第3話

文字数 2,055文字

 古い住宅街の一角にある、古びた二階建ての家の前で、洸太は表札の名前を確かめた。ちょっと息を吸ってから、生垣の間にある門のベルを鳴らす。応答する女性の声に、言われたように直樹の名前を出して、
「書類を受け取りに来ました」
というと、少し間があったあと、お待ちください、と言って切れた。
 そのまま門の外でしばらく待った。すぐに出てこないので少しじりじりとした。
 やがて玄関のドアが開き、白髪のおばあさんが出てきた。薄いカーディガンに、膝より長い丈のグレイのスカートをはいていて、年齢は感じるものの、上品な雰囲気だった。
 直樹のおばあさんにはずいぶん昔に会ったことがあるが、記憶は遠く、顔もよく覚えていない。
 もうちょっとしゃんとした人だった気もするが、目の前のおばあさんは少し腰も曲がり、動きもゆっくりしている。まあ十五年近くもたてば、そうかもしれない、と思う。
 おばあさんは玄関先で一度足を止め、こちらをうかがうようにさらに腰をかがめた。
「ご無沙汰してます。水島です。すいません、お忙しいところに……」
 洸太は、改めて声をかけた。
「え、ああ、はい、そうですね」
 どことなく歯切れの悪い様子で言う。
 ゆっくり歩いてきて、門の閂を外してくれる。その背後で、ゆっくりとした動きで閉まっていく玄関のドアが見えた。閉まりきる寸前、その奥に影が動いた気がした。
 家族か誰か、人がいたのだろうと思ったが、なんとなく違和感を覚える。
 門を開けて、おばあさんは手にしていた大判の封筒を、ためらいがちに差し出した。
「これで、いいかしら」
「あ、はい、すいません」
 手を伸ばして、受け取ろうとした。
「一応、中身、確かめてくださいね」
 おばあさんが言う。洸太は書類としか聞いていないので、中を見てもしょうがないけど、と思いながら、またなにかが胸をよぎる。
 その時、洸太が来たのと反対の方角から、誰かが歩いてきた。振り向くと、ベージュの薄いコートを着た、くたびれたサラリーマンという感じの中年の男だった。
 洸太は、伸ばしかけた手を止めた。
 玄関のドアがまた開いて、誰かが出てきた。
 それは、おばあさんよりはずっと若い男だった。五十代くらいだろうか、どちらかと言えば息子くらいに見える。
 その男と、目が合った。
 この、遠い昔の記憶にある感じ。
 コンビニで直樹といっしょに、ガムだったかグミだったかをこっそりポケットに入れようとして、店員と目が合った時と、同じ感じ。
 脳裏でなにかが赤く点滅する。そして、それがパンとはじけた。
 洸太は、伸ばしかけた手を引っ込めて、さっと身をひるがえした。
「あ、ちょっと……」
「おい、待て!」
 おばあさんと男の声が、一緒になって聞こえた。
 洸太は、いつの間にか背後に迫っていたコートの男を、必死で体をひねってよける。
 そのまま、後ろも振り向かずに走った。追いかけてくる足音がする。しかも、ひとりではない。
 休日の静かな住宅街に、男たちと自分の硬い靴音が入り乱れる。
 洸太は、見知らぬ細い道を、必死で走った。角に来るたびに曲がった。とにかく大きい通りに出なくては、と思った。。
 あのときもそうだった。直樹と一緒に、息が止まるんじゃないかと思うくらいに、必死に走って逃げた。
 そのうちに、やっとバス通りに出た。前方に、地下鉄の入り口が見える。一瞬足をゆるめたが、遠くでサイレンの音が聞こえたのにはっとして、また足を速めた。
 通行人が迷惑そうな顔で振り向くのにも構わず、洸太は走って地下鉄の入り口に飛び込んだ。下からちょうど上がってきた人が、おどろいて洸太をさける。洸太は一段飛ばしに階段を駆け下りた。
 通路に出たときにようやくふと我に返って、足をゆるめる。それでも、なにかにせかされるように早足で改札を通り、行き先も見ないまま、入ってきた電車に乗った。
 はあはあと呼吸が早いのを、なんとか不自然に見えないくらいに抑え込み、額の汗を手でぬぐう。
 次の駅が別の線との乗換駅だったので、洸太はそこで地下鉄を乗り換えた。それからさらに何駅か乗った。四方に視線を走らせながら、また乗り換えた。
 ようやく少しほっとして、空いた席に腰を下ろした。全身にびっしょりと汗をかいていて、気持ち悪い。
 せわしかった呼吸は少しずつおさまってきたが、心臓の鼓動は、いつまでも早鐘のように洸太の体を内側から打っていた。洸太は、痛いほどの力で手すりを握っていた。そうしていないと、手がふるえだしてしまいそうだった。
 胸の中に、苦いものが広がる。
 直樹のやつ。まったく、やってくれる。
 あの、くそったれ。
 なんだか、妙に笑いがこみ上げてきた。
 あれは、どう見ても待ち伏せされていた。
 いったい、なにを受け取りに行ったことになってるんだ? ただの書類じゃないだろう。札束か?
 洸太は顔をうつむけて、人にわからないように笑いをこらえた。
 ああ、まったく。
 直樹のやつに、まんまとやられたのだ。
 まったく、なんてばかだ。
 そう思うと、笑いが止まらなかった。
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