第4話

文字数 3,486文字

 その狭い建物の中は、人でいっぱいだった。
 フロアは、大学の少し狭い講義室くらいの広さだった。正面奥には、一段高くなっているステージがある。今は照明が落とされて、ごちゃごちゃとおいてあるなにかのシルエットがうっすらと見えている。
 ステージのこちら側の、後ろ半分は階段一段分くらい床が高くなっていて、ちょうど段差のあたりにはもたれられるような手すりが左右に伸びていた。
 ステージに向かって左後ろの角が入り口で、今もそこからぞろぞろと人が入ってくる。右後ろの角にはドリンクの受付があって、入場時に受け取ったコインで飲み物と引き替えようという人が、押しあっていた。
 フロアの照明が、ふと暗くなる。
「お、始まるぞ」
 となりで、同じ学科の中野俊哉が、少し弾んだ声でささやいた。
 後輩のアマチュアバンドが出るというので、俊哉は小さなライブハウスに洸太を誘った。なんとかバイトの都合がついたので、俊哉につれられてやってきたのだ。
 小汚いといってもいいようなこじんまりしたライブハウスの建物や、狭いフロアにぎゅうぎゅうと人が押し込まれているのが、洸太にはめずらしくておもしろかった。
「後輩のバンドって、なに歌うんだっけ?」
「普通にロックだよ。ほとんどカバーだけど、オリジナルもちょっとやる」
 暗がりの中、ステージで人がうごめく気配があった。しばらくしてぱっとライトが当たり、最初のバンドの演奏が始まった。
 洸太たちは、フロア中央の手すりから少し後ろよりの位置にいたのだが、それでも突然始まった大音響に、洸太は思わず耳をふさぎそうになった。
 ステージの上では、数人の男が、ギターを抱えたりマイクを手にしたりして並んで立っていて、激しく体をゆすぶっている。ギターの音がものすごい。いや、たぶんギターの音なんだろうと思うのだが、ちがうのかもしれない。なぜか知らないが、左側のベースの男は河童のかぶりものをかぶっている。河童? なんで?
 そのうち、音の合間に少しだけ歌が聞こえてきた。ほかの音にかき消されて、ほんのかすかだ。ボーカルの男はそんなことは気にしないのか、スタンドマイクを両手で握りしめ、唇をマイクの先端に押しつけて歌っている。
 大音量に翻弄されているうちに、何曲かが終わったらしい。
「次ので最後」
 俊哉が横からささやく。そっと盗み見した俊哉の顔は、うす暗い明かりの中で少し上気している。
「あいつら、ちゃんとやれるんだなあ」
 うれしそうに俊哉はつぶやいた。
 周囲の観客は、洸太たちくらいの年の男女が多かった。前後左右と満員電車並みに人が立っていて、みんな曲に合わせて大きく手を振っている。なので、ステージもときどき人の頭や手にさえぎられる。
 アマチュアのバンドでも、こんなふうにファンがいるものなんだなと思った。
 薄暗い中でこんな人数の人間が、一か所に向かって手を振っているのが、洸太には不思議な感じがした。確かに、自分の知り合いがこんなふうに大勢の観客の前で演奏できるのを見たら、うれしいだろうと思う。
 最後の音が、ゆがんだ余韻を引きながら小さくなった。大きな拍手がわく。
 フロアには、少し明るいライトがついた。観客が動き出し、洸太と俊哉もドリンクスタンドの方に人波を泳ぐようにして移動した。
「どうだった?」
 プラスチックのコップに入ったビールをぐいと飲んだ俊哉は、手の甲で口のあたりを拭う。このあとバイトにいく予定の洸太は、コーラにしておいた。
「いや、よくわかんないけど、すごいなあ」
「だろ、すごいだろ。あいつら高校の時から結構やってたんだよね」
 俊哉はどこか得意そうだ。洸太は、初めて見る楽器や機材がおもしろいと思って、そのことを話した。ドラムセットにギターやベースのアンプ(というのだろう)、足下にごちゃごちゃとおかれた機械。どう使うのかはわからないが、なにかわくわくする感じがある。
「おれも、一緒にやらないかって誘われたことあるんだけどさ」
「へえ、ギターかなんか弾けるの?」
 俊哉はラグビー部に入っていて、そのがっちりとした見かけからはなにか音楽をやるようには見えない。俊哉は首をすくめた。
「別になんも弾けない。歌もダメダメだから、結局却下された」
「なんだ」
 そうしているうちに、再びフロアが暗くなり、次のバンドの演奏が始まった。
 今度のバンドは、歌う前にボーカルがなにか挨拶のようなことをしゃべった。がんばって歌うので楽しんでください、みたいな。
 それから、意外と静かな前奏で曲が始まり、そこに細くて高い声がすーっとのってきた。男なのにこんな高い声が出るのかと、洸太はおどろいた。しかも、俊哉みたいながらがらした声でなく、透き通った感じのする声だ。
 そのバンドは、ゆっくりめの曲を数曲やって終わった。再びフロアが明るくなり、人の流れが起きる。入り口に向かって動く流れと、フロアの前方に出る流れが入り混じる。
「どうしよう、おれそろそろバイトに行こうかな」
 携帯の画面で時間を確認して、洸太は俊哉に言った。
「なんだよ、あとひとつで終わりだから聞いてけよ。せっかく金払ってんだし」
「えー、どうしようかな」
「あと三十分かもうちょっとだって。今日はなんのバイト?」
「八時半からファミレス」
「じゃあ間に合うじゃん」
 確かに、あと三十分してからここを出ても、間に合うといえば間に合う。
「まあいいか、じゃあ」
 バイトを休むといろいろほかに響くが、ちょっと遅れるくらいなら、ここを出るときに一応連絡しておけばいいだろう、と自分に言い訳する。
 再びフロアが暗くなって、次にステージに出てきたのはまた男ばかりの四人組だった。今日のバンドにはひとりも女の子がいないな、と思いながら、四人がめいめいに楽器の準備をするのを眺める。
 ここも、最初にボーカルがなにか挨拶をした。観客の間から、女の子の黄色い声が上がる。
「ここが今日の一番人気なんだってよ」
 俊哉が横で言う。へえ、と思って洸太はステージに目を凝らす。洸太たちとそう年の変わらなそうなひょろりとしたボーカルに、破れたジーンズを腰ではいているギターの男。ベースの男はこれも破れかかったTシャツを着ている。奥にいるドラマーは、黒いハットをかぶっていた。
 どん、と最初の音が鳴る。ドラムが早いリズムを刻む。ギターとベースの音がそれを追いかける。
 次に耳に届いたボーカルの声に、洸太は一瞬目を見張った。
 激しい音の膜をつき破るようにして、その声は洸太の耳に届いた。
 ボーカルの男は、少し背の低い体をさらに折り曲げ、マイクスタンドを抱えるようにして歌っている。ときどき体を揺らしたり、観客のほうを指差したりしながらも、その声はぶれないで、まっすぐこっちに向かってくる。
 周囲の観客がリズムに合わせて体を揺らし、ステージに向かって手を振っている。
「ありがとー!」
 一曲目が終わって、ボーカルが観客のほうに向かって叫んだ。その額がすでに汗で光っているのがわかる。
「今日も、『Don't ……』から聞いてもらいました!」
 曲のタイトルを言ったようだったが、よくわからなかった。叫ぶ合間に、はあはあと息をしているのが、洸太のところからもわかる。
「次の曲は、『星が瞬く夜に』!」
 観客から歓声が上がる。
 演奏が始まり、再びボーカルのまっすぐな声がフロアに響き渡る。今度はマイクをスタンドから外し、狭いステージを右や左へ歩き回りながら歌う。ボーカルの近づいたステージ前のあたりからは、どよめくような声がわきおこり、それが波のように、ボーカルの動きに合わせてうつっていく。
「おい、これ、すげえな」
 俊哉の興奮した声が聞こえた。
 洸太はそれに返事ができなかった。耳も頭も、目の前の歌に引き寄せられていた。
 歌の合間にちょこちょことしゃべりながら、そのバンドは数曲を演奏した。
 どの歌も、ボーカルのパワフルで圧倒的な声がフロアの熱気をあおり、観客の手が激しく振られた。メンバーのものらしい名前を叫ぶ女の子の声も、途切れなかった。
「最後までありがとうございます! いつものこれで締めましょう!」
 汗で前髪を額にはりつけたボーカルが、叫ぶように言ってマイクを持った手を頭上につきだす。
「うおー!」
 地鳴りのような歓声がわく。
 リズムのはじけた曲に乗って、ボーカルの声がフロアに満ちた。ドラムに合わせて観客の手もつきあげられる。
 洸太は、その音の波にゆすぶられ、翻弄された。
 ステージに踊る赤や青や黄色の照明が、視界をキラキラとした光で埋める。
 こんな世界があるのか、と思った。
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