第8話

文字数 2,492文字

「あ、こんにちは」
 部屋に入るとちょうどいつもの看護師が来ていた。点滴の具合を見ていた看護師に、晴美は声をかける。また見舞いに行きたいというので、今日は晴美も一緒に来たのだ。
「こんにちは」
 洸太は小さく会釈して、晴美の後から病室に入った。
「水島さん、こんにちは。今日は彼女さんとご一緒ですか?」
「そんなんじゃないですよ」
「そんなんじゃないですよ」
 口調を真似して晴美は言い、ねえ、という表情で洸太を振り向く。洸太は苦笑して肩をすくめた。
「千波ちゃん、どうですか?」
 言いながら晴美は看護師の横に並んで、千波をそっと見下ろした。
「そうですねえ、悪くないですよ。お肌の色もきれいだし」
 てきぱきと看護師が機器を操作したり脈を測ったりしている間に、晴美はいすを引いてきてすわり、洸太は自販機で飲み物を買って戻ってきた。
「はい、紅茶のあったかいの」
「あ、ありがとう」
 自分の分の缶コーヒーを開けて、ひとくち飲む。
 この看護師は吉田さんといい、ちょうど千波と同じくらいの年に見えた。小柄で少しふっくらとした、柔らかい雰囲気の人だった。
「水島さん、なにか気になることとかあったら、いつでもおっしゃってくださいね」
 吉田さんはペンをポケットにしまいながら、明るい笑顔を洸太に向ける。
「はい、ありがとうございます」
「ここで話してると、うるさかったりします?」
 晴美が少し上目づかいに吉田さんに聞く。
「いえ、普通にお話ししていただいてたら大丈夫ですよ。千波さんも、声が聞こえたほうがいいでしょうし」
「え、聞こえるんですか」
 吉田さんはちょっと考えるそぶりをして、慎重に言い直した。
「ちゃんとしたことはわかりませんけど、脳出血とかで倒れられた方でも、耳は機能していることがあります。千波さんの場合はそれと同じではないですけど、可能性はあると思います。刺激にもなりますし」
「あ、じゃあ、音楽とかでも?」
「ええ、もちろん。好きな曲とかありますか? 聞かせてあげられたらいいと思いますよ」
 穏やかな笑顔で吉田さんは言う。
 そして、病室を出る間際に、「水島さん、帰りにちょっと会計に寄ってってくださいね」と言い置いていった。
「へえ、耳って聞こえてるんだね」
「ほんとかどうか、わかんないけどね」
 洸太も最初のころにそう言われて、ひとりで来たときには、なにか思いつくことをあれこれ話しかけたりはしていた。こういう病状なので個室なのは幸いだった。
「ちょっと話してみたりはしてるけど、あんまり変わんないし。っていうか、全然変わらないしね」
「ふうん……」
 晴美はじっと千波を見て、「千波ちゃん、早く起きないかなあ。まだ、ちゃんとごあいさつしたことないもんね。会社でお兄さんの面倒を見ている岸晴美ですよー」などとぶつぶつ言っている。
「誰が面倒見てるって?」
 つっこんでやると、晴美は当然のような顔をする。
「だって、そうでしょ?」
 しょうがないので、洸太はまたコーヒーを飲んだ。ここではたばこが吸えないので、代わりに缶コーヒーを飲む量が増える。
 目の覚めない千波の様子には、もうすっかり慣れてしまっていた。そんな自分に、ときどき少しぎょっとする。
 体の傷は、もうほとんど問題ない。
 医者はそういう。
 このまま。もしこのまま、一生目が覚めなかったら。
 映画やテレビドラマじゃあるまいし、と思うものの、もしそうだったら、どうしようと思う。それよりも、目の覚めない千波に慣れてしまう自分が、一番こわいと思う。
 だから、考えないようにしている。考えてもしょうがないことは、考えない方がいい。
「ねえねえ、じゃあさ」
 晴美が、急に明るい声を出した。
「これ、聞かせてあげようよ」
 立ち上がって、棚の上のカセットデッキを持ちあげ、洸太のほうに掲げて見せた。
「え、そんなの……」
「ね、いい考えだと思うんだ。看護師さんも言ってたじゃない。音楽でもいいって」
 そんなうまいこといくわけないじゃん、と言いそうになるのを、かろうじてがまんした。
「じゃあ、聞かせてみる? あんまり期待しない方がいいかもしんないけど」
「まあそのときはそのとき」
 晴美はカセットデッキのスイッチを入れた。
 真史の歌が、流れ出す。
「やっぱ、いいな、これ。このテープ。洋楽のカバーも好きな曲だし。この人、うまいし」
 ライブハウスの光景が、胸をよぎった。飲み屋で酒を飲んでる時のことも、スタジオに練習を見に行ったときのことも。
 A面が終わってB面になっても、千波の様子に特に変化はなかった。掛布団の胸のあたりが、小さく、ゆっくりと、上下している。それだけだ。
「やっぱ、だめかあ」
「まあ一回だけじゃああれだから。ときどき聞かせたらいいんじゃない」
「じゃあ、水島くんがまた来たときに聞かせてあげてよね」
 内心、まあ無駄だろうなと思いつつ、洸太は仕方なくうなずいた。
「来たらかけてやるよ」
 カセットの曲が最後になって、ガッチャンという音とともに終わった。
 はあ、と晴美は息をはいて天井を見上げた。
「名前、わかったよ、そういえば。思い出した」
「え、バンドの?」
 がばっと晴美は体を起こした。
「あ、いや、バンドはわかんない。やってたやつらの名前だけ」
 たじろぎつつ、洸太は、北村真史というボーカルと高橋陽介というギタリストの話をした。
「へえ、そうなんだ。でも、名前がわかったらもう調べられそうだよね、今度こそ」
 晴美は口の中で、ふたりの名前を繰り返した。漢字でどう書くのかと洸太に聞いて、携帯にメモしている。
「わかった、私もあとで調べてみる」
 なんでそんなに調べたいのか、今ひとつ洸太にはよくわからない。
「そんなん、もうやってないかもしれないし」
「それならそれではっきりしたほうがいいじゃない? なんか、もやもやしたまんまだと、気になっちゃって」
 まあ、それはそうかもしれない。
 洸太は、昔の話だしわかってもわからなくてもまあいいか、というくらいの気分だった。とりあえずここは逆らわないでおこう、と内心で思う。
 そんなやり取りが聞こえているのかそうでないのか、千波はただ、静かに眠っている。
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