第2話

文字数 1,857文字

 古ぼけた三階建てのコーポの階段を上る。カツカツと重たげな靴の音が追いかけてくる。
 三階の一番奥のドアを開けると、昼間の熱に暖められた空気が、むっと襲ってきた。靴を脱ぎながら照明のスイッチを探る。オレンジ色の光が、狭い空間を照らし出した。
 玄関からすぐの台所を抜けて、その向こうの和室に、鞄を投げるように置く。ネクタイを外しながら次は洗面所に行き、なまぬるい水で顔を洗った。
 台所に戻って冷蔵庫を開ける。冷気が一瞬あふれ出てきて、ほてった体に気持ちよかった。牛乳パックを出して、扉を閉める。
 グラスに牛乳を注いで、一気に飲み干した。冷たい液体が、のどの中をおりていく。
「ふう……」
 食卓には、妹の千波が置いていったのか、なにかのダイレクトメールの封筒と、電気やガスの請求書が重ねてあった。それを手に取って裏返しながら、洸太はもう片方の手で胸ポケットを探っていた。半分つぶれかけた小さな紙の箱を取り出し、中から一本取りだすと口にくわえた。
 ライターで火をつけようとしたが、カチカチと耳障りな音がするだけでつかない。あきらめて、ガスコンロに火をつけ、首をつき出してたばこを近づける。ようやく先がぽっとオレンジに光った。
 大きく息を吸い込んで、それから天井に向けて煙を吐き出す。いつもは、家の中で吸わないでよ、と大騒ぎで千波が文句を言うが、今日はそれがない。
―幸い、他に大きなけがはありません。
 歯切れの悪い医者の言葉が、脳裏によみがえる。
―しばらく様子を見ようと思います。
 千波の会社は土日休みで、土曜日の今日は家にいたはずだった。買い物にでも出かけたのだろう。住宅街の中の信号のない交差点を渡っているときに、車にはねられたらしい。車は、そのまま走り去ったのだという。
 半分も吸ってないたばこを、シンクの底に押しつけて消した。吸殻を三角コーナーに放り投げて、和室に入る。
 台所のとなりの和室はベランダに面していて、洸太が主に寝室として使っている。テレビも置いてあって、起きているときは千波もこの部屋にいることが多い。テレビをつけると、なにかのバラエティー番組をやっていた。数人が並んでにぎやかにしゃべっている。誰かがとなりの男の頭をはたく。わっと起こる笑い声。
 洸太は、テレビを消した。とたんに、しんと静かになる。車の音が、うすい壁の向こうを通り過ぎていく。
 額から汗が流れ落ちたのに気づいて、手の甲でぬぐった。外の風を入れようと掃出し窓を開けたが、外も似たような熱気だとわかっただけだった。
 玄関からのオレンジ色の光で、部屋の中はうっすらと明るい。
 洸太は、画面の消えたテレビを黙って見ていた。しばらく、そのままじっとしていた。
 それから、やっと少し我に返った。
「いやいや、保険証どこだっけ。なにがいるんだっけ。着替えか?」
 ぶつぶつ言いながら、もう一つある奥の和室に入る。こっちは千波が寝室として使っている。
 子供のころならともかく、成人した妹の私物をかき回すのはあまり気が進まない。
 それにしても。
 七年前に母を亡くしたと思ったら、今度は妹が事故にあうとか、なんだか波乱万丈だなあ、などと、他人事のように思った。いや、自分にはなにも起こってないから、波瀾万丈なのは、母とか妹のほうか。
 母が亡くなってから、洸太の収入だけでなんとかふたりでやってきた。ようやく千波がこの四月から社会人になり、経済的にも精神的にもやっと少し息がつけると、ほっとしていたところだったのだが。
 知らないうちに、また指にたばこを挟んでいた。妹の部屋に煙が白く漂っていく。戻ってきたら、部屋がたばこくさいと怒る顔が目に見えるようだ。戻ってきたら。
 いやいやいや、とまた首を振った。そんなやばいことになるとは、医者は言わなかった。ともかく、明日もう一度行って、ちゃんと話を聞こう。そうだ、長谷川さんにも電話しておかないといけない。
 洸太はせかせかとテレビの和室に戻って、放り投げてあった鞄の中を探る。その間に、さっきのたばこはちゃぶ台の灰皿で消され、新しいたばこに火がついた。
「落ちつけ」
 つい、また声に出している。今すぐ危険ということはないでしょう、と医者は言っていた。だから、大丈夫なはずだ、たぶん。
 いつもこんなに静かだったっけ、と、煙を吐きながら洸太は思う。そうか、いつもは千波があれこれしゃべっているからか、と思い当たる。いったい千波はいつも、なにをあんなににぎやかにしゃべっていたのだろうと、流れていく煙をまたぼんやりと見ていた。
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