第6話

文字数 4,864文字

 トイレから戻ってくると、長谷川が「テクノライトの坂本さんから電話があった」と言った。
「あ、はい、なんでしたか」
 先日、長谷川と一緒に行って、通信システムの更新を提案した会社だ。
「あの話、もう一回聞きたいんだそうだ」
「え」
 思いがけない言葉だった。
「もっかいちゃんと説明してきて。システム一新したらこれだけ変わりますって、説得して。無理はしなくていいから」
「はい」
 急いで電話して、訪問の約束を取り付ける。
 いい感触で、内心やったと声を上げる。いやまだ契約できたわけじゃないし、と思い直し、もう一度資料を作り直そうと、パソコンに向かった。
 長谷川には、千波の意識が戻ったことを話した。「それはよかった」と不愛想な答えだった。「ミニコンサート、どうでしたか?」とさりげなく聞くと、「まあ、悪くなかった」と、これもそっけない返答だった。言い方はそっけないが、なんとなく感じられるものがあって、洸太は特にいやな気持ちにはならなかった。
 資料作りの途中で一服しに行って戻ってくると、机になにかが置いてあった。
 なんだろうと思ったら、CDだった。
『エレメントNR』と書いてある。
 真史のバンドのアルバムだ。
 おどろいて裏返してみた。「北村真史」「高橋陽介」の名前もある。食い入るように見ていると、いつの間にか長谷川が後ろに立っていたので、心臓が止まりそうになった。
「わ、びっくりした。あ、営業出ますか?」
 腰を浮かせながら言い、それから、はっとした。このCDはもしかして、と思ったのだ。
 案の定、長谷川は洸太の肩越しに手を伸ばして、ジャケットの写真を指差した。
「このボーカル」
 四人並んで写っている男のうち、少し背の低めなのが真史だった。
「は、はあ」
「お前が言ってたやつだろう」
「あ、はい、えーっと、そうですね」
「相変わらずいい声をしていたな」
「あ……、ありがとうございます」
 なぜか礼を言ってしまった。
「前に、こっちでやった初ライブを聴きに行ったんだ。いいと思ったから、そのあと出たアルバムを買った」
 気づかなかったが、CDの下にライブのちらしも置いてあった。上のほうに、『エレメントNR 初ライブツアー2009!』と大きい字で書いてあり、聞いたことのある地元のライブハウスの名前がある。
 ……こっちに、来たのか。
 そういわれてみれば、そんな話を誰かから聞いたような気もする。最後に会った時の気まずい思いと、慣れない仕事の疲れで、結局行かなかった。
「聞きたかったら、貸してやる」
「え、ほんとですか」
「……ちゃんと返せよ」
「もちろん、ちゃんと返しますよ」
「そのちらしもやる」
「え、いいんですか、大事にとってあったんですよね。ていうか、こんなのとってあったんですか」
 さすが几帳面なA型、と内心でつぶやく。こんな何年も前のちらしを取っておくのは、いかにも長谷川らしかった。たくさんのちらしがきれいにファイルされているのが、目に見えるようだ。
「ライブも結構よかったからな」
「いいんですか、そんなのもらっちゃって」
「もう一枚あるから、いい」
 洸太はもうなにも言えない。
 礼を言って、CDとちらしを鞄にしまう。千波に聞かせてやろう、と思った。
 営業に出るという長谷川と一緒に、外回りに出る。
 真史。
 お前の声は、ちゃんと届いてた。
 水平線の向こうじゃないけど。
 少なくとも、まだ今よりもう少し若かった長谷川には、届いたんだ。
 思わず笑いがもれて、車を運転しながら、長谷川に気味悪がられた。
「やめろ、その変な顔」
「え、変ですか、別に普通ですけど」
「鏡を見ろ」
 届けようと思ったら、届くのかもしれない、と思った。
 自分がそう望んだら、ちゃんと返ってくるのかもしれない。父も母も、望んでもだめだったけど。そんなことを、思った。
 晴美と約束していたので、洸太は定時で会社を出て、待ち合わせ場所のカフェに行った。
「めずらしいね、水島くんのほうから誘ってくるなんて」
「そうだっけ?」
 洸太はコーヒーを頼む。たばこに火をつけて、一本だけ吸った。晴美が、あーあまた吸ってるよ、という顔をする。そうか、やめようかな、とふと思う。とりあえず、千波が退院したらもう家では吸えないな、と思っていた。
「うちはさ、昔はそうでもなかったと思うけど、中学とか高校くらいからはずっと貧乏でさ。別に自慢するようなことじゃないけど」
 自分でも脈絡のない話の始め方だと思ったが、晴美は、へえ、といって続きを待つように洸太を見る。
 部活はやめたし、高校からはずっとバイトをしていた。
 大学にはなんとか行かせてもらったけど、やっぱりバイトばっかりだった。
 やりたいこともやれなかったし、そのうちなにがやりたいのかもわからなくなった。なにかやろうという気持ちもそのうちなくなって、ただその日を過ごすので精いっぱい。家賃を払う日だけは妙に記憶していて。
「うらやましかったんだ、たぶん。金の心配もしないで好きなことやってて」
 それなりにバイトはしてたみたいだけど、と付け足しておく。
「あいつの歌を初めて聞いたときは、本当にビビったというか。あんなふうに歌えるんだ、と思って」
 あのころは、自分にしてはめずらしく、ライブに行ったりそのあとの打ち上げに参加したり、ある意味、ちょっとだけ青春だったのかもしれない。
「楽しかったんだ?」
「たぶんね。家のことも金のことも、考えないでいられたからかな」
 だから。
「バンドをやめた、歌をやめたって聞いたときは、多少なりともショックだった。でも、そういえば昔、最後は気まずく別れたから、それが悪かったって思っていて、だから、なんて言っていいのかわからなかった」
 考えなしのことを言ったな、と今もやっぱり思う。
「なんて言ったの? 聞いてもよければ」
「うちは金のない家でよかった、とか」
 あいつんちはちょっと裕福な旧家らしくて、家を継げとか言われてたらしいから。
「あいつはそのせいで家族とけんかになって耳をけがして、せっかくデビューできたのに、そのせいでバンドもやめて」
 病院で歌っていた、真史。
「それでもああやって歌えるんだなあ」
「すごくよかったよ」
「好きなんだなあ、って思った」
「そうだね、すごく好きなんだなあって、伝わってきた」
「おれには、そうやって好きでやれることがなかったから。たぶんうらやましくて。それであんなこと言ったのかも」
「お金なくてよかったって?」
「それもそうだし」
 やめちまえよ、とも言った。その程度の気持ちでいるなら。ほかのやつに譲ってやれよ、と。
「そう言ったんだよ」
「そっか……」
 晴美は、くるくるとティーカップの紅茶をスプーンでかき回している。
「直樹のことだけど」
「誰? ああ、こないだの」
 晴美はちょっといやそうな顔になる。
「中学のころ、よくつるんでた。おれもあいつも、家にいるのがいやで。一緒に悪いこともやったし」
 どんなこと、とは晴美は聞かない。聞かないとわかっていて、洸太は話している。
「あいつがまだあんなことやってるなんて、びっくりしたけど。おれだって、もしあのままだったら、きっと同じことになってたかもしれないって思う。おれは、たまたま……」
 どうして、自分はあそこから抜け出せたのだろう。
 中学三年の時の担任がしつこくて熱心だった、とか、父に怒鳴られる母がかわいそうだった、とか、まだ小学生だった千波が手をつないで見上げてきたから、とか。
 それは些細なことで、直樹にも自分にも起こりえたし起こらなかったかもしれないこと。
 でも、それがあったから、なんとかしないと、と思えた。
 それでも、こう思えるようになるまでは、また更にこんなに時間がかかった。
 父が姿を消してからは特に、なにもできなかった。とにかく、日々なんとか過ごすことだけで、目の前がいっぱいだった。内定をもらった時は、いっときほっとした。でもそれも、母が入院して、そのまま死んでしまって。千波と自分の生活を、ひとりでなんとかしないといけなかった。
「水島くん、よくやってきたよね、そう思うと」
 晴美は穏やかな顔で、うなずいている。
「まったくだ。ほめてほしいよ」
「えらいえらい」
 子どもに言うように言って、晴美は洸太の頭をくしゃくしゃとなでた。
 千波があんなことになって、でも、そのおかげで真史にもう一度会えた。
 千波までもいなくなってしまうのかも、と思った時の、あの胸の底が冷える感じ。
 目を覚ました時、心底ほっとした。
 それは、真史の歌の力だったのか、父の歌の力だったのか、それとも、もっと別のなにかだったのか。
 どちらにせよ、晴美の言葉を聞かずに、あのまま千波のことをあきらめていたら、本当に失ってしまっていたかもしれない。
 そうだ、求めよさらば与えられん、っていうじゃないか。なんだったか忘れたけど。
 だめかもしれないけど、でも、届けようと思ったら、届くかもしれないんだ。真史の声が、長谷川に届いたように。そう思って、自分を励ます。
 洸太は、すうと息を吸った。
「あのさ……」
 ティーカップに口をつけていた晴美は、ゆっくり洸太の方を見上げた。
「あのさ、晴美、えっと……」
「うん、なあに?」
 おもしろそうな顔で、晴美が洸太を見ている。
「その……、また、誘ってもいいかな」
 晴美は、そのままじっと洸太を見つめていた。それを、必死で受け止めようとする洸太は、しかし、その目の力に負けそうになる。目をそらしてしまいそう、と思った。
「そうか、なんだか、もう大丈夫になってきた感じなのかな」
「千波は、もう大丈夫だよ、きっと」
「千波ちゃんのことじゃないよ。水島くんのことだよ」
 洸太は今ひとつ意味がつかめず、顔をしかめる。
「おれがなに? おれはいつでも大丈夫だよ」
「そうでもないと思うけど」
 晴美は小さく笑顔になる。
 そのままなにも言わないので、洸太は落ち着かない。通じてないのか、とも思った。
「晴美、あの……」
「それ、本気なのかな?」
 洸太は、思わず背を伸ばした。
「本気だよ」
「そっか」
 そういって、またスプーンをくるくると回す。それから、小首をかしげて洸太を見る。
「私ね、めんどくさいよ。三十過ぎたおひとり様だし、母親はちょっといろいろ弱ってきてるから、ひとりにしておけないし」
 洸太はどう答えていいのかわからず、そういう晴美のくるくる回る手元を見る。
 これは、もしかして。
 やっぱり、断られているのか。
「本気でそう思うんだったら、チャレンジしてみる?」
「……え、っと……?」
「本当に本気だっていうなら、考えてみてもいいよ。応えられるかは、わからないけどね」
 晴美はスプーンの手を止めて、顔を上げた。そして、ふふふと笑う。
 水平線の向こうには、届かないのかもしれない。でも、歌っていた、真史。
「そ、その、本気、だから」
「ふうん」
 さらに、にやにやと笑う。
「だから……、その」
「じゃあ、がんばってみて」
 そういうと、かちゃんとスプーンをソーサーに置いた。バッグを手にして立ち上がる。
「え、あの、ちょっと」
「どうやってがんばってくれるか、楽しみにしてる。でも、もしそれに応えられなくても、怒らないでね。代わりにここは私がごちそうしとくから」
 すいと伝票を手にして、晴美はすたすたと店の入り口に向かって歩いて行ってしまった。
「え、ちょっと、なにそれ」
 はっと我に返ってから、洸太はあわてて上着を抱え、鞄をつかんであとを追いかけた。となりのテーブルのカップルが、おどろいたようにこっちを見ているのを無視する。
 そのとき、ふと店内のBGMが耳に入った。
 聞いたことがあるメロディだった。
 一瞬、晴美の後ろ姿より、その曲に意識が向かってしまう。
 そして、ふと思う。
 直樹には、こういう歌があったのだろうか。
 こうやって、ふと口ずさめるような歌が。
 直樹。
 どこにいるか知らないが、ちゃんとこっちに戻って来いよ。
 そう、思わず胸の中で、つぶやく。
 そして、レジに向かう晴美を追いかけた。
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