」
「どうかな」
 少し笑って、なにかを考えるように宙を見ていたが、真史はゆっくり立ち上がった。
「ほんとにいいのか?」
 確かめるように聞く。真史は、うなずいた。洸太は、カセットテープを止めた。
 少し目を細めて、片手を軽く握り、聞いたことのあるJ―POPの歌を、真史は歌い始めた。
 白い壁や天井に、真史の芯のある声が、広がる。
 強烈に、懐かしい思いがした。
 この、声だ。
 初めて聞いたとき、胸に刺さってきた声。
 ライブに比べたらずいぶんと抑えているようだったが、それでも、当時のことがありありとよみがえってくる。
 真史は続けてもう一曲歌った。今度は知らない歌だった。薬品のにおいのする白い病室が、真史の歌う歌でいっぱいになるような感じがする。
 もう、歌えない?
 どこが?
 全然大丈夫なように、洸太には思えた。
 前と変わらない、真史の歌だった。
 そのとき、病室のドアがノックされ、ガラガラと開いた。
「あれ、ごめん、お客様だった?」
 顔をのぞかせたのは、晴美だった。
 真史はおどろいた顔で歌うのをやめた。
 洸太も、少し目が覚めたような感じがした。
 晴美ははっとしたように真史と洸太を交互に見た。それから、「あ!」と声を上げた。
「もしかして、バンドの? なんだっけ、ま……」
 洸太はあわてて割って入った。
「大学ん時の友達で、北村真史っていって、千波の見舞いに来てくれたんだ」
 そして、真史に向かって続ける。
「会社の先輩の、岸さん。ときどき来てくれる」
 真史はぎこちなく頭を下げ、晴美は、申し訳なさそうな顔で、お辞儀をした。
「ごめんなさい、せっかく歌ってくれてたのに……」
「岸さんには、お前のこと、少し話したんだ。テープのことも」
 ようやく少し、真史は納得したような顔をした。どことなくこわばっていた表情が、見慣れた穏やかなものになる。
「初めまして、北村です」
「岸です。あの、すいません、邪魔しちゃって」
 晴美は、また頭を下げる。
「あ、いえ、こちらこそ、うるさくして」
「そんなことないです。テープかと思ったから、びっくりしちゃって。ほんとごめんなさい。もしよかったら、改めて、歌ってほしいな、って」
 真史は、少し困ったような顔で洸太を見た。
「千波に、聞かせてやってくれよ」
「いいのかな、こんなの」
「いいに決まってんだろ」
 苦笑を浮かべて、それでも真史は姿勢を正して、再びすうっと息を吸った。
 カセットテープの最初に入っている、英語の曲だった。晴美がうれしそうに目を輝かせる。
 いったん現実に戻っていた白い病室が、また、鮮やかな色に染まる。
「すてき!」
 歌い終わった真史に、晴美が拍手をする。困ったような顔で真史はすとんといすに座り、そして千波をのぞきこんだ。
「どうかな、ダメかな、おれの歌なんかじゃあ」
 千波は、相変わらず静かに目を閉じている。頬はうっすらピンク色をしているが、その目が開く様子はなかった。
「いいって。そんなにすぐには無理だろうし。でも、ありがとな」
「なんか、悪いな」
「そんなことない。わざわざ来てくれて。目は開けないけど、きっと聞こえたよ」
「だといいけど」
 病院の玄関まで、洸太は真史を見送った。
 手を振って歩いていく真史の後ろ姿を見ながら、洸太は不思議な気分に浸っていた。
 数年ぶりに聞く真史の歌は、どこがおかしいのか洸太にはわからなかった。なんだ、全然歌えるじゃないか、と思う。伴奏もなにもない中で、病室での抑えた声とはいえ、やっぱりうまいな、と感嘆と懐かしさの混じった思いがわく。
 その一方で、やっぱりだめだったか、という気もした。すぐに結果が出るわけじゃないとわかってはいても、期待していた自分がいる。
 千波。
 どこまで行ってる?
 早く、帰ってこいよ。
 ただ待ってるのもなかなかしんどいな、と思った。
 少し、風が強くなった。
 洸太は首をすくめ、ポケットに手をつっ込んで、病院の中に戻った。
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