1ー①

文字数 4,094文字

 この女か、と芹沢は思った。
 決して美人ではなかったが、いわゆる男好きのする顔というやつだった。三十一歳という年齢にしてはそのぱっちりとした目元にまだあどけなさが残っており、丸い鼻と小さな唇も、綺麗と言うよりは可愛らしいと表現する方が適切だった。そしてそんな顔立ちにはまるで不必要なほどの厚化粧は、彼女がやはり夜の世界の人間であることをわざわざ宣告しているかのようだった。
 真っ赤なスパンコールの詰まったチューブトップの上に黒のジャケットを羽織り、真紅のミニスカートに赤いエナメルのハイヒールを履いている。肩より少し上までの茶髪の毛先を外側に向かってカールさせて、服と同じ赤のスパンコールのついた幅広いヘアバンドをしていた。全体的に肉付きが良く、肌の白さがそれを強調する役目を果たしているようだ。こういう感じを肉感的と言うのだろうと、彼女の向かい側に座った芹沢は思った。
 そしてもう一つ、これは余計なことだったが、豊満なバストの彼女がチューブトップを着ていてくれてちょっとラッキーだとも思った。

 この日の正午少し前、田所杏子は前日の午後五時に横浜のホテルの前で自分を待ちかまえて保護した神奈川県警山下署刑事課の一条刑事に連れられて、新大阪駅の新幹線下りホームに降り立った。そのまま迎えのパトカーに乗り、西天満警察署に到着したのは十二時を二十分ほど回った頃だった。一条刑事は植田刑事課長に、西川一朗殺しと上島武の事故死に関する参考人の田所杏子を、任意同行を求めた上で横浜から連行した旨を報告し、刑事課の向かいにある小会議室で事件の担当者である鍋島刑事と芹沢刑事による事情聴取に立ち会った。その際、芹沢から事件の現時点までの報告書を渡された一条は、それで初めて今回の事件の詳細を知ったのだった。

「──刑事さん、これは取り調べなんですか?」
 部屋の中央を陣取った大きな机の一角に肘を突き、足を組んで座っている杏子は目の前の芹沢に訊いた。
「いいえ、違いますよ。事情聴取です」
 芹沢は極めて穏やかに答えた。
「あ、そう。じゃあ安心したわ」
 そして杏子はにっこりと芹沢に笑いかけた。「お手やわらかにね。昨日もそうやったんやけど、警察なんて初めてやし、ドキドキしてるの。もちろん、刑事さんがイケメンっていうのもあるんやけど」
「ご心配なく」芹沢は軽く笑って頷いた。
 ドアのそばで折り畳み椅子に座って腕を組んでいた一条は心の中で溜め息をついた。──やだやだ。いつもこうなの?
「煙草吸ってもええかしら?」
「どうぞ」
 芹沢は机の中央の灰皿を杏子の前に差し出した。
 杏子は膝の上に置いたシャネルのバッグからシガレット・ケースと銀色のライターを取りだし、中から一本抜き取ると爪を真っ赤に塗った指に挟んで火を点けた。
「早速ですが、田所さん」
 杏子の左の窓際にあるエアコンに浅く腰掛けた鍋島が口を開いた。しかしすぐに咳払いをすると、考え込むように俯いた。
「ええっと、どこから訊こかな──」
「西川が死んだ理由から聞くとええわよ」杏子は煙を吐いた。「そもそも、話はそこから始まったんやから」
「……我々は、西川が上島に殺されたのはあなたを巡っての(いさか)いからだと解釈しているんですが」
「あたしのこと?」杏子は驚いて目を大きく開いた。「まさか。そんなしょうもないことと違うわよ」
「でも、上島は西川があなたに近づいたのを快く思っていなかったんでしょう?」
「確かに、上島はあたしのことで西川ともめてたけど、そんなことはたいしたことやないのよ。上島はああいう凶暴なやつやけど、もともと女には寛大な男やったし、あたしの性格もよう知ってたから、あたしが西川とそういう関係になったことをそれほど怒ってもいいひんかった。そのへんのプライドだけが欠落してるっていうか、女なんて男全員の共有物やと思ってるっていうか──それにだいいち、どっちかって言うと西川が一方的にあたしに惚れ込んできたって感じやったし。あたしはほんのお遊び気分やったのよ」
 物好きな男もいてるもんやな、と鍋島は思っていた。「じゃあ、西川が殺された本当の理由は?」
「当然、あのアタッシュ・ケースのことよ」
「アタッシュ・ケースね」芹沢が言った。「西川は、あれを誰から手に入れたんです?」
「……もちろん、上島からよ」杏子はちょっと俯いた。
「どうやって?」
「上島のマンションに忍び込んで。上島が一時的に組から持ち帰ってたのよ」
「西川はそのことをどうやって知ったんですか?」
「何よ、あたしが喋ったとでも?」
「いいえ。そうじゃなくて、上島のマンションに忍び込むこと自体があり得ないと言ってるんです」
「どういうことよ」
「いくらあなたに熱を上げている西川でも、そこまで危ない橋を渡るとは思えない。東条組は自分にとっても大事な取引先だし、そこの別の仕事をぶち壊すような真似はしないでしょう」
「ほなどうやって手に入れたと言うの?」
「あなたが盗んだんですよ。別のところから」
「……別のところ?」
「矢野の車の中からです」芹沢は杏子から視線を外さずに言った。
「…………」
「知ってますね。矢野光彰(みつあき)。尼崎で鉄工所を経営している男です」
「……知らんわ、そんな男」杏子は慌てたように煙草を消した。
「おかしいですね。あなたとは旧知の間柄のはずですよ。二十六年前、岡山からあなた方一家が越してきたとき、住んでいた家の隣にあったのが矢野鉄工所です。そして、あなたと矢野光彰は幼なじみだったと、近所の人たちは証言してくれましたけど」
 杏子は黙っていた。両腕を抱え込むようにして俯き、目の前の机の一点をじっと見つめている。紅い唇が微かに震えていた。
「あなたと矢野は、あなたが高校を卒業して家を出るまでは親交があったそうですね。矢野はずっと、五つ年下のあなたのことを妹のように可愛がっていた。もちろん、あなたが成長してからは特別な関係でもあったようですが」 
 芹沢は淡々と言った。「それが突然、あなたの就職によって終わったと聞きましたが。矢野には信じられなかったようですよ。自分の元からあなたが離れていったのが」
「今年七十歳になる矢野の母親が話してくれました。息子は杏子ちゃんのことをお嫁さんにしようと決めてたんやって。杏子ちゃんもそう約束してくれてたって。もちろん、それは矢野親子の勝手な思い込みやったんやないかと我々も思いますがね」鍋島が言った。
「……忘れたわ、そんなこと」杏子は消え入りそうな声で言った。
「それじゃあ、現在の話をしましょう」芹沢が言った。「矢野は工場の経営が立ち行かなくなって、東条組の系列のヤミ金から金を借りてる。たった五十万円ですけどね。けど利息は恐ろしい金額に膨れ上がって、とてもじゃないが払い切れない。そのヤミ金に頼まれて、借金の取り立てに乗りだしたのが上島です。やがてあなたは上島を通じて、矢野が借金の棒引きの代わりに拳銃の密造に手を貸すことになったことを知った。そこであなたはある計画を思いつく」
「組と取り引きしようと思ったのね」一条が言った。
「そう。そして今度は矢野と連絡を取って彼に会い、車からケースを盗み出した。違いますか?」
 杏子は弱々しく首を振った。「そんなこと……」
「違うとおっしゃるのなら、ちゃんと弁明してください」
 杏子は黙ってまた俯いた。芹沢は小さく肩をすくめ、それから続けた。
「次にあなたは西川にこの話を持ちかけた。ケースを持ってさえいれば、組も上島も矢野も自分たちには手を出せないはずだから、一緒に逃げようって。西川に新幹線の切符を用意させ、ケースを預けたロッカーの鍵と一緒に受け取ると、自分はアパートに戻って鍵を亮介に預けた。それから西川と横浜で落ち合う約束をして姿を消したんだ」
「それでも結局、あんたは西川とも手を組むつもりはなかったんやろ?」
 鍋島が言った。「だから上島に西川の居所を教えた。西天満のスナックや。やつがそこにいることを携帯で確認して、上島に知らせたんや。ケースのことを西川一人に罪をなすりつけて」
「……殺すなんて……」杏子がぽつりと言った。
「えっ?」芹沢は目を細めて杏子を見た。
「殺すなんて、まさか思てなかった」
 そう言うと杏子は顔を上げて芹沢を見た。「逃げる時間を稼ぎたかっただけなんよ。西川は組にとっても必要な人間やし、まさか上島が殺すなんて──」
「あんた、アホか?」鍋島が怒ったように言った。「上島の凶暴さはあんたが一番よう知ってるはずや。西川がどんな目に遭うのか、それが分かってたからこそ上島にチクったんやないのか? 案の定、あいつは雑巾みたいにボロボロになって死んだんやぞ」
「ボロボロっ、て……?」
「多数の骨折に内臓破裂、そして致命傷は激しく頭を殴られたことによるくも膜下出血」芹沢が答えた。
「ほんま……?」
「現場の惨状は、それはもうひどいもんでしたよ」
「でも、そんなことないはず」杏子は首を振りながら言った。「上島はそんなことしたって言うてなかったわ」
「西川が殺されたあと、上島に会うたんか?」
「違う。上島のやつ、あたしの携帯にメッセージ入れてきたの。西川を階段から突き落としてやったって言うてた。それから、西川の上着から新幹線の切符を手に入れたって。それであたしと西川がグルやってことに気づいたのよ。あいつはそれをあたしに知らせようと電話を掛けてきた。不気味な声で留守電にメッセージ入れて、笑って切っていった。そういう男なのよ、あいつは」
 杏子は言うと鍋島に振り返った。「でも、あいつが階段から突き落としたって言うたら、それだけ、それ以上でもそれ以下でもないってことやねん。あたしを怖がらせようとして掛けてきた電話で、もっとひどいことしたことをわざわざ隠さへんでしょ」
「ほな、やつが殺したんやないとでも?」
 杏子は俯いたまま、震えるようにゆっくりと頷いた。


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