第6話
文字数 4,137文字
雑多な大きさのテーブルがいくつも並び、色も形もいろいろのいすがそれを囲んでいる。ソファもあれば、プラスチックのカラフルな色のいすもある。壁には、エスニックな雰囲気のタペストリーがかけてあり、配管がむき出しの天井にある大きなファンが、ゆっくりと空気をかき回している。
洸太は、にぎやかなカフェのテーブルで、晴美と向かい合っていた。
晴美に誘われて、週末に街中のギャラリーの展示会に行った帰りだった。
「やっぱ、あの絵、すてきだったなー」
両手でハーブティーのカップを挟んだ晴美は、うっとりと宙を見ている。
なにかの雑誌で見たとかで、おもしろそうだから行きたいというのに付き合ったのだ。晴美は熱心に、壁にいくつもかけられた小ぶりの額縁をのぞきこんでいたが、洸太には、どうやら静物をちょっと抽象っぽく描いてあるらしい、ということ以外には、よくわからなかった。とりあえず、色づかいの好きなものを見る、という程度だ。
「水島くんは、なんか気になるの、あった?」
「うーん」
そう聞かれると、いつも困る。困っているときは、晴美はそれ以上追及はしてこない。なにか洸太が答えれば、ふんふんと聞いてくれる。
「あの、奥の壁の一番右にあったやつは、水色がきれいだった」
「ああ、あれね、排水溝のやつ」
「え、排水溝? あれ、そうなの?」
「そう書いてあった気がする。説明に」
そうだったのか。まあいいや、どうせ難しいことは自分にはわからない、と洸太はアイスコーヒーのストローをくわえる。
洸太が今の営業所に異動してきたとき、晴美はすでにそこで働いていた。異動に伴う手続きのことなどで何度か言葉を交わすうちに、どういう話の流れだったのか、誘われて週末に一緒に美術展に行った。それが始まりだったと思う。なんとなくときどき一緒に夕食に行ったり、週末に会ったりするようになった。
それが、もう二年近くも続いているが、洸太も晴美も、それらしいことを口にすることはなかった。一緒に食事をして、または映画を見て、それとも美術館に行って、そのあとにはコーヒーかなんかを飲みながらあれこれしゃべって、それだけだ。それも、月に一度か二度くらい。はたから見れば付き合っているように見えるかも、とは洸太も思うが、自分にも、そして晴美にもそういう気持ちがないのはわかっている。
なぜ晴美が洸太に声をかけてくるのか(たいていの場合誘うのは晴美なので)、洸太にはよくわからなかった。よくわからないが、誘われれば特に用事がなければ応じていた。晴美は、世話好きだがさっぱりしていて、一緒にいて気を使わなくてよいのが一番の理由だろうと、自分では思っていた。
洸太は来る者は拒まずなので、ときどき女の子と付き合うことはある。でも、元来面倒なことが嫌いで、たいていそういう付き合いのもろもろのことが煩わしくなってきてしまう。そういうことは相手にも伝わるのか、長続きすることはほとんどない。意外に冷たいのね、とかなんとか言われて振られるか、自然消滅するかで終わる。
そう思うと、晴美とのこの微妙な距離が、自分にはちょうどいいのかもしれない、と思う。お互い縛られず、話の合うところだけ付き合っていれば、いやな思いをすることもない。
晴美の誘ってくる内容が、洸太も特に嫌いな分野の事柄でないというのもある。これが、例えばアウトドア方面に向かうとか、ショッピング関係に向かうとかだったら、すぐに終わっていた関係かもしれない。映画や美術展はただ黙って見ていればいいし、たぶん自分でもそう嫌いなジャンルでもないんだろう、と思う。それに、晴美は自分の感想はあれこれ話すが、あまり洸太の意見を求めてはこない。それはかなり楽だった。おもしろかったらそう言うが、そうでもないものに対しては、どういう感想を言えばいいのかわからないからだ。
「それで、どうなの?」
晴美は手のカップをソーサーに置く。半分ほど残っているハーブティーが、ゆらゆらと揺れた。
「どうって、なにが?」
「なにがじゃないよ、妹さん」
「ああ、そのことか」
洸太は、アイスコーヒーをもう一口飲んだ。それから、透明なグラスの水を飲む。冷たくて気持ちがいい。
「まあ、変わらないよ」
会社では、長谷川以外には詳しいことは話していなかった。晴美にも、大したことはないとごまかしていたのだが、そうしたら、結局怒られた。なんでそういうことを隠すの! とか言って。隠しているつもりはなく、大げさな話にしたくなかっただけだ。それで、仕方なく(というとまた怒られそうだが)晴美にももう少し詳しく説明した。
妹が車にはねられたこと。
ひき逃げだったこと。
犯人はまだ捕まっていないこと。
まだ、意識が戻らないこと。
「そうか……。もう、どれくらいだっけ」
「そろそろ……、二週間くらいかな」
「もうそんなかあ」
意識が戻らないといっても、それ以外は大きなけがはなく、あとは意識が戻るのを待つだけ、というようなことを医者は言った。千波が目を開ければそれでもう大丈夫、ということだと洸太は理解した。
医者がそう言う以上、洸太にできることはほとんどない。母の時と同じように。
「でもまあ、ひどいけががなくてよかった」
ほうっと晴美は息をはいた。
「だから、たいしたことないって言ったじゃん」
「たいしたことはあるでしょ。目が覚めないんだから」
晴美は、ちょっと憤然としたように唇をとがらせた。
「じゃあ、今はひとり暮らしなんだ?」
「そういうこと」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「なに食べてるの?」
「なにって、目玉焼きとか、野菜炒めとか」
「へえ、意外にちゃんとしてるんだ」
「意外ってなんだよ。おれは料理もできるんだよ」
「それならいいけど。だって、料理ができないひとり暮らしの男の子って、もう食生活なんてしっちゃかめっちゃかなんだよ」
しっちゃかめっちゃかって、と洸太は思わず笑ってしまった。ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
「大丈夫だって。ちゃんと食べてるし、ちゃんと寝てるよ。寝すぎるくらい。こないだなんてさ」
仕事中に睡魔の襲撃を受けてあえなく敗北し、長谷川さんに怒られた、というと、晴美はくすくすと笑った。
大丈夫と言わないといけない、と思っていた。
晴美は心配してくれてるのだろう、というのがわかる。どうしてかわからないか、いつも晴美は洸太の心配をしているように思える。必要以上にかまってくることはないが、そう見える。
こうやって誘ってくるのも、心配してるからなんだろうな、と洸太は思っている。
ふいに、テーブルに置いてあった晴美の携帯が振動した。
晴美が一瞬顔をこわばらせ、でもすぐにいつもの表情に戻って、洸太に「ごめん」と目で合図しながら、電話に出る。
横を向いて話しているのが小声なので、話の内容までは、よくわからない。わからないが、たぶんお母さんだろう、とは思った。晴美が、眉間にしわを寄せて、怒ったような口調になっているからだ。
ほどなく電話を切った晴美は、携帯をバッグの中にしまった。
「ごめんね」
「いいよ、別に。お母さん?」
晴美は、いやそうな顔をしたが、答えなかった。
晴美は母親と、あまりうまくいってないらしい。洸太にしてみれば、たまに聞く晴美と母親とのことのほうが、心配な気がする。
でも、母親のことを持ち出すと、晴美は機嫌が悪くなる。
ちょっとうつむいて頬をふくらませているので、しまったしまったと思って、洸太は別の話を探す。
「そういや、そうそう、あの、カセットってさ」
言ってから、あれ、なんの話だっけ、と自分で思った。どこから出てきた、カセットって。
「なに? カセット?」
そうだ、千波のトートバックだ。
「えっと、そう、カセット。カセットテープ」
「突然なに? カセットがどうかしたの」
「いや、今でも使うのかなあと思って。っていうか、聞けるのかな」
「えー、そんなこと急に言われてもさ」
晴美は鼻の頭にしわを寄せた。
「そうだねえ、カセットって、もうあんまり見かけないよね。でも、聞こうと思えば聞けるんじゃない? 電器屋さんに行ったら、カセットデッキ、まだ売ってるでしょ」
「そうなんだ。へえ」
「どうして? なんで急に?」
不思議そうな顔をして、身を乗り出してくるので、洸太は、千波のトートバックから出てきたカセットテープの話をした。
「まあ、昔もらったのとかが残ってても、そんなにおかしくないと思うけど」
「でも、うちにももうカセットデッキなんかないから、聞けないのに」
「あ、そうなんだ、そっかー。じゃあ、聞けないけど大事に持ってたってことなんだね」
大事に、なのか。洸太にはわからない。しかも、わざわざ普段持ち歩くバッグに入っているっていうのは、どうしてなんだろう。
「なにが入ってるんだろうね」
「さあ」
「語学かなんかのテープなのかな。それとも、なにか妹さんの好きなバンドとか歌手とかの歌なのかも」
「そんなの、あるのかなあ」
「そりゃあ、中学とか高校のときには、あるんじゃない? なにがはやってたのかなあ、そのころは」
洸太にはそんなことは全然記憶にない。自分が中学や高校のときにはやっていた歌さえ、ほとんど思い出せない。
妹さんが中学生の頃って、いつくらい? と晴美に聞かれて、一生懸命年数を数えた。
「じゃあ、あの歌手か、このバンドくらいの頃かなあ」
と、晴美は洸太にはよくわからない名前をつぶやいている。
千波に、カセットを持ち歩くほど好きな歌やバンドがあるなんて、知らなかった。
いつも、洸太のあとを一生懸命追いかけてきていたのは、覚えている。
両親がけんかを始めると、洸太のところにやってきて、服の裾をぎゅっと引っぱる。それで、洸太はそのまま千波を外に連れ出し、日暮れの街をぶらぶらと歩きまわったものだった。
病院の白い部屋で目を閉じて眠っている千波は、そのころとちがって、すっかり大人だ。でも、肩あたりで切りそろえた黒髪は、子供のころのおかっぱを思い出させる。
目が覚めるのは、いつだろう。
覚めなかったら、どうなるんだろう。
晴美が並べる歌のタイトルをなんとなく聞き流しながら、洸太はまたアイスコーヒーを飲んだ。
洸太は、にぎやかなカフェのテーブルで、晴美と向かい合っていた。
晴美に誘われて、週末に街中のギャラリーの展示会に行った帰りだった。
「やっぱ、あの絵、すてきだったなー」
両手でハーブティーのカップを挟んだ晴美は、うっとりと宙を見ている。
なにかの雑誌で見たとかで、おもしろそうだから行きたいというのに付き合ったのだ。晴美は熱心に、壁にいくつもかけられた小ぶりの額縁をのぞきこんでいたが、洸太には、どうやら静物をちょっと抽象っぽく描いてあるらしい、ということ以外には、よくわからなかった。とりあえず、色づかいの好きなものを見る、という程度だ。
「水島くんは、なんか気になるの、あった?」
「うーん」
そう聞かれると、いつも困る。困っているときは、晴美はそれ以上追及はしてこない。なにか洸太が答えれば、ふんふんと聞いてくれる。
「あの、奥の壁の一番右にあったやつは、水色がきれいだった」
「ああ、あれね、排水溝のやつ」
「え、排水溝? あれ、そうなの?」
「そう書いてあった気がする。説明に」
そうだったのか。まあいいや、どうせ難しいことは自分にはわからない、と洸太はアイスコーヒーのストローをくわえる。
洸太が今の営業所に異動してきたとき、晴美はすでにそこで働いていた。異動に伴う手続きのことなどで何度か言葉を交わすうちに、どういう話の流れだったのか、誘われて週末に一緒に美術展に行った。それが始まりだったと思う。なんとなくときどき一緒に夕食に行ったり、週末に会ったりするようになった。
それが、もう二年近くも続いているが、洸太も晴美も、それらしいことを口にすることはなかった。一緒に食事をして、または映画を見て、それとも美術館に行って、そのあとにはコーヒーかなんかを飲みながらあれこれしゃべって、それだけだ。それも、月に一度か二度くらい。はたから見れば付き合っているように見えるかも、とは洸太も思うが、自分にも、そして晴美にもそういう気持ちがないのはわかっている。
なぜ晴美が洸太に声をかけてくるのか(たいていの場合誘うのは晴美なので)、洸太にはよくわからなかった。よくわからないが、誘われれば特に用事がなければ応じていた。晴美は、世話好きだがさっぱりしていて、一緒にいて気を使わなくてよいのが一番の理由だろうと、自分では思っていた。
洸太は来る者は拒まずなので、ときどき女の子と付き合うことはある。でも、元来面倒なことが嫌いで、たいていそういう付き合いのもろもろのことが煩わしくなってきてしまう。そういうことは相手にも伝わるのか、長続きすることはほとんどない。意外に冷たいのね、とかなんとか言われて振られるか、自然消滅するかで終わる。
そう思うと、晴美とのこの微妙な距離が、自分にはちょうどいいのかもしれない、と思う。お互い縛られず、話の合うところだけ付き合っていれば、いやな思いをすることもない。
晴美の誘ってくる内容が、洸太も特に嫌いな分野の事柄でないというのもある。これが、例えばアウトドア方面に向かうとか、ショッピング関係に向かうとかだったら、すぐに終わっていた関係かもしれない。映画や美術展はただ黙って見ていればいいし、たぶん自分でもそう嫌いなジャンルでもないんだろう、と思う。それに、晴美は自分の感想はあれこれ話すが、あまり洸太の意見を求めてはこない。それはかなり楽だった。おもしろかったらそう言うが、そうでもないものに対しては、どういう感想を言えばいいのかわからないからだ。
「それで、どうなの?」
晴美は手のカップをソーサーに置く。半分ほど残っているハーブティーが、ゆらゆらと揺れた。
「どうって、なにが?」
「なにがじゃないよ、妹さん」
「ああ、そのことか」
洸太は、アイスコーヒーをもう一口飲んだ。それから、透明なグラスの水を飲む。冷たくて気持ちがいい。
「まあ、変わらないよ」
会社では、長谷川以外には詳しいことは話していなかった。晴美にも、大したことはないとごまかしていたのだが、そうしたら、結局怒られた。なんでそういうことを隠すの! とか言って。隠しているつもりはなく、大げさな話にしたくなかっただけだ。それで、仕方なく(というとまた怒られそうだが)晴美にももう少し詳しく説明した。
妹が車にはねられたこと。
ひき逃げだったこと。
犯人はまだ捕まっていないこと。
まだ、意識が戻らないこと。
「そうか……。もう、どれくらいだっけ」
「そろそろ……、二週間くらいかな」
「もうそんなかあ」
意識が戻らないといっても、それ以外は大きなけがはなく、あとは意識が戻るのを待つだけ、というようなことを医者は言った。千波が目を開ければそれでもう大丈夫、ということだと洸太は理解した。
医者がそう言う以上、洸太にできることはほとんどない。母の時と同じように。
「でもまあ、ひどいけががなくてよかった」
ほうっと晴美は息をはいた。
「だから、たいしたことないって言ったじゃん」
「たいしたことはあるでしょ。目が覚めないんだから」
晴美は、ちょっと憤然としたように唇をとがらせた。
「じゃあ、今はひとり暮らしなんだ?」
「そういうこと」
「ちゃんと食べてる?」
「食べてるよ」
「なに食べてるの?」
「なにって、目玉焼きとか、野菜炒めとか」
「へえ、意外にちゃんとしてるんだ」
「意外ってなんだよ。おれは料理もできるんだよ」
「それならいいけど。だって、料理ができないひとり暮らしの男の子って、もう食生活なんてしっちゃかめっちゃかなんだよ」
しっちゃかめっちゃかって、と洸太は思わず笑ってしまった。ずいぶん久しぶりに聞いた気がする。
「大丈夫だって。ちゃんと食べてるし、ちゃんと寝てるよ。寝すぎるくらい。こないだなんてさ」
仕事中に睡魔の襲撃を受けてあえなく敗北し、長谷川さんに怒られた、というと、晴美はくすくすと笑った。
大丈夫と言わないといけない、と思っていた。
晴美は心配してくれてるのだろう、というのがわかる。どうしてかわからないか、いつも晴美は洸太の心配をしているように思える。必要以上にかまってくることはないが、そう見える。
こうやって誘ってくるのも、心配してるからなんだろうな、と洸太は思っている。
ふいに、テーブルに置いてあった晴美の携帯が振動した。
晴美が一瞬顔をこわばらせ、でもすぐにいつもの表情に戻って、洸太に「ごめん」と目で合図しながら、電話に出る。
横を向いて話しているのが小声なので、話の内容までは、よくわからない。わからないが、たぶんお母さんだろう、とは思った。晴美が、眉間にしわを寄せて、怒ったような口調になっているからだ。
ほどなく電話を切った晴美は、携帯をバッグの中にしまった。
「ごめんね」
「いいよ、別に。お母さん?」
晴美は、いやそうな顔をしたが、答えなかった。
晴美は母親と、あまりうまくいってないらしい。洸太にしてみれば、たまに聞く晴美と母親とのことのほうが、心配な気がする。
でも、母親のことを持ち出すと、晴美は機嫌が悪くなる。
ちょっとうつむいて頬をふくらませているので、しまったしまったと思って、洸太は別の話を探す。
「そういや、そうそう、あの、カセットってさ」
言ってから、あれ、なんの話だっけ、と自分で思った。どこから出てきた、カセットって。
「なに? カセット?」
そうだ、千波のトートバックだ。
「えっと、そう、カセット。カセットテープ」
「突然なに? カセットがどうかしたの」
「いや、今でも使うのかなあと思って。っていうか、聞けるのかな」
「えー、そんなこと急に言われてもさ」
晴美は鼻の頭にしわを寄せた。
「そうだねえ、カセットって、もうあんまり見かけないよね。でも、聞こうと思えば聞けるんじゃない? 電器屋さんに行ったら、カセットデッキ、まだ売ってるでしょ」
「そうなんだ。へえ」
「どうして? なんで急に?」
不思議そうな顔をして、身を乗り出してくるので、洸太は、千波のトートバックから出てきたカセットテープの話をした。
「まあ、昔もらったのとかが残ってても、そんなにおかしくないと思うけど」
「でも、うちにももうカセットデッキなんかないから、聞けないのに」
「あ、そうなんだ、そっかー。じゃあ、聞けないけど大事に持ってたってことなんだね」
大事に、なのか。洸太にはわからない。しかも、わざわざ普段持ち歩くバッグに入っているっていうのは、どうしてなんだろう。
「なにが入ってるんだろうね」
「さあ」
「語学かなんかのテープなのかな。それとも、なにか妹さんの好きなバンドとか歌手とかの歌なのかも」
「そんなの、あるのかなあ」
「そりゃあ、中学とか高校のときには、あるんじゃない? なにがはやってたのかなあ、そのころは」
洸太にはそんなことは全然記憶にない。自分が中学や高校のときにはやっていた歌さえ、ほとんど思い出せない。
妹さんが中学生の頃って、いつくらい? と晴美に聞かれて、一生懸命年数を数えた。
「じゃあ、あの歌手か、このバンドくらいの頃かなあ」
と、晴美は洸太にはよくわからない名前をつぶやいている。
千波に、カセットを持ち歩くほど好きな歌やバンドがあるなんて、知らなかった。
いつも、洸太のあとを一生懸命追いかけてきていたのは、覚えている。
両親がけんかを始めると、洸太のところにやってきて、服の裾をぎゅっと引っぱる。それで、洸太はそのまま千波を外に連れ出し、日暮れの街をぶらぶらと歩きまわったものだった。
病院の白い部屋で目を閉じて眠っている千波は、そのころとちがって、すっかり大人だ。でも、肩あたりで切りそろえた黒髪は、子供のころのおかっぱを思い出させる。
目が覚めるのは、いつだろう。
覚めなかったら、どうなるんだろう。
晴美が並べる歌のタイトルをなんとなく聞き流しながら、洸太はまたアイスコーヒーを飲んだ。