3ー②

文字数 2,398文字

 署の表階段を下りたところで、二人は笑い出した。
 お互いに顔を見合わせ、してやったりという満足げな顔で笑い転げた。笑いながら鍋島は額の擦り傷にそっと触れ、指についた僅かな血を見てまた笑った。
「──終わったぜ」
 芹沢が笑い過ぎて息苦しそうに言った。
「せやな」
 鍋島も笑いながら小刻みに頷いた。「やったみたら、簡単なことやった」
「後悔してねえか?」
「まさか。まだ早すぎるで」そう言うと鍋島は片眉を上げた。「おまえこそどうする? マンションのローン」
「売っちまえばいいさ。もともと、俺のために建てられたもんじゃねえよ」
「くだらんセンチメンタリズムともお別れや」鍋島は真顔だった。
「……そいつはどうだかな」芹沢は暗く曇った顔を逸らせた。
「よし、ほんなら今からどうする?」
「五時前か。とりあえず飲もうぜ。祝杯だ」
「そのあとは?」
「何なりと」と芹沢は肩をすくめた。「そうだな──博打打って軍資金稼いで、それで女のコでも引っかけるか?」
「どこに行ったら稼げんのか、知ってるんか?」
 鍋島はにやにや笑っていた。
「任せとけ。しっかり頭に叩き込んである」
 芹沢は人差し指でこめかみのあたりを軽く叩き、にっと笑って片目を閉じた。
 鍋島は腕組みをして深く頷いた。そして満足げな笑みをたたえて芹沢をじっと見ながら、大きな息を一つ吐き、言った。
「ええ相方やで、おまえは」
「そんなの分かってるさ」
 芹沢はさらりと答えた。

 それから二人はミナミへ繰り出し、久しぶりにとことん羽目を外した。
 さすがに芹沢の言うような博打には手は出さなかったものの──それは彼らがまだ正式に警察官の身分を失っていなかったからではなく、警官であるがゆえにそれらの抱く虚しさと悲劇をあまりにも良く知りすぎていたからだった──酒を浴びるほど飲み、女の子を片っ端からナンパして──ところが、芹沢という最強のルックスの持ち主をもってしても、それを軽く帳消しにする酒癖の悪さのせいでまるで相手にされなかった──何軒目かに入った店では、隣り合わせた三人組のサラリーマンにわざわざ因縁をつけて取っ組み合いの喧嘩までした。
 そのとき誰かが110番通報して、近くの派出所から巡査が駆けつけたときは、二人は相手の三人組とともに店の外に放り出され、路上ですっかり伸びてしまっていた。
 巡査の一人は去年西天満署から難波(なんば)署へ転属になった人物で、二人を見て仰天し、慌てて同僚に二人の正体を耳打ちした。そして巡査は三人組と何とか話をつけて二人を派出所へ連れて帰り、傷の手当てをした。それでも二人はまったく懲りず、今度は奇抜なネオン輝く戎橋(えびすばし)界隈に繰り出した。そしてそれは、彼らが警官という窮屈な立場から逃げ出したい、いや逃げ出せたかも知れないという解放感から出た行動と言うより、実は昨日の悲劇から何とか目を逸らそうとして引き起こされた行為のように映った。

 そして哀しみはそのすぐ後にやってきた。

 二人が芹沢のマンションに戻ってきたのは、夜中の三時を回った頃だった。
 最初のうちは二人とも、脳天気な酔っ払いそのものだった。傷だらけで、服はよれよれ、足取りもかなり乱れていた。鍋島はとうとう体に変調をきたして長い間トイレの便座にしがみつき、酒に強いはずの芹沢もリビングのソファーに伸びていた。
 やがて復調した鍋島がシャワーを済ませてリビングに入ってきたときには、芹沢は引き戸の開いた和室の真ん中で、電気も点けずにぽつんと座っていた。
「……よく飲んだよな」
「ああ、よう飲んだ」
「飲み過ぎて、頭がぼうっとして──」
 芹沢は溜め息をついた。「大事なことを忘れてたよ」
 鍋島は戸口に腰を下ろして両膝を立てた。
「……菜帆が死んだってことさ」
 鍋島は黙って俯いた。
「実は、まだ信じられねえんだ」芹沢はまた溜め息をついた。「だっておとといまで、ここであんなに穏やかな寝息を立ててたんだぜ」
 鍋島は部屋の隅に積み上げられた布団に振り返った。昨日の朝まで菜帆と亮介が使っていた布団で、純子が実家から持ってきたものだ。
「耳が聞こえねえ分、周りの汚ねえ雑音から守られててさ。俺やおまえの減らず口にも、にこにこ笑ってくれた。……綺麗な目をしてたよな。口が利けねえから、代わりにその綺麗な目で話すんだ。汚れのない、澄んだ目だったよ。俺はいつの間にか、あの瞳に慰められてたんだ。心が洗われるって言うか……」
 芹沢はだんだんと声を詰まらせた。「みちるが言ってたよ。子供は大人よりずっと神に近いところにいるんだって」
 鍋島は小さく頷いた。
「……たった三年の人生だぜ」芹沢は首を振った。「可哀想に……お気に入りのワンピースが、あんなに血で真っ赤に染まって──」
「やめてくれよ」
 鍋島が言って、芹沢は唇を噛んだ。
 鍋島は鼻をすすり、立てた膝に組んだ両腕を乗せてそこに顔を埋めた。
「……思い出したくないんや」
「最後は母親の腕の中で逝ったんだ。それだけが救いだよ」
「なあ、芹沢」
「……ああ」
 鍋島は顔を上げずに、こもった涙声で言った。「……俺らが殺したようなもんなんか?」
 芹沢ははっと顔を上げて振り返った。息を吸い込んで、何か言おうとした。言おうとしたが、そのまま金縛りにでもかかったように身体が硬直して、ただ鍋島を見つめるだけだった。
「……避けようと思たら、避けられたんと違うんか?」
「それは──」
「なあ、どうなんやろ?」
 顔を上げた鍋島の目は、真っ赤だった。
「……かも知れねえよ」
 長い溜め息とともに言った芹沢の顔はみるみる歪み始めた。目を閉じると両手を畳について頭を低く垂れ、肩を震わせた。
 鍋島は親指の爪を噛みながら、悔しそうにリビングのシーリングライトを睨んだ。

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