第1話

文字数 2,570文字

 吉田さんは言った。
「小さなイベントとして頼めないかと思って。彼の歌、実はひそかに評判になってるんです。ずっと入院していて外に出られない患者さんもいるし、小さい子は特にね」
 もしかしたらうるさいと苦情が出るかも、と気にしていたのだが、そんな反応があるとは、予想外のことだった。というか、ドアを閉めているのにそんなに聞こえていたのかと、少し焦った。
 晴美に話を聞いたときは半分冗談かと思っていたが、吉田さんの言い方からすると、けっこう本気の話のようだった。伴奏は、そういう病院でやってくれるセミプロみたいな人に頼めるらしい。
 洸太は、真史に聞いてみる、と答えた。
 しかし、話を聞いた真史は、「無理」と即答だった。
「歌えないって言っただろ。千波ちゃんのは特別だって」
 確かにそうは言っていたが、真史の迷いのない断り方に、意外な気もした。そういうことは気軽に引き受けてくれそうな印象がある。
 そんなに今は歌えないと思っているのか。
 ここ何回か、病室で真史の歌を聴いた。
 相変わらずよく伸びる声で、抑えつつも声量のあるのがうかがえて、昔と比べてそんなに悪くなったとも思えなかった。真史は、そんなに自分の歌がだめだと思っているのだろうか。
 ライブであんなに楽しそうに歌っていたのに、と思う。
 それとも、なにかいやなことでもあったのか。ここ最近会う感じでは、そんな、なにかあったような影は見られないと洸太には思えた。
―この人に会うのがこわい、とか。昔なんかあったかなんかで。
 晴美に言われた言葉を思い出す。真史にもなにかそういうことがあるのかもしれない。
 吉田さんも病室に来て、いろいろ真史に話をしてくれた。
 入院中の人に、少し気分転換の場を提供したい、そんなに気をはったものではないから、気楽な気持ちで引き受けてくれないだろうか、と。
 真史は、当初は吉田さんにも、もう歌えないのでと断っていた。だが、吉田さんもあきらめなかった。熱意に押されたのか、とうとう真史は、わかりました、と根負けしたように言った。「子供たちのためにも」と言われて折れた感じだった。
「本当に、ちゃんと歌えないかもしれないですけど、いいですか」
 それでも、そう何度か念を押していた。
 そんなに心配することもないのに、と洸太は思いながら横で聞いていた。
「ありがとな。無理いって悪かった」
「まあいいよ、もうやるって言っちゃったし。それならがんばって歌うかな」
 あきらめたような苦笑いのような顔で、真史は千波の顔をのぞきこむ。
「千波ちゃんも、早く目が覚めるといいな」
「そうだな、そろそろふるえるだけじゃなくて、ちゃんと目を開くといいんだけどな」
 帰る真史を、洸太はいつものように病院の玄関まで見送る。歩いていく後ろ姿をしばらく眺めていると、ポケットの携帯が震えた。直樹からのメールだった。
 ずいぶん久しぶりだと思いながら、メールを開く。
「なんだ、あの話、まだ生きてたんだ」
 前に言っていた仕事の話だった。なんとなくもうなくなったのかと思っていた。仕事についての打ち合わせを、洸太がメールで書いた日時でよろしく、という話だった。顔合わせもするのでその時は一応スーツ着てきて、と書いてある。
「そうか、じゃあちょっとがんばるか」
 仕事内容はよくわからないが、これで少しでも足しになると思うと、気持ちが軽くなる。
 なんだか胸の中が軽くなった感じがして、夜空を見上げた。少し細めの月と、いくつかちらちらと光る星が見える。星なんか見たのは、いつ以来だろうか、と少し感慨深い気がした。
 病院でのミニコンサートの詳細は、とんとん拍子に決まった。真史は、千波の見舞いに来たついでに吉田さんや、伴奏をするピアニストという人たちと何度か打ち合わせをしているようだった。
 千波の様子は、少し反応があるというだけで、あまり変わらなかった。
 晴美は、千波にもコンサートを聞かせてあげようといい、吉田さんとそのことについて相談している。洸太は、ぼんやりと横でそれを聞いていた。
 千波に反応があらわれたときには、ひとつなにかを乗り越えたような気がしたが、その後は大きな変化はなく、やっぱりもうこのままなのかも、と諦めたように洸太は思う。そのせいか、晴美の話にもあまり熱心になれない。コンサートを聞かせてもいまさら同じじゃないかと思うけど、吉田さんと話している晴美を見ていると、そうも言えなかった。
 今ひとつ入り込めないのは、今月分の請求書のせいもあったかもしれない。通帳の残高を比べてため息をつく。給料日まではあと何日か。残高がもつだろうか。直樹の仕事の話が早く来ないかと、思う。
 そういえば、コンサートの日は、偶然、直樹と仕事の打ち合わせをする日と同じになってしまった。洸太は直樹に、妹の病院の関係で時間をもう少し遅い時間に変えてもらえないか、とメールで頼んだ。直樹から、今度はすぐに「大丈夫」という返信が来て、ほっとした。
 そんな中で、ミニコンサートの話自体は、やはり楽しみだった。今の真史が本気で歌ったら、どんな感じなのだろう。そのことを思うと、久しぶりに胸が熱くなる気がした。
「どの曲にしようか、いろいろ考えてて」
 千波のところに顔を出した真史が、そんな話をする。
 時間としては三十分くらいということで、そんなに曲数はないのだという。
「四曲か五曲くらいかなあ」
「バンドの歌も歌うのか?」
 聞いてから、聞かない方がよかったかと少し焦ったが、真史は気にしないように、「どうしようかな。デビュー曲くらいだったらみんな知ってるかな」と首をかしげる。
「どうせ歌うなら、みんなの知ってるのがいいし」
 病院が作ってくれたちらしには、二曲だけ曲名が書いてあった。それ以外は内緒、などと言いつつ、あれにしようかな、と思わせぶりにつぶやく。そして、そんな話の途中にときどき、「これはたぶん歌えないからやめよう」というときがあった。
 その言葉が意外なのと同時に、本当に歌えないと思ってるんだな、というのがわかって、なんとなく洸太まで不安になる。大丈夫かな、と思う。大丈夫に決まってるじゃないか、とも思う。あんなにうまかったんだし、今だって、千波のそばで聞いてる限り、全然おかしくない、大丈夫。そう、自分に言い聞かせるように、思った。
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