3ー②

文字数 2,374文字

 帰りのタクシーの中でも麗子は何も話そうとはしなかった。鍋島も無理には訊きだそうとはしなかったので、二人はただ黙って窓の外を流れていく夜の街並みを眺めていた。ただ、鍋島の手をしっかりと握り締めて離さないという、いつもなら決してしないようなことを麗子がしてきたので、鍋島は彼女の気持ちを少しでも安らげようとその手を撫でた。
 やがてタクシーが東三国(ひがしみくに)にある鍋島のアパートの前に着き、開いたドアから彼が下りようとしたとき、麗子が言った。
「寄って行ってもいい?」
 鍋島は振り返った。そして怯えたような表情の麗子をじっと見つめ、囁くような小声で答えた。
「ええよ」

 部屋に入り、麗子にリビングのロー・テーブルの席を勧めた鍋島は、自分はキッチンに入って冷蔵庫からミネラル・ウォーターのボトルを出してグラスに注ぎ、戻ってきて麗子の前に差し出した。
「ほら、ちょっと飲み過ぎたんと違うか」
 麗子は黙って頷き、グラスを受け取った。彼女は下戸で、ほんの少しのワインでもすぐに回ってしまうのだ。両手でグラスを持って一口飲むと、ふうっと大きな溜め息をついて鍋島を見上げた。
 鍋島は麗子の隣に腰を下ろした。
「話す気になったか?」
 麗子はグラスをテーブルに置いてじっとその手許を見つめた。
「──母が先週、事故に遭ったの」
「事故……」鍋島はぼんやりと呟いた。
「父が学会でニューヨークへ行っててね。重要な資料を家に忘れてきたから、翌日の会議に間に合うように届けて欲しいって、ボストンの母に連絡したんだって。母はすぐに飛行機の手配をしたらしいんだけど、急だったからどうしても席が取れなくて……それで結局、車で──」
 そこまで聞いて話の先の予測がついたのか、鍋島は俯いた。
「ボストンからだと、ハイウェイ・バスだって幾つも出てるのよ。ただ、深夜ともなると日本人女性が一人で乗るのにはちょっと危険で──母はそれで車を使ったんだと思うの。でも母は自分の運転でボストンを出たことがなかったし、夜のハイウェイは母にはとてもじゃないけど無理だったのよ」
 麗子はぐっと息を呑み込んだ。「トラックと接触したんだって。雨も降ってたし、そのままスリップして側壁に──」
 鍋島はまだ何も言えないでいた。派出所勤務の頃、一度暴走族の車が新御堂筋の防音壁に激突した直後の現場に駆けつけたことがあるが、飴のように曲がった車体を見て思わず背筋が凍りついたのを覚えている。
「頭を強く打っててね。この一週間のうちに二度も手術したらしいの。助け出される寸前に車が炎上して、火傷もしてるし」
「そんな大事な話、何でもっと早よ──」
 やっと鍋島が口を開いた。
「あたしも今日、父からの電話で知らされたばかりなの」
「おまえは行かんでもええのか?」
「あさってから大学が始まるから、とりあえずはその朝大学に顔を出して学部長に事情を話してから、午後の便に乗ろうと思ってるわ。父によると、今は何とか容態も落ち着いてるらしいし」
 麗子は鍋島に振り返った。「……それで間に合うわよね?」
「ああ」
 そうは言ったものの、鍋島には何一つ確証はなかった。
 麗子はまだじっと鍋島を見つめていた。深い海の底のような黒い大きな瞳は波が立ったように潤み、今にも泣き出してしまいそうになるのを必死でこらえているのが鍋島にはよく分かった。
「……泣いてもええぞ」鍋島は優しく言った。
 その言葉に麗子は一瞬顔を歪めたが、すぐに首を振って無理に笑顔を見せた。
「なに言ってんの、駄目よ。泣いたら勝也の方がボロボロになっちゃうんだから」
 図星を突かれた鍋島は俯いた。彼はまだ、麗子が泣くのを見たことがなかった。強く見せてはいるが本当は繊細な心を持つ彼女がこれまでに涙を流したことがないはずはなかったが、彼女は鍋島が抱えているトラウマの存在を良く知っていた。
 女の涙が怖いのだ。女性が泣くのを見ると、彼はたちまち落ち着きのない薬物中毒者のようになってしまう。そんな彼の救いようのない臆病さを知っているからこそ、麗子は今まで決して彼の前で泣くことはなかった。
「それに──今泣いたらもう諦めたことになるじゃない。泣くのはもっとあとでも遅くはないもの。そうでしょ?」
「そうやな」
 麗子はもう一度グラスの水を飲んだ。そして鼻をすすり、大きく溜め息をつく。鍋島はその頼りなさげな横顔を見て思わず抱きしめてやりたい衝動にかられた。しかしそうすれば間違いなく麗子は泣き出すだろう。彼は自分の気持ちを抑えた。
「……勝也は、もう十六年も前にこんな経験をしたのよね」
「まあな」と鍋島は小さく頷いた。「俺の場合は、こんな突然やなかったからな。長い時間かけて覚悟したところがあるよ」
「怖かった? お母様が亡くなられたとき」
「よう覚えてないよ」
「覚悟してたって言っても、やっぱり辛かったでしょ?」
「さあ、それも忘れた」
「すぐには信じられなかったんじゃ──」
「麗子」鍋島は麗子の腕を掴んだ。
「……今のうちに、良く知っておきたいのよ」
「諦めたことになるのは嫌なんやろ?」
「三年ぶりなのよ。母に会うのは」
 麗子の声が震えていた。「それなのに、こんな形で会わなきゃならないなんて……」
「会うまでは余計なこと考えるな」
「分かってるわ、でも──」
「だから。分かってたら、もう何も言うなよ」
 鍋島は思わず吐き捨てるように言ったが、すぐに「しまった」と言うように顔をしかめた。彼のその表情を見た麗子はようやく微笑んで言った。
「あんたったら、すぐに怒っちゃうけどまたすぐに反省しちゃうのね。そういう単純なとこ、昔からちっとも変わらないわ」
「……単純で悪かったな」
 鍋島はテーブルに頬杖を突いた。

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