第3話

文字数 3,257文字

「お見舞いに行くよ」
 晴美がそんなことを言ったのは、日暮れが少しずつ早くなって、朝晩は少し涼しい風を感じるようになった頃だった。
 千波の事故から、一ヶ月以上がたっていた。
 別にいいよ見舞いなんて、と洸太は言ったのだが、よくない、のひとことで終わりだった。
「あ、水島さん、こんにちは」
 すっかり顔なじみになった看護師と、病棟の廊下で会釈しながらすれ違う。
 病室に入った晴美は、静かにベッドに近づいた。
 洸太はその間に、壁際の台にかばんを置き、晴美用にパイプいすをベッドの近くに引き寄せた。花瓶の水を換えにいって戻ってきても、晴美はまだベッドの横で立ったまま、目を閉じている千波の顔を見つめていた。
「なんだ、座ったらいいのに」
 それでようやくはっとしたような晴美から、荷物を受け取って自分のかばんの横に置く。晴美は、大きな紙袋をふたつも持ってきていた。
「なにこれ、大きな荷物」
「あ、それはね」
 晴美が催促するので紙袋のひとつを渡すと、晴美は中から小さなフラワーアレンジメントのかごを取り出した。
「はい、これ」
「そんなのいいのに。なんか悪いな」
 恐縮して受け取り、さっき水を換えたばかりの花瓶のとなりに置く。花瓶の花は、何日か前に千波の同僚という女性ふたり連れが持ってきてくれたものだ。ひまわりやガーベラといった華やかな色の花束だった。
 晴美のものは、もう少し小ぶりの菊みたいな白い花(マーガレットだよ、と晴美に言われた)に、もっと小さなピンク色のまるい花や、朱色のいびつな形の実を付けた枝みたいなものなんかを、アレンジしたものだった。野原みたいだなあ、となんとなく洸太は思った。
 晴美はいすに腰を下ろす。花を飾ってしまったら、洸太ももうやることがなかった。
 千波は相変わらず無表情に目を閉じている。細い腕から点滴のチューブがのびている。逆さになったガラスの瓶から、いつもと同じリズムで薬液の落ちる音が聞こえる。
「ほら、なんにもすることないだろ? 見舞いっていったって、来てもしょうがないんだって」
 今まで何人か、千波の同僚だの友人だのが見舞いにきたが、たいがいこの沈黙に耐えきれず、早々に帰っていく。洸太は、とりあえず普段の千波のことを聞いてみたり、どういう知り合いなのか聞いたりするのだが、それでも長くは持たない。
 もちろん、顔を見たい、見舞いたい、という気持ちはわかるし、ありがたいことだとは思う。でも、千波が起きて話すことができないので、最初の挨拶以外のことは、どうすればいいのか洸太もわからなかった。
「しょうがないことはないでしょ」
 晴美は、ちょっと憤慨したように唇をとがらせる。
「水島くんの妹さんが、こんなにかわいいとは知らなかったよ。それだけでも、お見舞いに来てよかった」
「なにがかわいいだよ、お世辞なんかいっても、目ぇ覚まさないよ」
「……ほんとに、ずっとこうして眠ってるの?」
 少し不思議そうな顔で、晴美はまた千波の顔を見る。
「ずっとこうして眠ってるんだよ。どういう仕組みなのかわかんないけど」
 仕組みってねえ、と晴美のあきれたような声に重なって、病室のドアがノックされた。
「水島さん、どうですか」
 顔をのぞかせたのは、さっきくるときにすれ違った看護師だった。
「あ、お世話になります」
「いえいえとんでもない。千波さん、今日はどうかなー」
 少し歌うように言いながら、看護師はベッドの横にやってきて、千波の白い顔をのぞき込んだ。額に手を当て、それから、布団の上にでている腕をとって脈をはかるかのように手首を握る。体温計を取り出して、千波の耳に入れる。すぐにピピピと電子音がした。体温計を見ながらカルテになにやら書き込み、それからそれを小脇にはさんで、点滴の調整をしてくれる。
「あのー」
 晴美が遠慮がちな声を出した。
「はい?」
「千波さん、本当にずっと眠ってるんですか?」
「眠っているというか、そうですねえ。でも、なにかの拍子で目が覚めることもありますからね」
 看護師は穏やかな口調で答える。それはもう、洸太が何度も看護師や担当の医師に聞いたことだった。
「体の方はもうそんなに心配することはないので、あとは意識が戻るといいんですけどね」
 千波の額や頬の白いガーゼは、事故の二週間後くらいにはみんなとれた。今は傷跡もほとんどわからない。
 看護師が部屋を出ていくと、また晴美はじっと千波の顔を見つめた。それから、立ち上がって、持ってきていたもうひとつの大きな紙袋の中に手をつっこむ。ごそごそと音を立てて、なにか両手に抱えるくらいの四角いものを取り出した。
「これ、探したらあったんだよ」
 言いながら、それを洸太に見せる。
「え、なにそれ。……もしかして……」
「うちの押し入れからね、出てきたの」
 それは、銀色をした横長のカセットデッキだった。
 紙袋をまたごそごそとやって晴美はコードを取り出した。片方のはしをデッキにつなぎ、反対側のプラグを持って少しうろうろしてから、壁のコンセントに差し込む。
「じゃあ、貸して」
「え、なにを?」
「カセットテープだよ、貸して。なにが入ってるか聞いてみようよ」
「え、ここで?」
 晴美はカセットデッキを棚の上に置いて、洸太が渡したカセットテープをセットした。
「じゃあ、いくよ」
 そういって、スイッチを入れる。洸太はなんだか妙に緊張してそれを見守った。
 始まったのは、アップテンポな曲だった。ドラムとベースの音がドンドンと鳴って、そこにギターのゆがんだ音が絡む。それから、若い男の声で歌が始まった。英語らしい。なにを言ってるのかよくわからない。
「へえ、洋楽じゃない」
 となりに腰を下ろした晴美が声を上げる。
「知ってる歌?」
「聞いたことはあるよ。もうけっこう昔の歌じゃないかなあ」
 最初の二、三曲は英語の歌だった。それから、今度は日本語の歌になった。みんな同じ声に聞こえるので、だれかがカバーして歌っているのだろうか。
「あ、これは知ってる」
 うれしそうに晴美は言って、一緒に口ずさみ始めた。
「歌えんの?」
「これ、けっこうはやったんだよ。知らない?」
「……知らない」
「懐かしいなあ」
 A面B面にそれぞれ四、五曲ずつ入っていた。A面の途中からはずっと日本語の歌だ。何曲かは洸太も聞いたことがあった。B面の最後の歌は、最初は英語、途中からは日本語で歌われていた。これも、すごく聞いたことがある気がしたが、なんの曲かはわからなかった。
「へえ……、いろんなのが入ってるんだね。でもこれ」
 晴美は、ボタンを押して、カセットを取り出した。ひっくり返したりして眺めている。
「なんにも書いてないかあ」
「なにが?」
「これ、歌ってる人はみんな同じだよね」
「……たぶん、そんな感じだな。同じ声に聞こえる」
「しかも、かなりうまくない?」
「……うまい、かな」
 答えながら、胸の奥の方が、なんとなくゆらめいているような感じがしていた。
「ほんとに、歌知らないんだねえ。あの三つ目のやつなんて、かなり有名だと思うよ。ちょっとタイトル出てこないけど」
「そうなの? だって、知らねえもん」
「他のもけっこう聞いたことあったなあ。でも、最後から二つ目か三つ目のやつは、全然わかんなかった。あの、夕暮れの海辺でなんとかかんとかって言ってたやつ」
「あ、それ、おれ知ってた」
「え? そうなの? そんな有名だったのかな。なんであたし知らないんだろう」
 晴美は、妙に悔しそうな顔になっている。
 それは、たぶん。
 洸太は、胸の奥にゆっくりとわきあがってきたものを、探るようにしながら、声には出さずに晴美に答えた。
 それはたぶん、その歌が、世には出なかったからだ。
 少しずつ、なにかの風景が脳裏に広がる。
 その歌を、知っている。
 さらにいうなら、洸太は。
「へえ、妹さん、千波ちゃん、こういう歌聞いてたんだね。これ、誰かがカラオケかなんかで歌ったのかなあ」
 どうして千波は。
 こんなカセットを、どうして持っているんだろう。
 洸太は、この声を、知っていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み