第2話

文字数 2,870文字

 朝から、気持ちよく晴れていた。ときどき吹く風は、さすがに少し冷たい。
 洸太は、普段仕事に行くときと同じようにスーツを着て鞄を肩にかけると、コーポの玄関を出た。最近、すっかりひとり暮らしに慣れてしまっている。奥の和室に人がいないのも、不思議に思わなくなってしまった。たった三か月ほどしかたっていないのにと思うと、なんとも言えない気分になる。
 この部屋に、ふたりで戻ってくることが本当にあるのか。
 洸太は頭を振って、その考えを振り払った。
 昨日会社を出るとき、長谷川にも少しだけ話をして、病院でもらってきたちらしを渡した。
―妹の病院で、ミニコンサートをやってくれることになったんです。その……、前言ってた友達が。
 ちらしには、『外科病棟 秋のミニコンサート』と大きく書いてあり、その少し下に真史の名前が入っている。長谷川は、めずらしくその細い目を少し大きくして、それをじっと見た。それから、小さく一、二度うなずいて、行けそうなら顔を出す、と続けた。洸太はそれ以上は言わなかったので、本当に来るのかどうかはわからない。
 それに、もうひとり来るかもしれない、と思い出す。そっちは、長谷川よりももっと可能性は低いだろうけど。
 昼ごろに千波の病室に着くと、真史がもう来ていた。
「よ」
 手を上げると、いすに座ってベッドを見つめていた顔を上げて、少し笑った。が、なんだかそれが微妙にひきつっている。
「なにお前、その顔」
「なんだよ、昔からこの顔だよ」
「……もしかして、緊張してんの?」
「……悪いか」
 ぶすっと唇をつき出して、ストレッチをするように真史は首を回した。
 軽い光沢のあるシックなジャケットに、濃い色のネクタイをして、黒いパンツをはいている。それが今日の衣装なのかもしれない。普段のラフな格好とちがうので、急に、真史がミュージシャンだったという事実を垣間見る気がした。
「人前で歌うなんて、いつ以来だろ。あーあ……」
「おじいちゃんたちに歌う時もあるって、言ってたじゃん」
「それとはちがうよ。ちゃんとお客さんが来るんだから」
 そう言ってから、そうか、誰も来ないってこともあるな、とぶつぶつ言う。
「そんなことあるか。とりあえず、おれと千波と岸さんは行くぞ」
 笑いながら、千波の上に身をかがめる。
 静かな呼吸の音が聞こえる。
「真史の歌が聞けるぞ。楽しみにしてたか」
 千波は、答えない。まぶたが、かすかにふるえた。
 洸太は体を起こした。
「準備とかあるんだろ。始まるの、二時半だったっけ」
「ああ、一時くらいになったら行ってくるわ。ちょっと簡単にリハもするし」
「ま、がんばれや」
「気楽に言いやがって。しかも、なんだよ、めずらしくスーツ」
「いや、ちょっとあとで仕事があるからさ」
「あ、そうなの?」
「でもコンサートは聞けるから」
 洸太は、持ってきたコンビニのおにぎりをそこで食べた。真史は、病院の売店で買ったというサンドイッチをほおばる。それから、「なんだかくせになっちゃったから、行く前にちょっとだけ」といって、千波に一曲歌った。
 真史が病室を出ていくのと入れ替わりのように、晴美がやってきた。
「あ、北村さん、がんばってね!」
 廊下を歩いて行く真史に手を振ってから入ってきた晴美は、すでに少し興奮気味だった。
「ね、いよいよだね。エレメントNRのボーカルの歌を、生で聞けるんだなあ」
 スキップするようにベッドのところまで来て、「千波ちゃん、おはよー」と声をかける。
「お昼は? なにか食べた?」
「おにぎり。晴美は?」
「来る途中で、食べてきた」
 洸太は、カセットデッキをつけようと立ち上がり、いやでもすぐ本物が聞けるんだと思い当たって、また腰を下ろす。時間を見ようと携帯を出して、すぐ鞄にしまう。
「なあに、なんか落ち着かないね」
「え、そう?」
「まあわかるけどね。私も、どきどきしてきたなあ」
 そうか、とちょっと納得する。緊張しているのは、真史だけじゃなかった。
 大学時代にライブに行ったときの、熱い気持ちがよみがえってくるような気がした。もちろん病院だから、あんな激しい選曲ではないと思う。それでも、胸の奥がじんわりとしてくる。
 鞄の中で、携帯が震えた。見ると、直樹からメールだ。今日のことだろうと思って開くと、意外なことが書いてあった。
 夕方の打ち合わせで使う書類を、先日祖母を訪ねたときにうっかりそこに忘れてきたのだという。自分は仕事で東京にいて、時間には間に合うように戻る予定だが、その書類を取りに行く時間がない、代わりに取りに行って打ち合わせのときに持ってきてほしい、と書いてある。
 先方の都合もあってこれ以上時間変更はできず、その書類がないと話が進まない、という。
 直樹の祖母の家が、偶然病院からはそれほど遠くないといって、住所も書いてあった。地図の画面を出してざっと見た感じでは、地下鉄に乗って一駅か二駅かという感じだ。
 少し迷った。
 洸太には、一度時間を変更してもらった借りがある。せっかくのバイトの話がなかったことになるのも、できれば避けたい。
 時間をすばやく頭の中で計算した。無理ならコンサートの後にしようかとも思ったが、それだと打ち合わせまでの時間が厳しそうだ。病院からおばあさんの家までの時間をざっと計算すると、往復で一時間くらいだった。今行けば、コンサートが始まるまでにはなんとか帰ってこられそう、と踏んだ。
 今から取りに行くからおばあさんにちゃんと連絡しておいて、と返信を打つ。すぐに直樹から、連絡しておくという返事が来た。
「え、今から出かけるの? コンサート、聞かないの? そういえば、なんでそんなスーツなの?」
「ちょっと、急な頼まれごとなんだよ」
 メールを見ながら、おどろく晴美をなだめる。会社に内緒でバイトをするとは言えず、スーツのことは無視して、友人の忘れ物を代わりに取りに行く、というだけの説明にした。
「コンサート始まるまでには戻ってくるから、ちょっと千波を頼んでいい?」
「もう、その直樹っていう人も、なんか図々しくない?」
「しょうがないよ。ちょうどおれが近くにいるらしいから」
 それでもまだ今ひとつ納得しかねる顔の晴美を残し、洸太は病室を急ぎ足で出た。
 地下鉄の駅まで急ぎ、駆け足でホームに降りた。が、休日ダイヤですぐに電車が来ない。少しいらいらしながら、やっと来た電車に乗り込む。
 二駅目で降りて、地上に出た。携帯で住所を確認する。
 大通りをまがって住宅地に入ると、似たような家の立ち並ぶ細い道を、奥に向かって歩いた。週末の住宅地はなんだか静かだった。その中を、カツカツと革靴の音を響かせて歩く。
 足を止め、携帯を出してまた住所を確認する。地図の画面で道をなぞる。
「あれ、この道じゃないのかな」
 きょろきょろと前後を見まわし、再び歩き出した。
 再び、四つ角で足を止める。
「ちがうな」
 住宅街はしんとしていて、誰も人が住んでいないかのように思えた。
 そうしてしばらくうろうろしてから、やっとそれらしいと思われる家の前にたどり着いた。
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