第1話

文字数 3,449文字

 仕事帰りに病院に寄った。
 千波は、相変わらず静かな顔で眠っていた。
 ちょうど様子を見に来てくれた看護師といくつか言葉を交わし、長居はせずに病院を出た。
 日はすっかり暮れていて、夏の夜の熱気がアスファルトの上にむわっとただよっている。
 地下鉄の駅に向かって歩き始めたときに、鞄の中で携帯が震えた。取り出して画面を見るが、知らない番号だった。
「……はい?」
 誰だろうと思いながら出る。
「洸太?」
 いきなり名前を呼ばれた。
「え、誰」
「やっぱり。ビンゴ」
 誰だこいつ、と思って、もう一度携帯の画面を見る。やっぱり、番号には覚えがない。
「もしもし?」
 もう一度耳にあてた。
「おれだよ、直樹。うしろ見て、うしろ」
「は?」
 振り向くと、数メートル後ろで、ダブダブした作業ズボンをはいた男が手を振っていた。
「よ、やっぱりお前だった」
 ついこないだ偶然会った、中学の時の友達だ。そういえば、アドレスや電話番号を交換したものの、そのままだった。
「直樹。なんでこんなところに」
「お前こそ、病院になんか用?」
 直樹は、太い首を伸ばして洸太の背後を見上げた。
「いや、そうじゃないけどさ」
 同じクラスだった直樹とは、あのころはよくつるんで遊んでいた。直樹は、学校でもちょっと悪い方のグループに友達がいて、誘われて洸太もよく一緒に遊んだ。大きな声では言えないが、少々悪いことに手を出したこともあった。高校に行ってからは疎遠になり、大学に入って洸太が引越しをしたこともあって、それ以来連絡もしていなかった。
「どう? 時間あったら、ちょっと飲みにいかねえ? 久しぶりだしさ、こないだは全然話せなかったし」
 そう言われて、なんとなくすぐには家に帰りたくなかったのもあり、洸太は応じた。
 近くの大通り沿いの、おばんざいと手打ち蕎麦、と書いてある店に入る。こぢんまりとした店内は、半分ほどが埋まっていた。煮物とだしのうまそうなにおいがする。洸太は直樹と並んでカウンター席に腰を下ろした。
 生ビールで乾杯して、適当につまみを頼む。洸太はたばこに火をつけた。
「なんだよ、洸太と会うのって何年ぶり?」
「えーと、高校のときにちょっと会って以来かな。十年ぶりくらい?」
 高校に入った後の直樹に会ったのは、二度くらいだったと思うが、明らかに学校には行ってなさそうな、少し荒んだ雰囲気だったのを覚えている。あまり連絡をしなくなったのはそのせいもあった。目の前の直樹の明るい様子には、なんとなくほっとした。
「うへ、そんなにか。でも全然変わらないな、洸太は」
 直樹にばしんと背中をたたかれ、洸太はビールを吹きそうになった。
「いってえなあ」
 直樹は楽しそうに笑って、自分のジョッキのビールをひといきに飲み干した。
「で、今なにやってんだ? その格好じゃあ、サラリーマンかよ」
「まあな。普通に営業。電線とかケーブルとか売ってる」
「へえ、いっちょまえに」
「お前は?」
 かぼちゃの煮つけに箸を伸ばしながら聞くと、直樹は、ああ、とかなんとか唸るような声を出した。
「まあ、いろいろと。建築現場の請負みたいな感じで、なんとかやってるわ。今の現場がここの近くでさ」
 それから、中学時代の話に花が咲いた。一緒に授業をさぼって近くの河原に行った時の話や、ほかのあまり授業に出ていないグループと一緒に、授業後に近くのコンビニでたむろしていたこと、職員室に呼び出されて延々説教された時のこと……。
 茄子の煮びたしとか、てんぷらの盛り合わせとか、味噌串カツなんかの皿を空にしながら、懐かしい気持ちと、ほろ苦いような気持ちを同時に味わう。当時はそれどころではなかったが、今では、懐かしいという気持ちのほうが大きくなっているのが不思議だった。
「あんなんでよく高校行けたよな、おれもお前も」
「まったくだ。かなり必死だったな、高校受験のときは」
 笑いながら言うと、直樹も大きな声で笑った。
「そうだ、お前、あのとき急に付き合い悪くなったんだよな」
「そういうわけじゃないけどさ。やんないとやべえって思ったんだよ」
 中学時代の洸太は、自分で言うのもなんだが、けっこう荒れていた。家の中の空気がいつもぎすぎすしていたので、自然と、遅くまで家に帰らなくなった。その代わりに、直樹やその友達のグループと街なかをぶらぶらしていた。勉強などするわけもなく、成績はかなりな低空飛行だった。
 中学三年の時の担任は、そんな洸太にしつこく声をかけてきた。最初はうっとうしくて逃げ回っていたのだが、その担任はあきらめなかった。おかげで、洸太はなんとか高校に入ることができた。
「しつっこかったじゃん、ヤマモトがさ」
「あー、あいつね、懐かしいねー」
「おかげで高校行けたようなもんだけどさ。お前だってそうだろ」
 たばこの煙をふうと吐き出して、当時のことを思い返す。まったく、そうでなかったら、今ごろ洸太はどうなっていたかわからない。
「それで、高校出て今の会社に就職したのか」
「いや、一応大学も行った。それから就職した」
「へえ……」
 直樹はおどろいたように、おおげさにのけぞってみせる。
「お前が大学? へえ、変わるもんだね」
「うるさい」
 笑って、直樹の頭を殴るまねをする。
「これでも一応ちょっとはまじめになったってことだよ。いつまでも中坊のときのままじゃ、いられないだろ。食ってかなきゃいけないし」
「まあ、そりゃそうだな」
 ひょいと首をすくめた直樹は、「すんませーん、ビール」とカウンターの向こうに声をかける。「へい、生一丁」と威勢のいい声が返ってくる。
「今はどこらへんに住んでんの? 昔の家、もうちがうんだろ?」
 中学の時にはお互いの家に行き来したこともあったので、当時の家に洸太たちがもう住んでいないことがわかるのだろう。
「ああ、大学入ってから引っ越したんだ。でもまあ市内だけど」
「へえ、そうか」
 洸太もそうなのかもしれないが、直樹も、当時に比べたらずいぶん落ち着いた感じがあった。あのころは直樹も家が複雑で、互いのそういう空気を察していた。洸太のところは両親が不仲だったし、直樹のところは、母親が離婚していて、直樹は、母親と、直樹の父ではない男と一緒に住んでいた。ときどき顔にあざをつくっていたのを思い出す。あの腐った男がよ、と明るい顔でよく毒づいていた。
「そうだ」
 締めの手打ち蕎麦をすすっていると、直樹が思いついたように顔を上げた。
「お前さ、今度ちょっと手ぇ貸してくれねえ?」
「なんに?」
「ちょっとした頼まれ仕事なんだけどさ、人手が足りねえのよ」
「どんな仕事だよ」
「決まったら、そんときに話すわ。別にむずかしいことじゃないし、金になる仕事だからさ」
「ふうん、休みの日なら別にいいけど」
 金になる、という言い方に、ちょっと反応してしまう自分に気づく。
「実入りがいいって意味。だから、ちゃんとバイト代払うしよ」
 そんな洸太の気持ちに気づいたのかどうか、直樹は付け足すように言う。
「そんなんはいいけどさ、そんなの頼まれたりするんだ」
「そりゃ、請負でいろいろやんのよ、建築関係って、やることいっぱいあるからさ」
「へえ、お前こそ、いっちょまえじゃん」
 バイト代を払うような立場で仕事してるのかと思って、ちょっと直樹を見直した。
「そういや、お前、病院って、なんだったの」
 ふと思い出したように、ビールのジョッキをテーブルに置きながら直樹が言う。
 病院、という言葉に、急に現実に戻った気がした。
「ああ、いや、おれじゃないよ。妹がちょっとね」
「あー……、なんだっけ、ち……なんとかちゃん?」
「千波だよ、よく覚えてるな」
「なんかちっちゃい子がいたよなーって思って」
「七つ違いだからな」
「大丈夫なのか」
「大丈夫大丈夫。まあちょっとしたけがで、たいしたことないよ」
 そういって、残っていたビールを一気に飲み干した。
 直樹とは、店の前で別れた。
 中学生時代の記憶と直結するので、これまであまり直樹のことを思い出すことはなかった。でも、こうして今日会ってみて、元気にやっている様子がわかると、そんなに避けるようなことでもなかったのかも、とも思った。
 あのころは、どこにも行き場がなくて、その鬱屈した気持ちをぶつける場所もなく、ただ直樹やその友達と騒いで発散していた気がする。そこにしか、いる場所がなかった。そう思っていた。
 そして、それは千波も同じだったのかもしれない、と思う。
 病室でひとり眠っている千波のことを、洸太はぼんやりと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み