2ー②

文字数 2,894文字

 西天満署に戻る車の中で、最初のうちは二人ともそれぞれに考えごとをしていたのか、何も話さなかった。芹沢は手慣れた様子でハンドルをさばき、鍋島は窓の外を走り過ぎて行く騒がしげな街並みを眺めていた。
 しかしやがて車が陽の光をその河面一面に浴びてガラス細工のようにきらめく淀川に架かる大きな橋にさしかかった頃、芹沢は静かに口を開いた。
「──なあ、おまえはどう思うよ」
「どうって、上島の事故か」
「俺、どうも腑に落ちねえんだよな」芹沢は振り返った。「臭わねえか?」
「確かに、プンプン臭うよ」鍋島が言った。「けど、上島が誰かと一緒やったって証拠は今は何もないし、目撃者もトラックの運転手以外に出てけぇへんかったら、まずそいつの言うことを信用するしかないやろ。そいつは上島に同伴者がいたことを隠しても何のメリットもないんやからな。おまけに上島は相当酒を飲んでたんやし」
「けどよ、翌朝女を追いかけて横浜まで行くつもりの殺人犯が、誤って歩道橋から落っこっちまうほど酒をかっ食らうってのもどうかと思うぜ。だいいち、そんなに酔ってたんなら歩道橋の階段を上る時点で足でも踏み外しかねないだろ」
 芹沢は一呼吸置いた。「考えれば考えるほど、おかしいんだよな」
「とは言え、今のところは極めて他殺っぽい事故死やな」
「ああ、そう言うこった」
「一件落着か」
 鍋島はあまり嬉しそうではなかった。「でも、杏子の方が残ってる」
「作業着の男のことか」
「まあな」
「そっちも問題なんだよな。確かに部屋を荒らした事実はあっても、被害届が出てるわけでもないんだし、実害があるとも思えねえ。杏子に対しても捜索願は出されてないし、いくらこっちが子供を預かってるとは言え、それはあくまでこっちの善意だろ。さっさと他に受け入れてくれそうな施設さえみつかりゃ、それでいいんだしよ。目くじら立てて女を捜す必要はないはずだぜ」
「女を捜してた上島が組の人間やったってだけで、東条組を刺激するのもまずいしな」
「ただ……杏子が逃げてるのと上島の死が何か関係あるんだとしたら、話は違ってくるぜ」
「それは、上島を突き落とした誰かがいてて、杏子とグルやってことか?」
「そこまではっきり確信してるわけじゃねえさ。けど、さっきも言ったとおり、俺は上島が単なる事故死だとはどうもすんなり受け入れられねえんだ」
「刑事の勘か」
「そんなんじゃねえ。ただの気持ちの問題さ──そう、すっきりしねえってやつよ」
「どうする? 帰ったらそっちの線で動けるように課長に談判してみるか?」
「果たしてそうすんなりとお許しが出るかな」
 芹沢は諦め口調で言った。「カタの付きそうなよその事件(ヤマ)に異論を唱えて掘り返すなんて、あのおっさんの嫌がりそうなこったぜ」
「許すとは思うよ。でも、二人で勝手にやれって言われるのは間違いないな」 
 鍋島も苦笑していた。「どや、ちょっと引き返して現場を見に行かへんか」
「それで分かるか? 十三署も検証済みなんだぜ」
「それこそ確信はないよ」と鍋島は肩をすくめた。「ただなあ、一条まで巻き込んでしもた以上、何とかはっきりさせんとおまえも困るんと違うか?」
「……それがあったな」
 芹沢は思い出したように舌打ちした。「あいつ、無駄骨に終わったなんて知ったら怒るぜ」
「そうなったときは俺、知らんからな」
「電話で謝るだけじゃすまねえよ。きっと俺、横浜に詫び入れに行かなきゃなんねえ」
「ご苦労さん」
 鍋島は悪戯っぽく言って笑った。


 午前五時半に上島武が転落し、下を走ってきたトラックにはね飛ばされて死んだ現場は、正午近くになっても交通量は少なかった。道幅は15メートルあるかないかで、舗道の木々も街中(まちなか)の街路樹のように足下をゴミと野良犬の糞で汚されているようなことはなく、綺麗に雑草を刈り取られ、すっきりと整えられていた。あたりの建物はどれもが五階かそこらのこぢんまりとしたオフィス・ビルだ。そのそれぞれが一つの企業の持ちビルらしく、いわゆるテナントビルの様相はしていなかった。そのせいか人の出入りも比較的少なく、せいぜい早めの昼休みに出かけていく社員たちが時折現れるくらいだった。
 そんな静かな通りになぜ歩道橋が架けられたのか不思議に思えたが、近くに二つの小学校があり、どうやらこの道が子供たちの通学路となっているらしい。歩道橋の足下に立てかけられた「児童に注意」という看板が、それを裏付けていた。

「やっぱりな」
 歩道橋のすぐ下の道路脇に車を停め、降りて来た芹沢は開口一番にそう言った。
「目隠し板だ。柵の両側の下半分にさ」
「ああ。あれがないと、渡ってる子供なんかが足を踏み外したりして、それこそ危ないからな」鍋島は歩道橋を見上げて言った。「それに、ミニスカートが通るたびにドライバーがよそ見運転して事故になる」
 二人は階段を上がり、端の中央あたりで立ち止まって下を見下ろした。
「どうだ? 誰かがこの目隠しの内側に隠れるように屈んで上島の足を持って、手すりを越えて落としたって仮説は? 使えるか?」
「成立するとは思うけど、この手すりの高さから行くと一人では無理やろな。そうなると複数犯や」
 鍋島は言うと芹沢に振り返った。「ほんで、その続きは?」
「やつを落としてからしばらくはこのままここに潜んで、トラックの運転手が飛び出してきて上島に気を取られてるあいだに逃げる。今の時間でもこの人通りの少なさだ。朝の六時前だと誰にも見つからねえように逃げるのはそんなに難しいことじゃねえだろ」
「落とされるとき、上島は叫び声なんか上げへんかったんかな」
「酔っ払ってたから、たとえ声を聞いた人間がいたところで誰も気にしなかったと思うぜ。それに、やつの着衣には抵抗による乱れはなかった。それがありゃ、十三署もあっさり事故死とは考えねえだろ」
「他殺やとしたら、抵抗する暇もないほど突然やったんやろ。それとも顔見知りか」
「ゆうべのやつの行動を洗うしかねえな。そこから何かとっかかりを見つけねえと、いつまでも仮説の域を出られねえよ」
「とは言え、自分が警察に追われてるってことは自覚してたはずや。派手な行動は慎んでるはずやし、足取りを追うのは難しいぞ」
「しょせんはそれが俺たちの仕事なんじゃねえの? クサいと思ったら、その考えが正しいのか間違ってるのか、とにかくてめえの足を使って確かめずにはいられねえ習性なんだよ。他のやつが下した結論なんて、たとえそれが同業者だろうと関係ねえ。自分の考えだけが信用に値すると思ってるのさ」
「おまえの刑事哲学か」
「……は、よせよ」
 芹沢は照れ臭そうな馬鹿馬鹿しそうな、どちらとも取れない笑顔で下を向き、首を振った。
「まあええわ。とにかく、いったん署に戻って課長に報告してから出直そうや。それこそ十三署が事故死とカタを付けそうな以上、あんまりおおっぴらに嗅ぎまわるわけにも行かへんからな」
「そうだな」
 二人は階段を下り、車へと戻った。


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