第2話

文字数 2,881文字

 家に帰ると、むっとした空気を入れ替えるために、窓を開けた。夜だというのに、セミの声がやかましい。
 今日も、仕事の帰りに病院に寄ってきた。千波の会社の上司が見舞いに来てくれて、しばらく病室で話をした。総務課課長という肩書の名刺をくれたその上司は、白髪交じりのおとなしそうな感じの男だった。ハンカチで汗を拭きながら、千波の様子にひどく胸を打たれた様子だった。
―水島さんは、いつも一生懸命仕事をしてくれて、なにかを頼んでもいつも元気よく返事をしてくれて……。
 言葉に詰まったように黙り込んだのを、洸太はなんとなく不思議な気持ちで見ていた。
―休職の手続きをさせていただきますので。
 上司は、書類の入った封筒を手に、そう言った。
―いくつかご記入いただいたら、あとはこちらでやっておきます。必要なものがあったら、またご連絡させていただくということで。
―お手数をかけてすいません。よろしくお願いします。
 洸太は、頭を下げた。
―どうぞお大事に。
 上司は、何度もお辞儀をしながら、帰っていった。
 いつも一生懸命仕事をしてくれて、と言った。
 千波が、ちゃんと会社でなにかの仕事をしているというのが、なんだか意外というか、思いがけないというか、そういう気がした。もう二十歳も過ぎているというのに、いまだに洸太は千波のことを、小学生か中学生くらいに思っていることに、気づく。
 カーテンを開いたまま、窓の向こうに見える屋根瓦や街灯を、ぼんやりと眺めた。
 小さい時から、千波は、確かに、元気だけはあった。幼稚園くらいのころには、よく近所の男の子とけんかをしては、相手を泣かせていなかったか。母が、ときどきあわてて謝りに行っていたのを思い出す。
 両親が言い合いを始めたときに、「お外に行こう」と言い出すのは、たいてい千波のほうだった。
 両親のけんかの理由は、父の事務所のことと、お金のことが多かった。洸太の父は、小さな設計事務所を経営していた。洸太が中学に入る少し前くらいから、事務所の経営はうまくいかなくなっていたようだった。そのころの洸太にはそんなことはわからなかったが、少しずつ家の中の空気が重くなっていくのは、なんとなく感じていた。
 洸太が中学に入ってからは、両親はたびたび言い合いをするようになった。当時千波は四歳か五歳くらいだったと思うが、背は小さいくせに気が強くて、はっきりした子供だった。
「お兄ちゃん、お外行こうよ」
 そういうとき、両親のけんかのことはなにも言わないで、千波は洸太の服を引っ張る。
「じゃあ行こうか」
 せっかくマンガを読もうとしていた洸太は、仕方なく立ち上がる。台所の両親の大声は部屋にいる洸太にも聞こえていたので、千波が来るだろうなという予感はしていた。
 夕暮れの街は、まだ半分くらい明るさの残る空の下で、うすい膜が張ったようにぼんやりして見えた。街灯が点々とつき始めていて、学校帰りの高校生や、買い物袋を自転車のかごに乗せてペダルをこぐ主婦と、すれ違う。洸太と千波は、通りをあてもなく歩いた。
「ねえねえお兄ちゃん、ゆうえんちいこうよ」
「そんなとこ今から行けないよ」
「どうしてー」
「どうしても」
「じゃあどうぶつえん」
「もう閉まっちゃってるよ」
「いきたい!」
「じゃあ……行こうか」
「ほんと? いこいこ!」
 洸太の手を握ったまま、千波はジャンプする。洸太は千波をなだめて通りを歩く。角を三回くらい曲がると、少し先に大きな家が見えてきた。
「千波、もうすぐ、めずらしい動物がいるぞ」
「なになに、めずらしいどうぶつって」
「こんな大きいサイだよ」
「サイってなに?」
「なにって……、サイはサイだよ。カバみたいだけど角があるんだよ」
「みるみる!」
 屋敷のような家に近づくと、洸太は足をゆるめ、塀に沿ってゆっくりと進んだ。千波が洸太の足につかまってついてくる。すぐに、家の門が見えてきた。洸太は一度足を止めて、門の中を見ようと首を伸ばす。庭の奥にある玄関の横に、寝そべっている大きな犬が見えた。ラブラドールリトリバーだ。
「千波、いたぞ。ほら」
 千波の体をそっと前におしやる。千波は、「どこどこ」と目を輝かせて、でも、怖いものでも見るときのようになんとなく尻込みをしながら、門の中をのぞきこんだ。
「あ、いた!」
「見えたか。あれがサイだぞ」
 我ながらいい加減なことを言ってる。しかし、千波もそれにのってきた。
「すごーい! でも、つのがないよ」
「だからめずらしいサイなんだよ。日本にも五頭しかいないんだぞ」
「すごいねえ」
 と、犬がむくりと体を起こした。門のほうに向かってゆっくりと歩いてくる。
「しまった、気づかれた、逃げるぞ!」
「きづかれちゃった、きづかれちゃった!」
 かん高い声を上げる千波の手を引っ張って、その場から走って逃げる。途中から千波は楽しそうに笑いだして、洸太もつられて笑いながら走った。
 近くの公園までたどり着いて、やっと足を止める。はあはあと息を吐きながら、千波はまた笑い声をあげた。
「めずらしいサイみちゃったねー、みちゃったねー!」
 公園には、二、三人の子供が山形の遊具で遊んでいたが、洸太と千波がそうやって息を整えているうちに、いつのまにかみんないなくなっていた。千波は、誰もいなくなったコンクリートの山に向かって駆け出す。
「千波、転ぶなよ」
 ひとりでぐんぐんとのぼって、てっぺんまでたどり着いた。洸太も追いかけてひといきにのぼる。
 千波はすぐに滑り降り、そしてまたのぼってきた。何度もそれを繰り返す。
 夕日がだんだん薄くなり、空が濃い藍色に染まってくる。洸太は、やっと飽きてきた千波の手を引いて、家に向かう。そろそろけんかは終わってるかな、と洸太は思う。終わってなかったらどうしようか。千波は、さっきまでとは打って変わって、なんだか無言だ。うつむいたまま、足もとの石を蹴りながら歩いている。
 洸太は、適当な歌を歌い始めた。すれ違う人にはわからないように小声で。千波の好きな童謡、テレビ番組の歌、学校で習った歌。
 千波は顔を上げて、やがて洸太と一緒に歌い始めた。声が大きい。まあいいか。自分がこんな大声で歌っていたら大丈夫かと怪しまれるが、千波の年なら許されるだろう。
 歩道の植え込みが途切れたあたりには、雑草にしては少し背の高い黄色い花が、ぽつりぽつりと咲いている。日暮れのぼんやりした光の中で、小さなランプのように見えた。
 家に向かう道を、黄色いランプが照らしているような気がした。
 そのあと家に帰った時に、両親のけんかはどうなっていたのだったろう。千波とそうやって散歩をしたのは一度や二度のことではなかったから、もういちいち覚えていない。
 ようやく少し我に返って、洸太は窓の外の暗い風景をもう一度眺めた。それから、ゆっくりカーテンを閉めた。
 千波は、すぐには目が覚めないかもしれない、と思った。
 覚めないだけならいいけど。
 ちゃぶ台の上に置いてある、カセットテープを手に取る。
 なんでこんなものを、わざわざ持ち歩いてたんだろう。うちではもう聞けないのに。
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