第6話
文字数 2,475文字
歌は、軽快なピアノで終わり、ひとしきり拍手がわく。
洸太はざっと見渡して、左側の壁際でストレッチャーに寄り添う晴美を見つけた。
近づいて、後ろからそっと背中をたたく。
「わ、すごい汗。走ってきた?」
振り向いた晴美は、ほっとした表情を浮かべて、大げさに息をはいた。
「よかった、もう来ないかと思っちゃった」
「ごめん」
千波の寝顔は静かだ。やっぱりだめか、と思いつつ、顔をステージのほうに向ける。
マイクを握りなおして、真史は少しためらうようにして話し出す。次が、最後の曲になります、と言った。
曲の紹介をするのかと思ったが、ちがった。
「こういう機会があると思わなかったので、聴いてくれた人やこの場を用意してくれた人に、とても感謝しています。ありがとうございます」
控えめな拍手が起きる。
それがおさまるのを待ってから、「実は」とためらうように話し始めた。
「昔、音楽をやっていました。でも、ある理由から、やめてしまいました。もう、歌えないと思ったからです」
洸太は、ゆっくりとした口調で話す真史から視線を外せないまま、いつの間にか晴美の腕をつかんでいた。晴美は、洸太を見て小さくうなずき、そして真史に視線を戻す。
「もう四、五年くらい前からでしょうか……」
少し言いよどむように、一度言葉を切った。
「耳が、片方聞こえません」
思わず晴美と目を合わせる。洸太は、急いで首を振った。
知らなかった。全然気づかなかった。
真史は、右の耳に手で触れた。
「耳のせいで歌をやめたのか、耳がだめでも歌っていく自信がなかったのか、たぶん両方だと思います。でも、ここにきて、病気やけがと闘っている方がたくさんいることを知りました。それで、やっと気がつきました」
そこでまた言葉を切り、考えるように少し視線を落とす。
もう一度顔を上げ、パイプいすや車いすに座っていたり、ストレッチャーに横になったままだったりする観客の患者たちを、ゆっくりと見まわした。
「今日は、ちゃんと歌えるか不安な気持ちで歌い始めたのですが、そうやって病院でがんばっている皆さんが、こんなに聞きに来てくれて、すごく勇気をもらえました。ありがとうございます。もう届かないと思っていた自分の声や歌が、少しでも届いているかもしれない、と思えました」
思いのほか、大きな拍手がわいた。
「最後になりますが、今日のこの機会を自分にくれた皆さんと、歌いたいと思います。この歌は」
いつの間にか、患者の間には白い紙が配られていて、洸太も回ってきた一枚を手に取った。歌詞が書いてあるようだ。
「ちょっとさみしい歌かなあと思いましたが、僕の友人が好きな歌なので、選びました。ご存知の方は、ぜひ一緒に歌ってください」
真史はマイクを構える。ピアニストの女性と目で合図を交わすと、静かなピアノの前奏が始まった。
それに重なって、柔らかく天井に響く、真史の声。
どこか懐かしい感じのする、英語の歌だ。
それは、あのカセットテープの最後に入っていた歌だった。
病室で、何度も聴いた。
でも、それとはなにか別のところで、この歌のなにかが引っ掛かった。なぜなのかはわからない。どこかで聞いて、記憶に残っていたのかもしれない。
そう思いながらも、胸のどこかが、ざわざわした。
そして、突然、昔の光景がよみがえった。
もあもあと湯気でいっぱいの浴室。
シャンプーを流すお湯の音。
すっかり忘れていた、記憶。
そうか、この歌だったのか、と思った。
こんな記憶があったなんて、不思議だった。もう、二度と思い出したくないと思っていたやつのことを、こんな風に思い出すとは、思いもしなかった。
正面のステージを見る。
マイクを握る真史が、ゆっくりとしたピアノに、言葉を乗せていく。片方の手を、曲に合わせて軽く振っている。
真史の声が、あたりの空気を包む。
耳が聞こえない、と言った。
でも、ちっともそれをうかがわせない声で、真史は歌っている。
軽く手拍子をする人、聞き入っている人、紙を見ながら口ずさんでいる人もいた。
それらの人の少し後ろで、じっと立ったまま聞き入っているらしいサラリーマンの男に、洸太は気づいた。少しぽっちゃりとして、きっちりスーツを着て、眼鏡の奥の細い目をもっと細めて、真史をじっと見ている。リズムを取っているのか、なんとなく体が揺れている。
本当に来てくれるとは、思わなかった。
そのままほかの患者たちの様子を見るうち、洸太は今度は、反対側の壁際にいるふたり連れの男の姿に、目を止めた。
手前にいるのは、俊哉だ。来てたのか。もうひとりはその向こう側に隠れてよく見えないが、見当はついた。
俊哉、本当に連れてきたな。
思わず笑みがもれる。
その時、急に晴美に袖を引っ張られた。なにかと思って振り向くと、ストレッチャーの千波の黒い瞳が、目に入った。
「ちな……」
真史の歌は、途中から日本語になっていた。
霧のたなびく海辺で、ひとり、暮らしていた、魔法の竜。
ある時、一緒に遊ぶ友達ができた。
来る日も来る日も、竜は友達と遊んだ。
でも、友達はいつか大人になり、海辺に来なくなった。
霧のたなびく海辺で、竜はまたひとり、暮らしている。
……
……
千波は、無言で目をあいている。
ゆっくりと、その目が閉じられる。あ、と思うが、またゆっくり開く。
焦点の合っていないような、ぼんやりした表情で、宙を見ている。
晴美が、無言で笑顔を向けてきた。洸太の腕をゆすぶりながら。
「吉田さん、呼んでくる」
そう言って、人波をかき分けていった。
「千波……」
おそるおそる、声をかけてみる。またすぐに目を閉じてしまうんじゃないかと思った。
「……お、にい……ちゃん……」
まぶしそうに目を細め、またゆっくりと瞬きをする千波の目じりから、涙がすうっと流れ落ちた。
洸太は、黙って千波の手を握った。
真史の深みのある声が、フロアに響く。
白い壁や天井を、柔らかな色彩に染めるように広がっていく。
ああ……、いい歌だな。
そう思った。
洸太はざっと見渡して、左側の壁際でストレッチャーに寄り添う晴美を見つけた。
近づいて、後ろからそっと背中をたたく。
「わ、すごい汗。走ってきた?」
振り向いた晴美は、ほっとした表情を浮かべて、大げさに息をはいた。
「よかった、もう来ないかと思っちゃった」
「ごめん」
千波の寝顔は静かだ。やっぱりだめか、と思いつつ、顔をステージのほうに向ける。
マイクを握りなおして、真史は少しためらうようにして話し出す。次が、最後の曲になります、と言った。
曲の紹介をするのかと思ったが、ちがった。
「こういう機会があると思わなかったので、聴いてくれた人やこの場を用意してくれた人に、とても感謝しています。ありがとうございます」
控えめな拍手が起きる。
それがおさまるのを待ってから、「実は」とためらうように話し始めた。
「昔、音楽をやっていました。でも、ある理由から、やめてしまいました。もう、歌えないと思ったからです」
洸太は、ゆっくりとした口調で話す真史から視線を外せないまま、いつの間にか晴美の腕をつかんでいた。晴美は、洸太を見て小さくうなずき、そして真史に視線を戻す。
「もう四、五年くらい前からでしょうか……」
少し言いよどむように、一度言葉を切った。
「耳が、片方聞こえません」
思わず晴美と目を合わせる。洸太は、急いで首を振った。
知らなかった。全然気づかなかった。
真史は、右の耳に手で触れた。
「耳のせいで歌をやめたのか、耳がだめでも歌っていく自信がなかったのか、たぶん両方だと思います。でも、ここにきて、病気やけがと闘っている方がたくさんいることを知りました。それで、やっと気がつきました」
そこでまた言葉を切り、考えるように少し視線を落とす。
もう一度顔を上げ、パイプいすや車いすに座っていたり、ストレッチャーに横になったままだったりする観客の患者たちを、ゆっくりと見まわした。
「今日は、ちゃんと歌えるか不安な気持ちで歌い始めたのですが、そうやって病院でがんばっている皆さんが、こんなに聞きに来てくれて、すごく勇気をもらえました。ありがとうございます。もう届かないと思っていた自分の声や歌が、少しでも届いているかもしれない、と思えました」
思いのほか、大きな拍手がわいた。
「最後になりますが、今日のこの機会を自分にくれた皆さんと、歌いたいと思います。この歌は」
いつの間にか、患者の間には白い紙が配られていて、洸太も回ってきた一枚を手に取った。歌詞が書いてあるようだ。
「ちょっとさみしい歌かなあと思いましたが、僕の友人が好きな歌なので、選びました。ご存知の方は、ぜひ一緒に歌ってください」
真史はマイクを構える。ピアニストの女性と目で合図を交わすと、静かなピアノの前奏が始まった。
それに重なって、柔らかく天井に響く、真史の声。
どこか懐かしい感じのする、英語の歌だ。
それは、あのカセットテープの最後に入っていた歌だった。
病室で、何度も聴いた。
でも、それとはなにか別のところで、この歌のなにかが引っ掛かった。なぜなのかはわからない。どこかで聞いて、記憶に残っていたのかもしれない。
そう思いながらも、胸のどこかが、ざわざわした。
そして、突然、昔の光景がよみがえった。
もあもあと湯気でいっぱいの浴室。
シャンプーを流すお湯の音。
すっかり忘れていた、記憶。
そうか、この歌だったのか、と思った。
こんな記憶があったなんて、不思議だった。もう、二度と思い出したくないと思っていたやつのことを、こんな風に思い出すとは、思いもしなかった。
正面のステージを見る。
マイクを握る真史が、ゆっくりとしたピアノに、言葉を乗せていく。片方の手を、曲に合わせて軽く振っている。
真史の声が、あたりの空気を包む。
耳が聞こえない、と言った。
でも、ちっともそれをうかがわせない声で、真史は歌っている。
軽く手拍子をする人、聞き入っている人、紙を見ながら口ずさんでいる人もいた。
それらの人の少し後ろで、じっと立ったまま聞き入っているらしいサラリーマンの男に、洸太は気づいた。少しぽっちゃりとして、きっちりスーツを着て、眼鏡の奥の細い目をもっと細めて、真史をじっと見ている。リズムを取っているのか、なんとなく体が揺れている。
本当に来てくれるとは、思わなかった。
そのままほかの患者たちの様子を見るうち、洸太は今度は、反対側の壁際にいるふたり連れの男の姿に、目を止めた。
手前にいるのは、俊哉だ。来てたのか。もうひとりはその向こう側に隠れてよく見えないが、見当はついた。
俊哉、本当に連れてきたな。
思わず笑みがもれる。
その時、急に晴美に袖を引っ張られた。なにかと思って振り向くと、ストレッチャーの千波の黒い瞳が、目に入った。
「ちな……」
真史の歌は、途中から日本語になっていた。
霧のたなびく海辺で、ひとり、暮らしていた、魔法の竜。
ある時、一緒に遊ぶ友達ができた。
来る日も来る日も、竜は友達と遊んだ。
でも、友達はいつか大人になり、海辺に来なくなった。
霧のたなびく海辺で、竜はまたひとり、暮らしている。
……
……
千波は、無言で目をあいている。
ゆっくりと、その目が閉じられる。あ、と思うが、またゆっくり開く。
焦点の合っていないような、ぼんやりした表情で、宙を見ている。
晴美が、無言で笑顔を向けてきた。洸太の腕をゆすぶりながら。
「吉田さん、呼んでくる」
そう言って、人波をかき分けていった。
「千波……」
おそるおそる、声をかけてみる。またすぐに目を閉じてしまうんじゃないかと思った。
「……お、にい……ちゃん……」
まぶしそうに目を細め、またゆっくりと瞬きをする千波の目じりから、涙がすうっと流れ落ちた。
洸太は、黙って千波の手を握った。
真史の深みのある声が、フロアに響く。
白い壁や天井を、柔らかな色彩に染めるように広がっていく。
ああ……、いい歌だな。
そう思った。