第1話

文字数 3,008文字

「デビューするって、本当なのか?」
 おどろいた顔で振り返った真史に、洸太はかみつくように聞いた。
「あ、なんだお前か、びっくりした」
「デビューするって?」
「なに、突然。誰に聞いたの、それ」
「陽介」
 足もとの石を蹴飛ばして、真史は自転車のスタンドを立てた。講義が終わって帰るところを、捕まえたのだ。
 どうしてこんなに胸の中が波立っているのか、よくわからない。
 真史は、ああその話か、という顔で肩をすくめた。
「まあ、そういう話が出たっていうのは、本当だけど」
 すぐには言葉にならなかった。そんなこと、実際にあるんだ、という不思議な気持ちと、まだ信じられないという感じと、両方ある。
「だけど、まだ決まってないし、自分も行くかどうか決めてないし」
と、少し困ったような顔になる。
「え、迷ってんの?」
「まあ……。それに、本当にできるかどうかなんて、わかんないし」
「なんで? デビューしたくないの?」
「いや、そんなことはないけど……」
 歯切れの悪い真史を引っ張って、大学の近くのファミレスに入った。
 学生や高校生であふれる明るい店内の端っこで、洸太は真史に詰め寄った。
「で、どういうこと? 東京、行かないの?」
「そんなこと言ってないよ」
 真史は、また困ったような顔になった。
「だから、そういう話が出たってだけで、まだなにも決まってないんだよ」
 陽介の話では、あとは真史が「うん」と言いさえすれば、東京に行けるような感じだった。そうでもないのかと思って、ちょっと気が抜けた。
「なんだ……。すぐにでも向こうに行くのかと思った」
「まあ、ねえ。陽介は、行きたそうだけど」
 ちょっと苦笑を浮かべて、真史はチョコレートアイスにスプーンをつき刺す。
「でもじゃあ、迷ってるって……、お前は行きたくないの?」
 うーんとうなりながら、真史はスプーンでアイスクリームをすくう。少しうつむいてアイスクリームを食べる真史を、洸太はじりじりしながら見ていた。
 やっと顔を上げた真史は、また苦笑いのように笑った。
「行きたくないかと言われたら……、行きたいかなあ、やっぱ」
 なんだ、と思った。ほら見ろ、と思った。
 あのライブを見ていたら、行きたくないなんて言っても、冗談にしか思えない。
「でもその前に、ちょっとけりをつけないといけないことが、あるんだよね」
 陽介が言っていた、真史の家のことかと検討がついた。そういえば前にうちに泊まったときにも、なにか言っていたなと思いだした。
「なにを迷ってるんだよ。けりって?」
「いや……ちょっと、うちの事情というか、そういうのもあって」
「うちの事情って?」
 洸太はさらに問い詰めた。
「親が病気で入院してるのか? それとも、金がなくて家賃が払えないってことか?」
「え、いや、そういうことは、ないけど」
 いまいちピンとこないというか、洸太の言いたいことがわからないという顔で真史はつぶやく。当たり前だ、わかってたまるか、と洸太は思う。
「じゃあ、なにが問題なんだ。やりたくないのか」
「……そんなことはない。やってみたい」
「じゃあ行けばいいじゃないか」
「そう……、なんだけど」
 せっかくやりたいことがあるのに。やれそうな話があるのに。
「おれ……、家を継がなきゃいけないかもしれないんだよね」
 真史は、淡々とアイスクリームの山を削っていく。
「それに、好きだからってデビューしても、そのさきうまくいくかどうかもわからないし。どっちみちおれの歌なんか、本当は大したことないし」
 なに言ってんだ、と思った。
 こんな曲を作りたいとか、こんなパフォーマンスをするとか、いろいろ考えて練習したり曲を作ったりしていたのは、もういいのか?
 胸の中で、そんな思いがぐるぐる回る。
 今まで応援してきたみんなのことは?
 自分にはできないことをやっている真史や陽介を、ずっと見てきた自分は。
 やってみたい、というのは、その程度のことなのか。
 自分の立っているところには、扉さえない。でも、真史のいるところには、ある。そして今、真史はその扉を開けることができる。どうして、開けようとしないのか、洸太にはわからない。家を継ぐということが、真史にとってどれだけの重みのあることなのかも、わからない。でも、それと、扉の向こうに行くこと、行きたいと思うその先に行くことと、どうして比べないといけないのか。真史は、選べるのに。
 洸太は、この夏になんとか就職の内定をもらうことができた。洸太には、選ぶ余地はなかった。目の前のきれっぱしでも捕まえて、なんとかして離さないようにするだけで精いっぱいだった。
 だが、捕まえておくことのできないこともあった。
 たぶん、入院中の母はもうあまりもたないだろう、と思う。病院で見る母の顔は、明るい展望を感じさせない。担当の医師も、いいことは言わない。母も、わかってる、たぶん。自分はこのまま金の心配をしながらバイトに追われ、母の死を迎える。千波とふたりになる。
 デビューが決まったとしたら、そのことは本当によかったと思える。例え自分のところにはなんの扉もなくても、洸太は真史を応援するだろう。扉を開けてどんどんその先を行く真史を。少しさみしく思いながらも、ずっと、その歌を追いかけるだろう。そう思う。
 それなのに。
「そんなこと言うならさ」
 自分でもおどろくくらい、冷たい声が出た。
「もうやめればいいよ」
 チョコレートアイスを平らげた真史が、顔を上げる。
「本気でやりたいやつは、他にもいっぱいいるんだ」
 ぬるくなったコーヒーをにらんで、続けた。
「やってみたいって言うけど、その程度のことなのかよ。だったら、もうやめればいいよ。そんなんなら、ほかのやつに譲ってやれよ」
 自分で自分の言葉を、止められなかった。
「やりたくてもやれないやつのこと、考えたことあるのかよ」
 無言で、真史が見つめてくる。それを、受けて立つように見返した。
「継ぐの継がないのって、なんだよ、それ。家が金持ちなのも考えものだな。おれ、貧乏でよかったわ」
 ひどいことを言った、と思う。洸太の家が貧乏なのは仕方がないように、真史の家が裕福だからって、どうしてそれを責められる。真史自身がそれをひけらかしているわけでもないのに。
 選べないといえば、生まれてくる家も親も、選べやしないのだ。
 それに、やってみたからといってうまくいく保証はない。本当にデビューできたとしても、成功するとは限らない。それは、本当のことだと思う。
 そう考えたら、うまくいくかもわからない、家を継がなきゃいけないし、と真史が迷うのは無理もないと思う。
 言い過ぎたと思ったが、もう遅かった。
 真史は、ほとんど表情を変えなかった。
「そうだな……」
 ひとことそう言って、なにか考えるような顔をした。
 そのあと、なにを話してどう別れたのかは、覚えていない。
 今なら、人にはいろんな事情があるとわかる。金のあるなしには関係なく。やりたいからといってやれるわけでもないし、やりたくなくてもやらなければいけないこともある。そして、どちらがいいかなど、他人には決められない。
 当時の洸太は、もうなにもかもがいっぱいいっぱいだった。そんな言い訳はいくらでもできるが、だからといって、後悔が消えるわけでもなかった。
 やがてそれも、千波とふたりの生活になり、仕事を始めて必死で日々をしのいでいるうちに、どこかに紛れてしまった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み