第3話

文字数 4,561文字

「初めは、自分が抜けるだけでいいやって思って、陽介にもそう言ったんだ。あいつは、デビューしてから見る見るうちにギターがうまくなって、これからやるぞっていうところだったから。それで、誰かほかのボーカルを入れてくれって言ったんだ。でも、やっぱそれは無理って話になって、結局、解散することになって」
 笑顔はそのままだが、少し、声のトーンが変わった。
「デビューがいい感じだったし、これから行けるって時だったから、へこんだな、かなり。陽介にも、ほかのメンバーにも悪くて。おれはもう二度とここには戻れない、と思った。今でもそう思ってる。解散した後はなかなか浮上できなくて、しばらく部屋に引きこもってた。そのうち金も尽きてきて、もう東京からは離れようと思って。でも実家に帰るのもいやで、今のところに知り合いの紹介で雇ってもらったんだ。未経験でもいいっていうから」
 結局じいさんの言った通りに、三年しかできなかったな、と、自嘲気味につぶやく。
「おれが余計なことを言ったから……」
 洸太が言いかけると、ちがうちがう、と真史は手を振った。
「どっちみち、あれは倒さなくちゃいけないラスボスだったというか。対決するのがいやで、東京に行かないっていう選択肢を外せなかったというか。逃げ道を作ってたんだ。でも、行きたいなら、それはもう避けては通れない。それで、おれはやっぱり」
 真史は、一度言葉を切った。
「おれはやっぱり、行きたかったんだ。自分の歌でどこまで行けるのか、やってみたかった」
 強めの風が吹きぬけた。遠くで、犬の鳴き声がする。
「それに、耳のこともあったけど、やろうと思えば、聞こえないなりにやれたのかもしれないって思う。今は、いろいろ機材や技術も進んでるから」
 じゃあ、今でも未練があるのだろうか、と洸太は思った。いや、あっても全然おかしくないと思う。
「でも、あのときは、もう無理だって思っちゃったんだよな」
 ライブはもちろん、来てくれてるお客さんに喜んでもらえるようにやるし、その場にいるからまだいいんだ。どんな反応してくれるか目の前でわかるし。でも、CDとかアルバムとかって、本当に聴いてもらえてるのかな、ってふと思っちゃって。日本全国でいったら、おれたちのバンドのことを知らない人のほうが圧倒的に多いわけだし。なんていうか……。
 真史は少し言いよどんだ。相変わらず、波の音が絶え間ない。真史はその波を見ているようだった。
「水平線の向こうにもいろんな国があって、たくさん人が住んでるんだけど、こっちからは見えない、みたいな。向こうに届くようにって思って歌ってるけど、本当に届いてるかどうかはわからない。どうなんだろうっていつも思ってた。売り上げの数は少しずつだけど上がってきてたから、買って聴いてくれる人はいるんだろうって思ったけど、どうも実感がなくて。ときどきなんというか、もどかしいというか……」
 真史は、軽く手を上げて、目の前の海を指差した。
「誰もいない海に向かって、歌ってるみたいな気分」
 洸太も、水平線のほうを見る。空と海の境目は、光を失ってぼやけてきている。
 だから、ライブをやりたかった。たくさん、ライブをやりたかった。そうしたら、おれの歌が届いてるのがわかったから。みんなが、おれの歌に合わせて手を振ってくれる。一緒に歌ってくれる。それがあるからおれは歌える。そう思った。
 でも、だんだん耳の具合がおかしくなって。そのうち歌も変になってきて、ライブで歌うのが、難しくなってきて。
 結局解散ってことになっちゃって。
「おれ、向こういってから、けっこうがんばったんだよ。ボイストレーニングも行ったし、筋トレもしたし、CD山ほど聴いたし。歌詞や曲やコードのことも勉強したし」
 真史は、ゆっくりとした口調で続ける。
 太陽が沈んだのは海に向かって右手のほうだったが、いつの間にか、左手側のほう、砂丘が途切れるあたりの空に、少し細くなりはじめた月が出ていた。それに気づいたのか、真史がつぶやくように言った。
「そういえば、月の歌も作ったな。ボツになったけど」
 歌を作るとか曲を作るとか、洸太にはやはり今ひとつピンとこない。
「どうやって作るんだよ、そういうのって」
「どうって……」
 説明に困ったように、真史は首をかしげる。
「じゃあ、その月の歌、歌ってみてよ」
「なにって?」
「その歌。歌ってみて」
「こんなとこで?」
「病院でだって歌ったじゃないか、変わんないだろ」
「そんな理屈ありか?」
 笑いながら真史は、じゃあ、ちょっとだけ、と言った。
 片手を、リズムを取るように軽く振りながら、すっと息をすい、ゆっくりと口を開く。
 少しかすれたような、でも伸びのある柔らかな声が、海の上に滑り出した。波の音が、まるで伴奏のように聞こえる。

 ……月には、砂漠があって、海があって、大きな穴も開いてて、そして、うさぎがいる。うさぎは、山や川を飛び跳ねて、仲間のうさぎたちと楽しく遊ぶ。もし疲れたら、ちょっと抜け出して、ぼんやりと見下ろす。青く光る地球を。そこで静かに眠っている君を。そっと眺めながら、うさぎも静かに眠る……。

 なんだか、童話のような雰囲気で、最後はほんわかとしたメロディで終わった。
「じいさんに大声あげすぎて、ちょっと声がかれてるな……」
 真史はぼやいた。顔をしかめて軽く咳払いをする。
「へえ……、ロックじゃないんだな」
 そんな感想しか言えなかった。真史は笑った。
「まあバラードだよね」
 そして、「海に向かって歌うのも意外に悪くないなあ」とつぶやく。
 歌えないって言ったくせに、と思う。
 病院で、あんなふうに歌ってたくせに。
「陽介には、なんだこの童謡みたいなのは、って言われたな、確か」
 そう言ってから、真史はふと振り向いた。
「お前だろ、あいつを呼んだの」
 洸太は軽く肩をすくめた。
「呼んだのはおれじゃない。おれは、お前がこういうことをやるって俊哉に話しただけ。そしたら、俊哉が陽介に連絡したんだよ、たぶん」
 呼べないかな、とは言ったけど、と胸の中でつぶやく。
「陽介と話したのか?」
「まあ、ちょっとな」
「……東京に、戻るのか?」
「は? まさか」
 真史は笑った。無理に決まってんだろ、と言って。
「それはもういいんだ、別に未練はないよ。だいたいお前だって聞いてたからわかると思うけど、あれくらいのスペースで、あれくらいのピアノの音だったからなんとかなったけど、ステージとかバンドの音とだったら、おれ、ちゃんと音がとれる自信ないな」
 だから、それはもういいよ、と真史は笑顔のままで言う。
 洸太には、なにも言えなかった。
 それは真史が決めることだから。
 戻ってほしいのか? わからない。ただ、あの歌が、もったいないような気は、する。
「それに、病院で歌わせてもらって、ちょっと、なんか、思ったし」
「なにを?」
 真史はじっと、海を見ている。
「まあ、水平線の向こうは無理でも、って感じかな」
「どういう意味?」
「なんていうか……、あんなふうに、車いすやベッドに寝たままでも聞いてくれて、動かない手で拍手してくれて。水平線の向こうまでは届かなくても、月の裏側まで聞こえなくても、目の前のこの人たちには聞いてもらえたんだなって。それとか、千波ちゃんとか、届いたのかなって。そう思ったら、すげえうれしかった。もう、それだけで、おれは十分だなって思った」
 真史がゆっくり歩きだしたので、洸太も並んで歩いた。
「だから、ああいうボランティアみたいなので歌うんだったら、またやってもいいなって思った」
 そういう真史の笑みには、屈託がない。
「……耳、本当に聞こえないのか」
 真史は、小さく二、三度うなずいた。
「右の耳は、今はもうほとんど聞こえない。左は、わりとまだ普通だけど。でも、もしかしたら左も、悪くなるかもしれないとは、医者に言われてる。だから、施設のじいちゃんばあちゃんと話すときは、相手だけじゃなくておれもけっこう大声だよ。もともと声はでかい方だし」
 真史は、伸びをするように両手を頭上にあげた。
「今の生活で、おれはわりと満足。ときどきじいさんのリクエストにこたえて演歌歌ったりするし」
 本当か。本当に満足しているのか、と洸太は聞けなかった。
「でも、今回のコンサートは、本当に楽しかった。声かけてくれて、ありがとな」
「それはこっちの方だ。おかげで千波は目を覚ましたし」
「じゃあ、それに関しては、自信持っていいかな、おれ」
「……あの歌、竜の歌、どうして?」
 最後に歌った歌を、どうして選んだんだろう。
 幼いころ、一緒に風呂に入ると、父がよく歌っていた。父との、唯一の楽しい記憶。
「なんだ、そうだったんだ。お父さんが? へえ」
 真史が、なんとなく含み笑いをする。
「じゃあ、今度千波ちゃんに聞いてみたら」
「なんで? 千波は関係ないだろ?」
「いや。実はさ」
 内緒話を打ち明けるときのように、真史はちょっと声を潜めた。
「ときどき、千波ちゃんとお茶とかしてたんだよね。お前んちに泊めてもらったあと」
「え、まじ?」
 そんなのは初耳だ。千波からも聞いたことがない。
「いろいろ不安だったんだと思うよ。お母さんの具合も悪くて、お前はバイトと就活で忙しくて」
「じゃあ、あのカセットテープ……」
「そう言われてあとから思い出したけど、欲しいって言われたんだよ、千波ちゃんに。おれがもう東京行っちゃうっていう頃に。家にカセットデッキしかないっていうから、スタジオ練習のときに録って、あげたんだ」
 それを、ずっと大事に持っていたわけだ、千波は。毎日かばんに入れて持ち歩くほどに、大事にしていたんだ。
「あいつは、お前に世話になりっぱなしってわけだな」
「そんなのいいけど、ほんと、あのちっちゃかった千波ちゃんが、ちゃんと大人になっててびっくりしたわ」
 なんだか親戚のおじさんかなにかのように、しみじみと言う。
「そうそう、さっきの最後の歌はさ、千波ちゃんが好きだって言ってたんだよ、だから」
 へ、と洸太は瞬きをした。千波も、あいつにあの歌を歌ってもらったことがあるんだろうか、と思った。
「だから、千波ちゃんに聞いてみろって」
「……東京に、戻ればいいじゃないか」
「はあ? 急になに」
「……陽介は、なんて言ってたんだよ」
 真史は、小さく笑って、それには答えなかった。
 なんとなく足を止め、じっと海の向こう、波の音が聞こえてくる、水平線のほうを見ていた。
 明るい月が、さっきよりも高いところに上っていた。
 ふたりで黙って、その月を、見た。
 やがて、ぼそりと真史がつぶやいた。
「あーあ、まじ、やばいかも」
「なにが?」
 真史は答えず、後ろを振り向く。海とは反対側、月に照らされた砂丘は、うっすらとした輪郭が見えていた。雲がかかってすうっと月光がかげると、それも闇に覆われる。
「どのへんから帰れるか、わかるか」
「え、うそ。わかんねえの?」
「いや、こんな暗くなるまでいたことないし。なんか、真っ暗じゃん」
「ちょっと、冗談……」
 封筒を小脇にはさんで早足で歩き出した真史を、あわてて洸太は追いかけた。
「おい、待て、置いていくな」
「早くしろ、遭難するぞ」
 ふたりでぎゃあぎゃあ言いながら、砂を蹴り上げて砂丘を上った。
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