第2話

文字数 3,270文字

 屋上から見下ろす街は、静かだった。
 日曜日の午後の病院は、白い壁を陽光に光らせている。その奥になにかを隠しているんじゃないかと、病院の門をくぐるたびにそんなことを洸太は思う。治らない病気の人や、その疲れた家族なんかを。
 病棟の屋上で、洸太は手すりにもたれていた。たばこをくわえ、ぼんやりと眼下を見下ろす。秋晴れの空の下で、商店街のひらひらした木の枝みたいな飾りや、はためく和菓子店ののぼりが見える。
 千波の事故から二ヶ月ほどがたつ。日差しはずいぶん柔らかくなり、空の色も少しずつ深みを増しているようだ。
 煙をひといきはいてから、ポケットに手をつっこんで携帯を取り出す。メールの画面を開いて、文面をじっと見た。
『前に言ってた仕事の打ち合わせをしたい。日時はそっちに合わせるから、都合のいい日をメールして』
 しばらくそれを眺めてから、胸ポケットの、折り畳んだ紙切れを取り出す。
 診断料。
 検査料。
 差額ベッド代。
 ……。
 ……。
 ちょっとしたバイトでも、やれるならした方がいいだろう、と思う。会社には黙ってればいい。ここのところあまり残業できないし、といって残業したところで残業代はどうせ出ない。収入を増やそうと思うなら、どっか別のところでカバーするしかない。
 真剣に週末のバイトを探そうかな、とも思う。
 ふう、とついため息が出た。
 携帯の画面を、もう一度見る。
 そして、紙を折りたたんでまた胸ポケットにしまった。
 病室に戻ると、客が来ていた。
「あれ」
「また来ちゃった」
 洋菓子店の箱をちょっと持ち上げて見せて、晴美は、いたずらを見つかった子供みたいに小さく笑った。
「なんだ、いいのに。せっかくの休みに。ありがとう」
「どういたしまして。水島くんの好きなチーズケーキだよ」
 晴美は、カセットデッキのスイッチを入れた。真史の歌が、流れ始める。看護師の吉田さんが言った、耳が聞こえてるという話を、信じているのだろう。
 それから、お茶入れてくるといって、カップの乗ったトレイを手に、病室を出ていった。
 洸太は、ベッドの横のいすにゆっくりと腰を下ろした。
 日に焼けてない白い顔の千波が、相変わらず静かな表情で眠っている。頬はほんのり色づいていて、耳を近づけると、かすかな呼吸の音が聞こえた。胸も、ゆっくり上下している。
 だから、まだ、大丈夫だ。
「まだ」って、なんだろう、と洸太は思った。「まだ」って、いつ? いつになったら、「まだ」じゃなくなるのだろう。
 なんだかなぞなぞみたいになってきたので、考えるのをやめた。
「千波」
 代わりに、そっと、名前を呼ぶ。
「いい加減、起きないかなあ」
 千波は、動かない。
 返事をしない。
 目を開けない。
―もう、お兄ちゃんのばか!
 そんなことも、言わない。
「あーあ。いつまで寝てる気だよ、もう……」
 無意識に、自分の胸のあたりに手を当てていた。かさこそとしたうすい紙の感触。給料日までは、まだ二週間ある。
 晴美が戻ってきたので、一緒にケーキを食べることにした。晴美は、自分用にはフルーツタルトを買ってきていた。
「千波ちゃんはどういうケーキが好きなの?」
「えー。なんだろう。そんなの覚えてないよ」
「かわいい妹の好きなケーキも覚えてないの?」
 晴美は大げさに肩をすくめて、イチゴをほおばる。
「いいよ、どうせ今は食べられないんだから、チーズケーキにしてくれれば」
「自分が食べる気満々だね」
「悪いか」
「私も食べる」
 しばらくの間、千波の横でチーズケーキの攻防戦を繰り広げた。
「あら、楽しそうですね」
 入ってきた吉田さんににこにこと言われて、洸太はあわてて居住まいを正し、晴美を軽くにらんだ。
「お世話になります」
「いえいえ、お邪魔しちゃってすいません。すぐに終わりますから」
「いえ、全然、邪魔じゃないです」
 洸太は力を込めて言ったが、吉田さんに、はいはい、と軽く笑われた。
 おっとりとした雰囲気に似合わず、てきぱきと体温を測ったり数値をチェックしたりする吉田さんの動きを、洸太はなんとなく目で追っていた。そのすきをつかれ、洸太のチーズケーキは少しずつ小さくなっていく。
「おい、もう、いい加減やめろって」
 しまいに、洸太は紙皿を持ち上げた。
「ちぇ、あとちょっとだったのに」
「じゃあ最初から自分の分をもう一つ買ってこればいいじゃないか」
「なあに、買ってきたのは私なんだよ」
 わざとらしく洸太のほうに唇をつき出してから、晴美は自分のタルトをきれいに平らげた。
「水島さん、今週から少し点滴のお薬が変わりましたから」
「あ、そうなんですか」
 吉田さんが、軽く笑いをかみ殺しているのがわかる。洸太は、横目で晴美をにらんだ。晴美はどこ吹く風といった顔で、ケーキの箱を片付けにかかる。
「薬が変わったら、なんか変化があるんでしょうか」
「そうですねえ」
 吉田さんはチューブを手で調節しながら、少し考える顔をした。
「これは、千波さんの体調とかを考慮して変えているものなんですけど、なにか変化があるかもしれないです。なんともいえませんけど」
 あいまいな言い方は、あまり期待しない方がいいってことだな、と洸太は思った。
「いろいろしゃべったり、テープかけたりしてますよ」
 横から晴美が口を出した。
「それはすごくいいと思います。よい刺激になると思いますので、続けてみてください」
と、吉田さんは言ってくれる。それがなにか慰められているようで、洸太は内心でついまたため息が出た。
 吉田さんはそれから、ふと壁のほうを振り向いた。
「この曲、なんていう歌でしたっけ」
 ぱっと晴美が顔を上げる。
 吉田さんは、ものすごく眉間にしわを寄せたしかめつらになっている。
「なんか、聞いたことがあるというか……」
 洸太は、晴美と顔を見合わせた。
「昔の友達のバンドの曲なんです」
 黙っている洸太に代わって、晴美が答える。
「へえ、お友達がバンドやってたんですか?」
「そうなんです。何年か前にデビューして……」
「え、ほんとですか。なんていうバンドなんですか?」
「エレメントNRっていうんですけど……」
「あ! 聞いたことありますあります。じゃあこれ、はやった歌なんですね。すごいですねえ」
 吉田さんは、感心したように言ってから、「じゃあお大事に」と会釈して部屋を出ていった。
 テープの歌が、部屋に流れている。アップテンポでノリのいい曲だ。
「吉田さん、知ってたね」
 うれしそうな顔で、晴美が振り向く。
「そうだな、ちょっと、なんか、びっくりした」
 長谷川に聞いたバンド名を、会社に戻ってからこっそりネットで検索すると、思った以上にたくさんの記事が出てきた。
 二〇〇八年にデビューした四人組のロックバンド。
 デビュー曲がランキング八位。
 セカンドアルバムがミリオンセラー。
 初の武道館ライブ。
 全国ツアー開始。
 突然の活動休止発表。
 話し合いの結果、メンバーは解散を決断。
 ……
 ……
 真史と陽介のバンド、エレメントNRは、デビューから三年あまりで、解散していた。
「だって、名前聞いて私も思い出したもん、そのバンド。この歌、聞いたことあるわけだって思って。デビュー曲で、確かにけっこうはやってた。調べてみたら、わりと売れたみたいじゃない」
 勢いのあるドラムのリズムに乗って、真史の歌声が力強く言葉を綴る。
「この人に来てもらって、歌ってもらえたらいいのにねえ」
 懐かしそうな顔で歌を聴いていた晴美が、つぶやくように言う。
「はあ? なに言ってんの」
 そういえば、と洸太も思いだす。飲みに行った居酒屋で、千波と行った日曜日のファミレスで、残業帰りに寄ったコンビニで。何度か聞いたような気がしないでもない。
 でも、どうしても、あのころの記憶はどこか薄かった。
 当時の洸太は、そしてたぶん千波も、母がいなくなった後の胸の大きな穴をなんとか埋めようとして、必死だったのかもしれない。
 就職したての洸太は、高校生になった千波とふたりで必死で生活していた。夢を追いかけた友達のことを気にしている余裕は、正直、なかった。
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