第1話

文字数 1,031文字

 シャーシャーと、絶え間ない水音がしていた。
 もうもうと湯気が立ち、まるで、空の雲の中にいるみたいだった。
「ほら。お湯をかけるから」
 頭上から、父の声が降ってくる。
「顔にかけないでよ」
「わかったわかった」
 父はとなりで、シャワーのお湯の温度を調節しているようだ。
「シャンプーハット、かぶった?」
「やだなあ。洗うの」
「大丈夫、全然怖くないって。ほら、ちゃんとかぶって」
 顔にお湯がかかるのも、髪を濡らすのも、嫌いだった。ドーナツをぺちゃんこにして波形をつけたような形のシャンプーハットを、いやいや頭にかぶる。それで、やっと頭を洗ってもいいと思えるようになった。
 髪を洗うのは嫌いなのだ。てこずった母が、ときどき父に一緒に入ってくれるように頼む。父は、「よし、今日はお父さんと一緒に入るか」と、はりきった。
 父とのお風呂は、母とはいろいろやり方がちがって、それはそれで好きだった。でも、髪を洗うのは、やっぱり好きじゃなかった。
「じゃあ、がんばったら、あとで歌を歌ってあげるから」
 なだめられて、仕方なくがまんする。ハットの上で父はシャンプーを泡立て、「ぐーるぐーるごーしごし」などと、勝手に作った変な歌を歌っている。ぎゅっと目を閉じてそれを聞いているうちに、ジャージャーとお湯をかけられる。隙間から少しお湯が流れてくるが、泡は流れてこない。そのちょっとだけ流れてくるお湯をなんとかがまんしているうちに、やっと終わるのだ。
「よーし、じゃあなにを歌おうかな」
 体も洗って、一緒に湯船に体を沈めると、父は顔をお湯でざばーっと洗う。
「あれがいい」
「あれって、あれか」
「うん」
「お前、いつもそれだな」
「だって、すきだもん」
 父は、ゆっくりと歌い始める。
 勇んで一緒に歌うのだが、うろ覚えのまま適当な歌詞で歌うので、「おい、そこは、そうじゃないよ」と途中で父が笑い出す。
「これはな、英語の歌もあるんだ」
 そう言って、意味の分からない言葉で歌うときもあった。そういうときは、自分は適当に日本語で歌った。英語と日本語で合唱だな、と父はうれしそうに言った。
 そのうち、浴室のドアがノックされ、すりガラスの向こうにぼやぼやした影が映る。
「お父さん、大丈夫?」
 長くなってきて、母が心配しているのだ。
「のぼせるといけないから、あがろうか。じゃあ、最後に十数えて」
 いーち、にー、さーん、しー……。
 浴室は湯気でいっぱいで、お湯がジャージャーと流れていて、そして、父の歌が、いつも聞こえる。
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