文字数 4,868文字

 JR大阪駅で鍋島は二人と別れ、阪急線で十三へ行った。昨日の芹沢に引き続いて聞き込みを行うためである。
 芹沢は萩原を自分のマンションへ送っていったあと、署に戻った。ロッカーから押収したアタッシュ・ケースを入れたままの車を庁舎西側の駐車場に停め、しっかりと施錠して堂島川沿いの玄関に回った。

 玄関ホールに入るとすぐ、芹沢は目的の人物を見つけた。刑事部屋に戻って不在ならば、彼の携帯電話を鳴らして連絡を取ろうと思って帰ってきたのだが、幸運にも彼は外出してはいなかった。おそらく、美人の誉れ高い夫人の作った愛妻弁当を食べに刑事部屋に戻ってきて、これから再び捜査に出かけるのだろう。にこにこと笑い、警察学校を出たばかりの若い婦人警官と立ち話をして彼女を笑わせている様子は、いつもの剽軽な彼を良く現していた。
 数歩進んだところで、芹沢は彼に声を掛けた。
「松本主任」
 松本と婦警の両方が振り返った。婦警はいっそう笑顔を輝かせ、芹沢も彼女に微笑んで見せた。
 それから少し表情を堅くして、「ちょっと」と頷いた。
 松本は婦警と別れ、芹沢に近づいてくると薄笑いを浮かべて言った。
「……何や。もう彼女にもおまえのツバがついとんのか」
「違いますよ」と芹沢は迷惑そうに笑った。「主任に話を聞きたいと思って」
 松本は片眉を上げた。「東条組の件か」
「ええ」
 芹沢は頷き、松本を駐車場へと促した。
「何や、何かあるんか?」
「……まあ、ちょっと」
 芹沢は松本を車に誘った。中之島に渡り、水晶橋(すいしょうばし)の南詰付近で道路脇に停車させると、サイドブレーキを上げて松本に振り返った。
「その後の本店の動き、どうなってるか分かりますか」
 松本は煙草を咥えて灰皿を引き出し、「変化なしってところやな」と言うと煙を吐いた。
「工場の方は? 拳銃の製造を請け負うっていう」
「同じや。ガサをかける機会を伺ってるんやろ」
「伺ってるんじゃなくて、逃したんじゃないですか」
「逃した?」松本は眉根を寄せた。
「本部の動きが止まったのは、組側の動きが止まったからですよ」
「……おまえら、何か掴んだんやな」
 芹沢は口の端だけで笑った。「その工場の親父って、どんなやつだか主任は知ってるんですか」
矢野(やの)のことか」
「名前は知りません。坊主たちのアパートにガサ掛けたやつです」
「キレたストーカー風の男やて言うてたけど、違たんか」
「ええ」
 男がストーカーなどではなくロッカーの鍵を捜していたことは、さっき判明した。
「子供らの母親が行方不明なのも、それに関係ありか」
「そうです」
「上島が死んだのは? 事故死やないと見てるんやな?」
「もちろん」
 松本はゆっくりと頷いた。灰皿に煙草を打ちつけ、また口に運んで目を細めた。
「──矢野言う男は、アマ(兵庫県尼崎(あまがさき)市)でちっちゃい町工場やってる男や。自動車メーカーの孫受けの孫受けみたいなとこで、長引いた不景気のせいで借金だらけでどないもこないもならんようになってしもてる」
「そこに東条組が目をつけたってわけですね」
「ああ。矢野は組の系列のヤミ金から借金させられてるからな。追いつめられたら何でもやりよる。水商売の女を薬漬けにして借金掴ませて、あとはフーゾクに沈めんのと同じやり口や。あいつらのやることは何ひとつ変わらへん」
 松本はじっと芹沢を見つめた。「矢野が上島を殺ったんか?」
「さあ」と芹沢は首を傾げた。「ただ、拳銃の関連で上島が消されたのは間違いないみたいです」
「どういうことや」
「さっき、坊主が母親から預かったっていうコインロッカーの鍵を渡してくれたんです」
「矢野が捜してたんはそれやな」
「間違いないでしょうね」
「今の今まで黙ってたんか、あの坊主は」
「ええ」
「……最近のおこちゃまは、どこまでも油断ならんな。それで?」
 芹沢は後部座席に振り返り、シートの下に隠しておいた例のアタッシュ・ケースを引っぱり出した。松本は怪訝そうにその様子を眺めていた。
「これなんですけど、実は──」
「おい、ちょっと待った」
 松本はケースを開けようとした芹沢の手を制した。芹沢は顔を上げた。
「見せん方がええのと違うか」
「どうしてです?」
「中を見せられた以上、立場上こっちも動かんわけにはいかんようになるからや」 松本はじっと芹沢を見据えた。「そうなると、いずれこの事件(ヤマ)全部が本店に渡ってしまうぞ。このブツだけやのうて、女の行方捜しも、子供の処置も、一切合切おまえらの手を離れるんや。おまえらはそれでええんか? ええはずがないやろ?」
 芹沢は小さく頷いた。
「当然や。ここで本店に持って行かれたら、子供を預かってまで追いかけてきた今までの苦労が水の泡やからな」
「そうですね」
「なら、俺は見ん方がええやろ」松本はにっと笑った。「ええか、このことはしばらく俺の胸にしもとく。誤解してくれるなよ、責任逃れしたいのと違うで。今も言うたように、ここで俺がおまえらの手札を全部見たら、おまえらはたちまちゲームオーバーになってしまうからや。せっかくええ札を持ってるのに、それではあんまりやろ?」
「ええ、あんまりですね」芹沢も小さく笑った。
 松本は煙草を消し、細く開けていた窓を下げて外気を入れた。同時に周囲の騒音も入って来た。
 外の景色を眺めながら、松本は言った。
「──俺、この前自分らに言うたよな。『ケツに火が点く前に言うてこい』って」
「そうでしたね」
「まだやで」
「は?」
 松本は振り返った。「まだ火が点くどころやないって言うてるんや。それどころか、連中はおまえらのケツの場所さえも分かってない。そんなときに俺の出る幕はないってことや。もうちょっと自由にやってたらええ」
「主任──」
「ま、おまえらと一緒に仕事してみたいのはやまやまなんやけど」
 松本は明るく言った。
「問題児ですよ、俺たちは」
「怖いもん見たさというのがあるやろ。あれや」
 そう言うと松本はドアを開けた。「まあ、上手いことやってや」
「すいません。気を遣ってもらって」
 車を降り、公会堂の正面に向かって歩き出した松本は、五メートルほど行ったところで突然振り返り、相変わらず悠々とした歩調で戻ってきた。
 そして開いたままの窓に腕を掛け、中に顔を突っ込むと彼は訊いてきた。
自動式(オートマチック)か」
 突然の質問に芹沢はいささか驚いたが、すぐにその意味を呑み込むと小さく首を振って答えた。
回転式(リヴォルヴァー)です。ルガーのGP100だって、鍋島は言ってました」
「へえ。連中、そこそこベタやな」
 松本は首を引っ込め、行きかけた道を進んでいった。



「──ええ、東条組の人でしたよ」
 スナック『グラント』のママ・吉田弓子(よしだゆみこ)は言った。
 四十五歳前後、薄化粧でも充分に美人で、白いシルクのシャツブラウスとジーンズというスタイルでも充分にグラマーだった。十三の小さなスナックのママなんかにはもったいないくらいで、新地のクラブの雇われママぐらいになら決して役不足にはならない感じだ。ただ、出勤支度にかかる前の自由な時間をチンピラみたいな若造の刑事なんかに邪魔されるのははなはだ不本意らしく、いくぶん愛想が悪かった。

 鍋島がこのママにたどり着いたのは、ほとんどの店がまだ開店準備中の札が掛けられている十三の歓楽街を聞き込み中、腹ごなしに入ったうどん屋の娘の情報からだった。可愛らしい顔立ちの娘は親の営むうどん屋を手伝いながら、週末だけ『グラント』でバイトをしているという。聞けば母親と『グラント』のママが友人らしい。したがって十一日も彼女は出勤しており、上島らしき男が大柄とインテリ風の二人の男と一緒に店にやってきたのを覚えていたのだ。娘は鍋島の注文したきつねを運んできたとき、彼がぼんやりと眺めていた上島の写真を覗いて「その人、見たことあるわ」と呟いた。そして詳しい話を聞きたがった鍋島に、ママの自宅であるこのマンションの住所を教えてくれたのだった。

「連中はよく来るんですか?」鍋島はママに訊いた。
「大柄の男だけね。月に一度か二度」
「なぜ東条組の人間だとご存じなんです?」
「初めて来たとき、別の客がそう言うてたから。特に疑いもせぇへんかったわ」
「お店でトラブルを起こしたことはありませんか」
「いいえ。それに、うちみたいな小さな店は客を選んでたら商売にならへんから」
 そう言うとママは鍋島をじっと見た。「暴力団排除条例とか、今ここで振りかざすんやったら帰ってよ」
 鍋島は俯いて苦笑し、それから言った。「土曜はどんな話をしてました?」
「いちいち聞いてませんけどね。仕事の話じゃないの」
 ママはソファーで足を組みかえ、豊かな唇から煙草の細い煙を吐いた。
「お客はその連中だけやないし、話をじっくり聞いてるほどうちは人手にも恵まれてないし。ママと言うても、いろいろ雑用に追われて忙しいんですよ」
 だからここも早めに引き上げてくれ、と言わんばかりだった。
「どれくらいいました?」
「二時間くらいかしらね」
「そんなに長いこといたんやったら、何か覚えてらっしゃいませんか? どんなことでもええんです」
 ママは上目遣いで鍋島を見た。迷っているようだった。
「……お客の話をよそで喋るの、嫌なのよ。それに、もしあたしが喋ったっていうのが分かったら、仕返しがあるんと違うの」
「大丈夫です。警察は情報源を絶対に漏らしません」
「どうかしらね」
 ママはふんと笑って煙草を消した。「そうねえ。そう言えば、新しいボトルを持っていったときに少しだけ話を聞いたかしら。顔に傷のある男が『店はあの日に辞めてる』って言うてたわ。そしたら金縁眼鏡の男が『そのあとが知りたい』って──傷の男は『俺に任せといてくれ、絶対に迷惑は掛けへん』とか何とか。今度は大柄の男が『そう言い続けて何日や』って凄んでたわね」
「つまり、傷の男がその二人に脅されてるようやったと」
「脅されてるって言うより何か仕事を急かされてるか、その仕事から外されそうになってるって感じやったわね。傷の男はそれを必死でくい止めようとしているみたいやった」
「そのあいだ、傷の男の様子は? 周囲の視線を気にしているようでしたか?」
「ううん、一人で酔っ払ってたわよ。あれは他の二人に知らず知らずのうちに飲まされてたんやね。二人はほとんど素面やったもの」
「店を出るときにはその男、どうなってました?」
「二人に抱えられるようにして出ていったわ。私が『タクシー呼びましょうか』って訊いたら、眼鏡が『いや、大丈夫。もうすぐ迎えが来るから』って言うて出ていきましたよ」
 “お迎えが来る” か。犯行予告みたいやな。鍋島はそう考えていた。
 すると──
「そうしたら実際、すぐあとでひょっこり別の男が現れて」
「別の男?」鍋島は顔を上げた。
「ええ。『ここに三人の男が来てなかったか』って。私が『今さっきお帰りになったばかりやら、そのへん捜したらすぐに見つかりますよ』って言うたら、黙って帰っていったわ」
「どんな男です?」
「別に、これと言った特徴は思い出さへんわね。ヤクザではなかったけど」
「年齢は?」
「四十くらい。ずいぶんくたびれた感じやったから、ひょっとしたらもうちょっと若いのかも知れんけど……あ、そうそう、ちょっとだけしか話さへんかったのに、強い匂いだけは覚えてるわ」
 そう言うとママはそのときの匂いを思い出しているかのように鼻の頭に皺を作った。
「どんな匂いです?」
「油の匂いよ。機械の。あたしのおじいちゃんもそうやったから分かるんやけど──その男、

か何かで働いてるのと違うかしら」

 ──つながった。鍋島は心の中で拳を握り締めた。



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