文字数 5,112文字

 この三日間、西天満署刑事課一係は躍起になって上島武と田所杏子の行方を追った。 ときには一係だけでなく、他の班で特に緊急を要する事件に携わっていない捜査員にも手伝ってもらい、さらには地域課の制服警官にも協力を要請して、二人の立ち寄りそうなところはもちろん、そうでないところまでも片っ端から調べてまわった。上島には二年間の結婚歴があり、六年前に彼が東条組に出入りするようになったのをきっかけに離婚した女性が、再婚して(さかい)市に住んでいると判ると、鍋島と芹沢はその女性の家まで行って張り込んでもみた。女性にはひどく迷惑がられ、プライバシーの侵害で訴えると息巻かれたが、もちろんそんなことで引っ込む二人ではなかったし、粛々と張り込みを続けた。それでもやはり、上島は現れなかった。
 杏子の方も、最後に勤めていた『ラプソディ』の従業員とはあまりつき合いがないらしく、連中から他に杏子と仲の良かった人物がいなかったかどうか訊きだそうとしたが、それも無駄に終わった。それでも何とか以前に勤めていた店の一つを突き止め、そこで聞き込みをしたものの、回転の早い職場だけに杏子を知っている者はもう一人もいなかった。
 結局、二人の居所はおろか、上島が西川殺しの犯人だと断定できる物的証拠も見つけられないまま、一係以外の捜査員は再び自分たちの本来の持ち場へ戻った。

 一方、例の杏子のアパートを荒らしていった「作業着の男」についてである。
 こちらも現時点では成果はなかった。アパートや近所の住人の証言もとに似顔絵を作成しようとしたが、きちんと顔を見た者がいなかった上に、証言があまりにもまちまちだったため、まともな似顔絵を作ることはできなかった。乗ってきたライトバンもありふれたものらしく、車種等の特定はできていないし、誰もナンバーを覚えていなかった。そしてこの三日間の捜査では、上島との関連はもちろん、杏子の周辺にもそれらしい男の存在は浮上しておらず、一方では亮介か菜帆の父親かも知れないとの可能性もあったので、つまりはこの男に関してはまだ手つかずの領域がほとんどという状態だった。

 この夜、鍋島と芹沢は上島のマンションの張り込みから戻ったあと、デスクで報告書を書きながら刑事部屋の留守番をしていた。
「──なあ、今何時だ?」
 窓に下ろしたブラインドの隙間からこぼれるようなネオンの街並みを見下ろしていた芹沢は、デスクの鍋島に声を掛けた。
「一時七分」
 鍋島はちらりと腕時計を見て言うと、すぐに報告書に視線を落とした。
「眠らねえ街だな」
 芹沢は振り返った。「東条組が上島の行方を押さえてるかどうか、係長は突き止めたのかな」
「まだとちゃうか」
 鍋島は手探りでデスクのコーヒーを取り、一口啜った。「例の拳銃の件で四課に遠慮して、組には手が出せへんのやろ。課長からも釘刺されてるし」
 芹沢は納得したように頷き、自分の席へ戻ると椅子の背を前にして座った。
「いくら殺しだからって、あっちの邪魔をしていいってことにはならねえってわけか」
「だいぶ前から内定を続けてみたいやからな。こっちはしょせん、たかだか路地裏でゲロ吐いて死んだ虫けらを殺したクズ野郎を捜してるだけやもんな」
「何だよ、何を卑屈になってんだよ」
「別に」と鍋島は吐き捨てた。「俺の気になるのは作業着の男の方やから」
 ああ、と芹沢は頷いた。鍋島の言いたいことは分かっていた。荒らされた杏子の部屋の尋常でない様子と、隣の住人が男を「キレて見境がなくなって、危ない感じ」と表現したことが引っかかっているのだ。男が来るのがあと一日早かったらどうなっていたか。つまり、亮介と菜帆がどうなっていたか。そうならなかった今となっては意味のない仮説に過ぎないと言うのに、鍋島にはそれが重くのしかかっているのだ。彼のあの兄妹に対する特別な思いをいち早く見抜いた芹沢には、そのことがうんざりするほど理解できていた。
「上島の部屋の方は荒らされてへんかったところを見ると、男はやっぱり杏子の関係者や」
「だろうな」
 芹沢はもう何度も聞いた鍋島の言葉に頷いた。「西川殺しの件とも無関係じゃねえと思ってるんだろ」
「当然や。タイミングが合うてるんやから」
 鍋島は報告書をデスクに投げ出した。「何かを探してたって思てたけど──そうでもないかも知れん」
「そいつの正体が分かってねえんだから、目的だって分かりゃしねえさ。今からどっちかに決めつけねえこったな」
「ああ。でも、楽観視はせん方がええやろ」
 芹沢は溜め息をついた。この調子だ。
「……なあ、あんまり心配し過ぎんなよ」
「何をや」
「あの兄妹のことさ。兄貴を見たろ? 天六の交差点で走ってたのを。確かに不幸なことだけど、ああやってずっと二人でやってこれたんだ。それが今はちゃんと大人の目の行き届くところにいるんだから、なおさら大丈夫さ」
「……分かってるよ」
「分かってねえ顔だぜ」
 芹沢は苦笑しながらくるりと椅子を回転させ、デスクに向き直った。
「とにかく、俺はその度を超した取り越し苦労にいつまでもつき合う気はねえからな」
 鍋島は面白くなさそうに芹沢に一瞥をくれると、コーヒーカップを手に取り、空になっていたことを確認してデスクに戻した。

 そのとき、廊下を二人よりも三、四歳若い男がやってきて、間仕切り戸の前に立った。薄いチャコール・グレイのスーツを着たその男は、この春少年課に配属になった湯川大輔(ゆかわだいすけ)巡査だった。
「巡査部長、三日ほど前にそっちで保護された子供って、豊中の施設へ行ったんでしたっけ?」
「そうやけど」と鍋島は頷いた。「それがどうかしたんか?」
「今、うちの課に豊中中央署から電話が入ってるんですけど、その子らが施設を抜け出したって」
「何やて?」鍋島は腰を浮かせた。
 芹沢は目を閉じて舌打ちした。「あのガキ──」
「湯川、悪いけどその電話こっちに回してくれるか?」
「分かりました」
 湯川はさっと廊下を戻っていった。
「これでも俺のは取り越し苦労か」
 鍋島は芹沢に言った。
「……何とでも言えよ、くそったれ」

 まもなくデスクの電話が鳴り、鍋島が受話器を掴み取った。
「お待たせしました、刑事課の鍋島です」
《──豊中中央署の池内(いけうち)と言います》
 中年の男の声で、いくらか自信を感じさせる物言いが、ある程度の役席の人物を思わせた。
「いなくなった子供って、田所亮介と菜帆のことですか?」
《ええ、そうです。さっき施設から届出がありましてね。捜索願いが出たんですが、その際、おたくにも連絡して欲しいと》
「まさか、誰かに連れ出されたなんてことでは──」
《いいえ、まずそれはなさそうです》
「いつ抜け出したんですか?」
《施設の方が気づかれたのは一時間ほど前だそうです。向こうでも近所を捜したたそうですが、見つからなくてさっきうちに。それからすぐに捜し始めてるんですがね。どうやら、いなくなってからもう二時間以上は経ってるんではないかと》
「……そうですか」
《刑事課のおたくらが関係してらっしゃるところからすると、子供たちの逃亡にも事件性が考えられるということですか》
 池内の声が低くなった。
「さあ、それはどうか──」と鍋島は思わず唾を飲み込んだ。「母親が事件の関係者と一緒にいる可能性がある、ということではあるんですが。その関係者は暴力団員ですし、それで子供たちを保護する必要があるんです」
《分かりました。とにかく、発見次第連絡しますから》
「お願いします。こっちでも心当たりを捜してみますので」
 受話器を持ったまま指で電話を切った鍋島はすぐに電話機に貼られたいくつかの番号の中の一つを押し始めた。
「張り込んでる島崎さんに連絡して、アパートに戻ってへんか訊いてみる」
「だけど、豊中からどうやって帰って来るんだ? 金なんか持ってねえだろうし、たとえ歩くことを思いついたとしても、そんなに早く戻ってこれるわけねえしよ」
「そらまあそうやけど──念のためや」
 鍋島が応答を待っているあいだ、デスクの芹沢は肘を突いて両目をこすり、嫌気がさしたように首を振って呟いた。
「──あの坊主、そんなにまでして二人きりがいいってのか……」


 一時間半後、二人は阪急梅田駅のターミナルビル内にある派出所にいた。
 鍋島の前には亮介が丸椅子に座って俯いていた。青いチェックのパジャマの上に薄手の白のトレーナーを着て、緑の半ズボンをはいていた。   
 その後ろの長椅子ではピンクのパジャマに赤いカーディガンを羽織った菜帆が、横になってぐっすりと眠っている。その白い顔にはうっすらと汗が滲んでいた。
「──で、どうやってここまで戻って来れたって?」
 鍋島が亮介に訊いた。
「電車で」
「金はどうした?」
「とよなかの駅で、知らんおじさんに切符買うてもろた」
「嘘つけ」
 鍋島はふんと鼻を鳴らし、前屈みになって亮介の顔を覗き込んだ。「夜中に子供が二人だけでうろうろしてるのに、何の疑いもなく切符買うてくれるおっさんがどこにおる?」
「……いたんやもん」
「正直に言わねえと、あとで後悔するぜ」
 机に腰掛けていた芹沢が脅し文句を言った。「俺たちがマジで怒ったら、おめえなんかすぐにでも刑務所行きだよ。ガキだからって甘く見ると思ったら大間違いだぜ」
 その言葉に亮介は驚いて顔を上げ、芹沢を見た。芹沢は極めて冷たい視線で亮介を見下ろしていた。亮介は思わず肩を縮め、怯えた表情で鍋島に振り返った。その目は「ほんま?」と問い掛けていた。
「こいつがそう言うんやったら、それもしゃあないな」鍋島も平然と答えた。
「言う、ほんまのこと言う」
「それでいいんだよ」
 芹沢は途端に笑顔になって亮介の頭に手を置いた。「おまえも結構物分かりがいいじゃねえか。これからもその調子で頼むぜ」
 その様子を表の部屋に続くドア付近に立って見ていた三十過ぎの制服警官は、まるで取り調べのような二人のやり口に呆れて首を振り、腕を組んで俯いた。
 ところが、
「切符を売ってる機械の前で眠り込んでたおっちゃんのポケットにあった財布から、千円抜き取った」
 と言う亮介の言葉を聞くと、顔を上げて目を丸くした。
「やるねえ」鍋島はにやりと笑った。
「それで電車に乗ったのはいいけど、よく間違わずにここまでたどり着いたな」
「電車に乗ってる人に訊いたから」
「菜帆は黙ってついてきたのか?」
「当たり前やろ。喋れへんのやから」
「……屁理屈を言うんじゃねえ」
「改札出てからはどこにいた?」鍋島が訊いた。
「あっちこっち。でも、どう行ったらええのか分からへんかった」
 そう言うと亮介は眠そうに目をこすった。「そのうち菜帆が疲れてきて道に座り込むから、どっかで寝た方がええと思て。他にもそこらへんで寝てる人がいたし」
「この二人を保護されたのは、駅員さんだっておっしゃってましたね?」
 芹沢が制服警官に訊いた。
「ええ。構内のトイレの前にいるところを」と警官は答えた。「最終電車の到着から一時間くらい後やったって言うてましたよ」
 芹沢は頷き、鍋島に振り返った。「どうする? これから」
「そうやな──施設と豊中中央署には連絡ついてるし、今から豊中まで連れて帰ってもええんやけど」
 そう言いながら鍋島は兄妹を交互に見た。「お二人とも、だいぶお疲れのようや」
「署に連れて帰るか」芹沢は覚悟を決めたように言った。
「どうせ俺たちも戻らなきゃならねえんだし、仮眠室で寝かせりゃいいだろ」
「施設には明日連れてくってことにしよか」
「すいません、お手数掛けましたが、そういうことですので。あとはうちで引き受けます」芹沢は制服警官に言った。
「分かりました」
 そう言うと警官は亮介に向き直った。「坊や、この刑事さんらの言うことをよう聞いて、賢うしてるんやで。これ以上自分勝手なことしたら、妹が可哀想やからな」
 亮介は黙って俯いた。
「ほれ、何とか返事しろよ」鍋島は亮介の頭を軽く叩いた。
 亮介はゆっくりと顔を上げ、反抗的な眼差しで三人の警官を見回した。
「……僕らのこと、なんでそんなに構うんや?」
 鍋島は舌打ちした。「分かってへんな、おまえは──」
「いいじゃねえか、鍋島」
 逆に芹沢は余裕を見せるような態度で笑った。「勝手に言わせとけよ」
 しかし、芹沢のこの余裕もこの夜限りだった。

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