第1話

文字数 1,996文字

「妹さんの具合は、どう。その後」
 焼鮭をつついていた長谷川が、ふいに言った。
 その店は、オフィス街からは少しはずれたところにあったが、昼時の店らしくサラリーマンで混み合っていた。それでも、少しランチの時間からずれたのが幸いして、それほど待たずに席に着くことができた。
 長谷川は焼鮭定食を頼み、洸太は味噌カツ定食にした。
 午前中に回った客先は、洸太が提案した通信システムの刷新案に、すぐにはうんと言わなかった。それなりの金額の投資だし、まあ仕方ない。地道に通うか、と洸太は思っていた。古くからのお客なので、無理を押して失うことは避けたい、と長谷川は言っていた。
「はあ、まあ、変わりないです」
 長谷川は、会社にいるときはなにも言わないが、外回りの時に、時折こんなふうに千波のことを尋ねてきた。
 それなりに、気を使ってくれているらしい。
 そのことはありがたいが、細かいことを話す気にはならないので、いつも当たりさわりのない返事をしている。たいがい長谷川は、それ以上はつっこんでこない。
 このときも、「そうか」と言ったきり、黙った。
 と思ったら、ふいにまた口を開いた。
「高橋陽介だが」
 洸太は、箸でつまんだ味噌カツを落としそうになった。
「何年か前にはやったロックバンドのギタリストだ」
 こないだの話を、向こうからまたしてくれようとしているらしい。胸がどくんと鳴った気がした。
 つい勢い込みそうになるのをなんとか押さえて、それでも興味あるようには見せつつ、先を促す。
「……詳しいんですね。よく知ってるんですか」
「詳しい訳じゃないが、わりと好きなタイプのギタリストだった」
「へえ、どんなタイプなんですか」
 長谷川は、洸太をちらりと見た。
「ギターのことがわかるのか?」
「……いえ、全然……」
「じゃあ言ってもわからんだろう」
 そういって、漬け物を口に放り込んでポリポリと音をたてる。
 確かにそうかもしれないけど、教えてくれたっていいじゃないかー! と洸太は内心で空に向かって叫ぶ。
「あのバンドは、ボーカルもよかったな」
 胸の鼓動が、早くなる。
「ボーカルも、覚えてるんですか」
「インパクトがあったからな」
「どんな?」
 またちらりと視線を向けられて、ちょっと首をすくめる。長谷川は、味噌汁をずずずとすすった。
「まあ、声がよくでるし、うまかった」
「北村真史っていうんです」
 つい、言ってしまった。
「なんだ、知ってるじゃないか」
「はあ。実は、大学のときの友達で」
「めずらしい友達がいるんだな」
 長谷川が真顔でいう。
「めずらしいというか、なんというか……」
「ライブにも行ったりするのか」
 ふ、と洸太は動きを止めた。
「そうですね……。昔は、よく行きましたけど」
 きらきらしたライトの光を思い出す。
「まあ、仕事が忙しいとなかなか行けないだろうな」
 ひとり納得したように長谷川はうなずいている。洸太は、食べ終わった定食のトレイを少し横に押しやって、たばこに火をつけた。
 はき出した煙をなんとなく目で追いながら、洸太はつぶやく。
「そうか、ほんとにデビューしてたんだ……」
 一番に頭をよぎったのは、そのことだった。気のせいじゃなかった。はあ、とため息のよう息がもれた。
 急になにかひらめいたかのように、長谷川は背もたれに預けていた体を少し起こした。細い目がいっそう細くなる。
「そういえば、二、三年前にニュースで見た気がするな」
「なにをですか」
「そのバンド、解散したって」
「え!」
 思わず洸太は、テーブルの上に身を乗り出していた。
「おい、お茶がこぼれる」
 長谷川が逆に身を引いて、洸太の方にハエでも追うように手を振る。いや、手を振っているのは煙を払っているのだった。
「あ、すいません。え、解散って?」
 たばこを急いで灰皿で消す。
「なんだ、友達なのに知らないのか」
 長谷川は続けた。
「確か、そんなニュースを見た気がする。ちょっと残念だと思った記憶があるから」
 デビュー当初は仲間うちでもよく話題になったが、玄人にも受け入れられる演奏(テクニックがすごいという意味じゃないぞ、と長谷川は注釈をいれた)と、一般人にも聴きやすいメロディ、独特の歌詞と曲の世界観が……。
 なんたらかんたらと、長谷川が雑誌の解説記事のように説明するのが、右から左へ流れていく。
 そうか、という気もしなくもない。大変な世界だろうから。
 やっぱりそうなるか、とも思う。
「……みたいなバンドは、なかなか今はいないな」
 ちょっと惜しい気もする、と長谷川は言い、湯呑みのお茶をすすった。
 洸太は、思わずはったと長谷川を見た。テーブルの端を両手でつかんで、ぐっと顔をつきだす。
「な、なんだ、急に変な顔して」
 少しおののいたように、長谷川が湯呑みを持ったまま軽くのけぞる。
「もっかい言ってもらえますか、今の」
「は? なにを?」
「もっかい言ってください、今の、バンドの名前」
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