2ー③

文字数 2,636文字


 その日の午後、少なくとも二十歳になるまでは徹マンに明け暮れて家に帰らないスナックの親父なんかよりもはるかに堅気の人間だった芹沢貴志は、見た目と正体とのギャップから考えてきな臭いと言うよりも胡散臭い感じさえする相棒の鍋島勝也とともに、やっぱりきな臭いと言われても仕方のないことをやっていた。

 解剖の結果、西川一朗の死因は外傷性のくも膜下出血と断定された。酔っ払って階段から足を踏み外し、転落したことによって出来たであろう打撲や骨折などの外傷も確かに認められたが、転落が原因とは考えられない内臓破裂も起こしていた。要するに西川は、自分の不注意あるいは誰かの手によって階段から転落したあと、路上で破壊的な暴力を受けて死んだのである。殺されたのだ。
「──計画的に殺人を実行して、計画的に逃亡したとは言えねえな」
 芹沢は八帖間の真ん中に立って言った。周りにはスーツの上着やパジャマ、雑誌などが散らばり、ごく最近まで誰かがここで暮らしていた息遣いがひしひしと伝わってくる。丸テーブルの上のクリスタルの灰皿には、何本かの煙草の吸い殻が灰に紛れて転がっていた。
 部屋の借り主は上島武だった。鍋島も芹沢も、上島が部屋にいるとは最初から考えていなかったので、あらかじめ裁判所で礼状を発行してもらい、それをマンションの管理人に提示して部屋の鍵を開けさせ、家宅捜索しているのだった。管理人は上島の素性を知っていたようで、もめ事に巻き込まれるのはご免だと、捜索に立ち会うことなく管理人室に戻ってしまった。刑事たちも引き留めなかった。
「どう見てもちょっとそこまで出かけてるって感じだぜ」
「西川と話をつけたら、戻って来るつもりやったんかな」鍋島が言った。「あるいは殺した後も戻ってきてたかも」
「女と暮らしてたのは間違いねえ」
 芹沢は押し入れのそばにあるクロゼットを開けた。「……何とも派手な衣装が揃ってら」
「西川が上島の女に横恋慕してミナミのクラブに通ってたんやとしたら、この女はホステスやからな」
「そうだ、そっちの線はどうするんだ? この後で行ってみるか?」
「いや、この時間やとまだ店には誰も出てきてないはずや。それに今の時点で乗り込んでいくのは時期尚早やと思う。今夜、タレコミ屋が探ってくれることになってるし、もしもそこで動きがあったら、連絡がくる」
「どう思う? 上島が現れると思うか」
「さあな。西川を殺ったんが上島やとしたら、そんなとこにのこのこ顔を出すとは思いにくいけど──いずれにせよこの部屋にもめぼしい手がかりはなさそうや」
 二人はほぼ当時に溜め息をつき、面倒臭そうにはめていた手袋を外した。

 そのとき、玄関先でガチャッという、扉の開く独特の音がした。
 二人は顔を見合わせると、咄嗟に懐に手を入れた。
「──キョウコ? 帰ってきてるのか?」
 玄関で男の怒鳴り声がした。太く、嗄れた声だった。
「……飛んで火に入る、だぜ」
 芹沢は小さく呟いて、ベランダに続く窓とクロゼットの間に素早く身を隠した。逆に鍋島はゆっくりと足を忍ばせて廊下へと続いている戸口のそばに行き、壁にぴたりと背をつけて立った。
「キョウコ? いてへんのか?」
 男はまだ玄関にいるようだった。鍋島は拳銃を抜いた。
「焦るな。もうちょっとおびき寄せろ」芹沢が囁き声で鍋島を制した。
「もうええやろ」
「駄目だって。部屋に上がってきてからだ」
「そんなことしてたら──」
「誰や? 誰かいてるのか?」男の声に緊張感が走った。
 二人は待った。上島らしきその男が部屋に上がり、廊下をこの部屋までやってくるのをじっと息を殺して待った。リヴォルヴァーの銃身を握っている手の内側に汗が浮き出してきて、落とさないように持つのに少し力が必要になった。

 ──早よ来い。何をもたもたしてるんや。早よここまで来て、三十八口径の暖かいお出迎えを受けろよ……。

「──しもた……!」
 男が独り言を叫んだかと思うと、慌てた様子でドアを開ける音がした。
「外からまわってくれ!」
 鍋島は芹沢に言うと廊下に飛び出した。しかし玄関にはすでに人の姿はなく、開け放たれたドアが窮屈そうな音を立てて揺れているだけだった。
 廊下を突っ切って外へ出た。すると、青いシャツに黒のスラックスをはいた男が、鍋島に振り返りながら十メートルほど先を走って行くところだった。その右目の下には、太く浮き上がった傷跡があった。
「止まれ! 止まらんと撃つぞ!」
 鍋島は拳銃を突き出して男の後を追いながら叫んだ。彼はいまだかつてこの言葉で相手を立ち止まらせたことなど一度もなかったが、一応の警告のつもりでごく形式的に言うのだった。
 例に漏れず男は速度を緩めることなく、突き当たりのエレベーターに向かって突き進んでいく。それどころかもう鍋島に振り返ることさえしなかった。
 鍋島はエレベーターのドアの上で点灯している数字を見ながら男の後を追った。ここは三階だから、男がコールボタンを押すまでに3に点ればそのまま通過してくれるはずだ。
 3に点灯した。助かった、と思った直後、ドアが開いた。
「まずい……!」
 中から若い女性が携帯電話で話しながら出てきた。女性は男がものすごい勢いで飛び込んでくるのに驚き、自分の身体を抱え込むようにしてドアの脇に退いた。そしてすぐに鍋島の方に早足で向かってきたので、鍋島は銃口を上に逸らさなければならなかった。
 ちょうどそのとき、男の乗ったエレベーターのドアが閉まった。
「──くそっ……」
 鍋島は片目を閉じて舌打ちし、閉まったドアを蹴飛ばした。そしてすぐ隣にいた女性の視線が自分の右手に握られた拳銃に釘付けになっているのに気づくと、ゆっくりとそれを懐におさめながら力なく笑って言った。
「……警察ですよ」
 女性は顔を強張らせたまま、どう言うわけか手に持っていた携帯電話を後ろに隠した。
「そうや、芹沢や──!」
 鍋島は部屋のベランダ越しに非常階段を使って下に下りているはずの芹沢を思い出し、慌ててエレベーターのボタンを押した。しかしすぐに待ちきれなくなり、その隣にある階段を転げるようにして下りていった。
 一階のホールに出た鍋島は、そのままの勢いで玄関を飛び出した。そして表の通りを何の確証もなく右方向に走り掛けたところで、少し先の角から芹沢が現れたのに出くわした。
「どうやった?」
 鍋島は答えの分かりきった質問をした。
「……見りゃ分かるだろ」
 芹沢は吐き捨てるように言って唾を飲み込んだ。

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