第1話

文字数 1,916文字

「水島」
 外回りから帰ってから、自分の席で手元の携帯に視線を落としていて、すぐには呼ばれたのに気づかなかった。見慣れないアドレスからメールが来ていたので、誰だか気になったのだ。メールを開けてみて、ああ、と納得した。
「水島、ちょっと」
 この間、何年ぶりかに中学の時の友達と駅で偶然会った。「あー」「おー」と指差しあって、しかし互いにゆっくり立ち話をする時間がなく、アドレスだけ交換してあわただしく別れた。すっかり忘れていた。
「おい、水島」
「あ、はい、すいません」
 携帯をぱっとポケットにつっこんで、水島洸太は顔を上げた。
 ななめ向かいの机で、上司の長谷川は細い目をもっと細めている。それが細すぎて眩しそうに見える、といつも洸太は思う。
 月に一度の土曜出勤の日だった。いつもに比べれば静かな室内だったが、それでも、土曜なのにかかってくる電話のコール音、ばたばたとうちわであおぎながら電話をかけている営業マンの声などで、そこそこにぎやかな感じだった。机の島を回って、洸太は長谷川のところまで行った。
 むっちりした体をぴちぴちとスーツに包んだ長谷川は、神経質そうに片方の手で眼鏡を押し上げた。額がじっとりとぬれているのは、やはり暑いのだろう。
「これ」
 そういって、洸太のほうに手にした書類を差し出す。
「客から納期の問い合わせがあった」
「え、そうなんですか」
 洸太は、顔を近づけて書類の内容に目を凝らした。客から注文を受けたケーブルの種類や本数などが記入してある。
 洸太の会社は、ネットワークや通信用のケーブル、配線用の材料などを扱っている。洸太はそこに新卒で入社して以来、もう七年ほど営業として働いていた。今の営業所には二年前に異動になり、長谷川はそれ以来の上司だ。見た目どおりに、いろいろ細かい性格で、書類のたいしたことのない不備をあちこち指摘してきたり、何度も書き直しをさせたりして、営業からは少々けむたがられている。
「来月の十日で了解もらったんですけど」
『納期』の欄の数字を確認して、洸太は言った。
「一週間早くしてほしいそうだ」
「え、でも、この日数でぎりぎりですよ。ここのメーカーは」
「向こうは、三日のつもりで話をしてたらしい」
「十日でわかりましたって言ってもらったんですけど」
 この会社の担当者は、確かにころころと言うことを変えるので、脳内の要注意ブラックリストには載せていた。
「そうかもしれんが、ちょっとメーカーの担当者に相談してみて」
「わかりました。来週でいいですか」
 メーカーのほうは今日は休みだ。
「ああ、来週でいい。先方には一度電話入れといて。今日来てるって言ってたから」
「わかりました」
 長谷川は、そろそろ四十代後半だろうと思われ、この営業所の営業主任だった。小さい営業所なので、部下の営業部員は洸太を入れても三、四人しかいないが、営業所の中では所長の次に来るポジションだ。別に悪い上司とまでは洸太は思わないが、つかまると話が長くなるので、洸太も、そのあたりはできるだけ被害のないようにやり過ごすことにしていた。
 また、フロアのどこかでピロピロと電話がなっている。
「水島」
 席に戻っていた洸太は、またなんかあったかと書類から顔を上げた。長谷川が受話器を持った手をぶらぶらと揺らしている。土曜なのにどこの会社だ、と一瞬思ったが、そうではなかった。
「総務から電話」
 転送されて、洸太の近くの電話が音を立てる。受話器を取ると、聞きなれた女性社員の声がした。
「あ、岸ですけど、なんか、病院から電話です」
「病院? どこの?」
「市大病院、って言ってるんだけど」
「え、なんだろう」
 よくわからないがとりあえず替わってもらう。受話器の向こうで、中年の男らしい声が話し出した。
 相手の話を聞くうち、洸太は自分の顔がこわばってくるのがわかった。
「わかりました、すぐ行きます」
 電話を切ると、長谷川がこっちを見ていた。自分の様子が変なのだろうと、自分でもわかる。
 再び長谷川の席まで行って、洸太は電話の内容を説明した。
「ちょっと、家族が事故ったみたいで」
「事故?」
 長谷川が目を細める。
「大丈夫なのか」
「詳しいことはよくわからないんですけど……。早退して病院行ってきていいですか」
 長谷川は、無言で二、三度うなずいた。
「今日はもうアポはないのか」
「はい、ないです」
「わかった。様子がわかったら一度連絡して」
「はい、すいません。あとのこと、お願いします」
 洸太は席に戻って、ばたばたと机の上を片付けた。となりの席の同じ営業の山口隆弘が、「どうしたんですか?」と聞いてきた。
「ちょっと今日は帰るわ。悪いけどあとよろしく」
 洸太は小走りで部屋を出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み