1ー②

文字数 2,290文字

 そのアパートは車がやっと一台通れるかどうかの舗装されていない狭い道を、窮屈そうに建ち並ぶ長屋に沿ってずっと奥へ入った突き当たりの寺の土塀の前にあった。
 今にも崩れそうな木造二階建てで、間口も狭かった。玄関の引き戸の前には他の家の軒下と同様、花だか草だか分からない植物の植わった植木鉢が並べられている。朝顔らしき枯れた蔓の巻き付いた細長い竹が突き刺さったものもあった。申し訳程度のサッシが取り付けられた小さな窓には、不釣り合いなまでに真っ白な洗濯物が鈴なりにぶら下がっている。そのうちのどこかから、AMラジオ独特の早い語り口の声が聞こえてくる。下町の昼時に相応しい光景だった。

 そんなところに真っ黒のセダンが乗りつけ、中から制服と私服の警官が二人ずつ降りてきたのだから、あたりには一瞬だったが物々しい雰囲気が流れた。近所の連中はあっという間にその気配を嗅ぎつけ、家の玄関や部屋の窓からこっそりと──しかし大胆に──警官たちの様子を見守っている。警官たちの方は、まるで防犯訓練か人質を取って民家に立てこもった逃亡犯の説得に当たってでもいるかのような気分になった。
「……目立ってしゃあないな」
「今度は逃げられても安心だぜ。どこへ逃げたか、目撃者探しに苦労しなくて済む」
 鍋島は苦笑した。そして、二人に先立ってアパートの偵察に行き、待っていた制服警官に向き直った。
「部屋には俺ら二人で行くから、自分らは玄関と裏手に別れて待機しててくれ」
「ですが巡査部長、裏手と言っても二階の窓よりもはるかに高い寺の土塀が迫ってまして、猫一匹通れるかどうかの隙間しかありませんが。子供でも、あんなところに落ちたらぴったりと挟まって、身動きが取れなくなりますよ」
 まだあどけなさの残る警官は鍋島を正面から見据えると、はきはきした口調で言った。
「そうか」と鍋島は頷いた。「それやったら、二人で入口の外で待っててくれ」
 はい、と二人の制服警官は同時に返事をした。

 鍋島と芹沢は立て付けの悪い引き戸を開け、中に入った。周囲を家や塀で囲まれているため、中は昼間とは思えない暗さだった。目の前を奥へと伸びる廊下の両側には、使い古された傘や子供のおもちゃ、ゴミバケツなどがずらりと並び、中には壊れかけた自転車もあった。煤の溜まった天井からは小さな裸電球が一つぶら下がっているだけで、しかもその明かりはあまり役に立っていないようだった。何かにつまづいて転びでもすると、これまたミシミシと心細い音を立てる床を突き破ってしまうに違いない。
「……今どき、極道の女が住むようなとこやないな」
 鍋島は天井を見回して言った。
「しっ、聞こえるぜ」芹沢は人差し指を立てた。「どの部屋だ?」
 鍋島は玄関口の壁に並んだ錆だらけの郵便受けの名前を調べた。
「あった。2E。上やな」
 二人は近づくだけでも軋む急な階段をゆっくりと上がった。二階も下と代わり映えのしない様子で、五つのドアはどれも閉まっていたが、中からは炊事の音やテレビの音声が大きく漏れてくる。二人はできるだけ音を立てずに並んだドアに近づき、黄ばんで消えそうになった表札を確認しながら奥へと進んだ。
 一番奥のドアの真ん中に、ひらがなで『たどころ』と書かれたプラスティックの表札が両面テープのようなもので貼りつけてあった。芹沢が細心の注意を払ってゆっくりとノブを回し、鍵が掛かっていないことを確認した。二人は顔を見合わせて軽く頷き、それぞれの懐から拳銃を抜いた。
「……行くぞ」
 芹沢は左手でノブを握り、こんな場合にはいつも言う台詞を言った。
「どうぞ」
 ドアの脇に背をつけて立った鍋島もいつもの言葉で答えた。
 芹沢がちぎれんばかりにノブを引いた。同時に鍋島が中に飛び込み、芹沢もすぐにあとに続く。そして二人はまっすぐ前に銃を突き出した。

 中にいたのは二人の子供だった。

 六、七歳くらいの男の子と二歳くらいの女の子が、六帖足らずの部屋の中央に置かれた折り畳み式の小さなテーブルの前で、肩を寄せ合い、怯えきった表情でじっとこちらを見ている。テーブルの上にはコンビニエンスストアなどで売られているおにぎりやカップ麺がぽつりと乗っており、あたりにもまだ開封前のインスタントラーメンの袋が散乱していた。そばに敷かれた布団はもう何日もそのままの状態だと分かるくらいにシーツが皺くちゃで、微かにカビ臭い匂いを放っている。部屋の左手には古い手垢のしみ込んだ押し入れの襖、その脇のビニール製の衣装ボックスはジッパーが半分開いており、中からけばけばしい赤のワンピースが見苦しく覗いていた。正面の窓枠には子供の下着が吊り下がった丸いハンガーが掛けられ、少し開いた窓の隙間から入ってくる穏やかな風に小さく揺れていた。
「……どういうことだ……?」
 芹沢が拳銃を構えたまま呆然と言った。
 鍋島は黙って首を振り、銃を持った右手をだらりと下ろして大きな溜め息をついた。ふと後ろを振り返ると、開け放たれたドアの向こうでいつの間にか集まってきた他の住人たちが怪訝そうに中の様子を伺っている。中には、二人の手に握られた拳銃を指差して眉をひそめる者もいた。
「お呼びでない、ってやつやな」
 鍋島は皮肉っぽく言って鼻で笑い、拳銃をおさめた。
 そのとき、男の子の視線を感じて顔を上げ、彼の目を見て思わずどきっとした。
 その瞳には、怯えながらもどこか反抗的で、そして深い悲しみと憎悪に満ちた暗い輝きがあった。
 十六年前(あのとき)の俺がいる、と思った。  

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