第5話

文字数 3,349文字

「だからたぶん、そのときのバンドのやつが歌ってるんだと思う。テープの歌は」
 地下街の混み合ったカフェの中、洸太は晴美と小さな丸テーブルで向かい合っていた。
「へえ、ちゃんとライブやるようなバンドだったんだ」
 晴美は少し意外そうに、目を丸くしている。
「そんときは、まだアマバンドだったけどね」
「まだって?」
「確か……」
 少しずつよみがえってくる記憶を、洸太はたどった。
「デビューしたような、しなかったような」
「え、うそ!」
 晴美のおどろきようにおどろいて、洸太はちょっとのけぞった。
「なんだよ、びっくりするじゃん」
「だって、デビューしたなんて、すごくない?」
「たぶんね。ちょっとよく覚えてないんだけどさ」
 どうしてそんな気がするのか。
 誰かから聞いたのか、それともテレビかなにかで見たのだろうか。
 よく覚えていない。記憶はあやふやで、単なる洸太の空想なのかもしれない。
 だいたいが、ちょうどあのバンドのライブを初めて見に行ったあとくらいからだ。母が体調を崩すようになったのは。
 父が突然姿を消してしまったあと、パートで働き始めた母は、なれない外での仕事に、はじめのうちは毎日疲れていた。それまでは父の仕事を手伝うくらいで、ほとんど専業主婦だったのだから、無理もない。
 それでも、雇ってもらえてよかったわ、などといいながら、毎日地下鉄で通っていた。オフィスビルの清掃かなんかの仕事だったと思う。通いだしてしばらくすると、なれてきたのか、あまり疲れた顔も見せなくなっていたのに。
 最初は風邪をこじらせ、肺炎になりかけて数日入院した。それから、風邪を引きやすくなり、入院することはないものの時折寝込むようになった。洸太が大学の二年か三年くらいのころだった、たぶん。「休めば?」と洸太が言うのにもかまわず、無理して仕事に行っていた。
 洸太は洸太で、毎日せっせとバイトをしていた。母と妹と自分の三人分の生活費を、母のパート代と自分のアルバイト代で賄っていた。大学の学費を母の兄である伯父が援助してくれなかったら、学校もやめているところだった。とにかくそのころは、バイトと授業の時間をどうやりくりするかで頭がいっぱいで、母のことを気にかけながらも、それ以上なにかを言うことはなかった。今だったら、当時の自分を殴り倒してやりたい、と思う。
「……なの?」
「え?」
 はっと物思いからさめて、晴美と目を合わせた。
「だから、なんていうバンドだったの? その友達のいたバンド」
「あ、ああ、えっと……」
 それが、この間からがんばって思い出そうとするのだが、出てこない。
「え、覚えてないの?」
「なんだったかなあ。このへんまで出てきてる気がするんだけど」
 のどのあたりをさわりながら首をひねる。
「今でもまだやってるかどうかっていうのも、わからないの? 聞いたことのあるバンドってない?」
 畳みかけられたが、知ってるバンドの名前といわれてもほとんど知らない。
「じゃあ、晴美がなんか言ってみてよ、聞いたらちょっとはわかるかも」
「そうだねえ」
 晴美は、二つ三つ英語なのか日本語なのかよくわからない単語を言ったが、どれも洸太には聞き覚えがなかった。
「えー、ほんとに知らないんだね、水島くんって。じゃあ、これは? すごい有名だよ」
 そういって晴美が口にしたのは、さすがに国民的な超有名バンドだった。
「あ、それは知ってる」
「よかったー。これは隠居したおじいさんでも知ってると思うよ」
「なんだよ、おれは隠居じいさん並か」
「隠居じいさんの方がまだ知ってるって」
 晴美はフォークをくるくると回す。
 バンドの名前どころか、と、おいしそうにケーキを食べている晴美を眺めながら思う。メンバーの名前も、洸太は思い出せなかった。テープを聞いてからいろいろ考えてはいるのだが。ライブに行ったことやスタジオ練習をのぞきに行ったことなんかはおぼろげに思い出したが、ボーカルやギターの男の名前も出てこない。
 大学を出てまだ十年もたっていないのに、もう年なのかもな、とちょっとがっくりくる。そんなことを言ったら晴美に怒られそうだから、言わないけど。
 曲名も思い出せないのだが、テープに入っていたものは、なんとなく聞いたことがあるような気がした。洸太に聞き覚えがあって晴美が知らないと言った曲は、たぶん彼らのオリジナル曲なんじゃないかと思う。
「きっと、千波ちゃんはそのバンドのファンだったんだね。っていうか、デビュー前にもらったんじゃない? あのカセットテープ」
「そうかも」
「水島くんはどうやって知り合ったの? そのバンドの子たちと」
「確か、誘われたんだよな」
 洸太と同じ経営学科に、中野俊哉という男がいた。たまたま入学式のときにとなりに座った縁で知り合った。一浪して入学したので、学年は洸太と一緒だったが年は一つ上だった。人気のある教授や単位のとりやすい授業のことなどになぜか詳しく、そのまま腐れ縁のように、つきあいが続いた。
「そいつに、高校の時の後輩のバンドが出るからって、ライブに誘われて」
「じゃあ、その友達の後輩なんだ、そのバンド」
「いや、そうじゃないんだけど」
「え、どういうこと?」
 首をかしげる晴美に、説明する。
「そんときのライブは、バンドが三つか四つか出てて、テープのバンドは後輩のじゃなくて、別のバンドだったんだよ」
「へえ、そうなんだ」
「もちろんおれはその時初めて聞いたんだけど、初めてでも、すごいって思った。うまかったし」
 あの、ボーカルの声。名前は、なんだったか。思い出せないが、テープで聞いても、印象的な歌声はそのままだった。
「でも、そんなふうにライブに行って熱狂してた時代が、水島くんにもあったんだねえ」
「テープ聞くまで、すっかり忘れてたけどね」
 少しずつよみがえってくる記憶に、自分でも少しおどろいた。狭い空間に満ちる、熱い空気。歓声にかぶさるように、スピーカーから響く楽器の大音量。
「映画とかコンサートとか、誘ったらついてきてくれるけど、自分からはそんなでもないでしょ?」
 晴美の誘うコンサートとは、クラシックとか、ファミリーコンサートみたいなやつのことだ。
「別に嫌いじゃないよ」
「そうなんだろうけど」
 晴美は、自分の分のケーキにフォークをつきたて、もぐもぐと口を動かす。
「そっちも、ひとくち味見させて」
 洸太が皿を押しやると、晴美は洸太の頼んだチーズケーキをひとかけ、フォークですくうようにとった。そうしながらさりげないふうに聞く。
「千波ちゃんの様子はどう?」
「ん、別に。普通」
「普通なわけないじゃん」
 晴美は、小さく苦笑する。
「別に変わらないって。前と一緒」
「そっか……」
 晴美は、それ以上は言わなかった。その代わりなのか、またバンドの話に戻る。
「ねえ、そのバンドの名前、調べられないかなあ」
「調べる? どうやって?」
「だって、ネットで探したらわかりそうじゃない? デビューした年と、出身地とかでさ。このへんの子たちなんでしょ」
「まあ、たぶん。確か、大学は一緒だったような、ちがうような……?」
「ほんと、水島くんの記憶力って……。でも、そこまでわかるんだったら、調べれば出てくるような気がする」
 あきれたように笑いながら言う晴美に、洸太は半信半疑な気持ちで首をかしげた。
「そんなすぐにわかるかなあ。だいたい、そんなの調べてどうするの」
「え、だって、知りたくない? 知り合いかもしれないのに。まだバンドやってるんだったらすごいし」
 晴美が言うのもわからないではなかった。普通は知りたいものなのだろうと思う。単に洸太が特に興味がないだけなのだ。それに、と、ぼやけた記憶に思いを巡らせる。
 あのバンドのボーカルとは、懐かしい記憶と同時に、あまり思い出したくない気まずい記憶がある気がする。だから、よけい思い出せないのかもしれない。
 私も調べてみるね、と晴美は別れ際にそう言って、手を振った。改札口に消える後姿を見送りながら、洸太はなんとなく、持っていきようのない気持ちを、持て余していた。
 ただ、俊哉の名前は、懐かしかった。この頃は年賀状を送るだけの関係になっている。連絡してみてもいいかもしれない。そう思うと、少しだけ気持ちが浮上した気がした。
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