3ー①

文字数 3,108文字


 女性がそのはやる気持ちを胸に秘め、誰かを待っている姿というのはいいものだ。
 時計を見る。目の前を流れる人の波を見る。店の中ならその入口を見る。そして気を紛らわせるためにウィンドウ・ショッピングをしたり注文した飲み物を口にしたり──。
 やがて待望の相手を確認すると、たちまちその顔にとっておきの笑みが広がる。はたで見ていてもその幸福が伝わってくるようで、こちらには何の関係もないと分かっているのに、ついつい気にかけてしまうものだ。

 そのレストランにいた男たち全員の視線も、さっきからそのテーブルに釘付けになっていた。
 女性が一人で本を読んでいる。分厚い表紙を左手でしっかりと抱え、時折右手でページをめくる。そのしなやかな指の先には、薄いオレンジ系のエナメルが店内の明かりで柔らかい光を放っている。本の背表紙は遠くからは読みづらかったが、画数の多い漢字が窮屈そうに並び、何かの専門書と思われた。
 ときどき、彼女は腕時計を覗いた。そして店の入口へと続く通路に目をやるために顔を上げるたび、周りの男たちの胸は思わずときめくのだった。たとえ彼らの中に女連れがいたとしても、だからといってそれは何の歯止めにもなっていなかった。
 それほどその女性は美しかった。緩いウェーヴの栗色の髪を肩の少し上まで伸ばし、小さな卵形の顔を優しく包んでいる。はっきりと意志を持っているかのようなカーブを描いた眉に綺麗な二重の切れ長の瞳。筋の通った鼻は高すぎず低すぎず、絶妙の位置に頂点を定めていた。そして彼女の妖艶さを一手に引き受けていると思われる唇は、その原因が口紅の色だけにあるのではないことがその美しい形を見ても明らかだった。
 こんな女性と一度でいいから同じテーブルで──できれば二人きりで──食事をしてみたいものだと、レストランにいた男性は客と従業員の区別なく、全員がそう願ってやまなかった。同時に、こんな美人をさっきから一時間近くも待たせている非常識な人間はいったいどんなやつなのだろうと、皆は一様に考え始めていた。男であろうと女であろうと、とにかく許し難い。どんな用事で彼女を放ったらかしにしてるのか知らんけど、こんなええ女と食事する以上に大事な用件なんて、今の世の中に何があるって言うんや? 何なら今すぐ、こっちと変わってやってもええんやで──。

 やがて通路に一人の男が現れた。黒のジャケットの中にストライプのシャツを着て、クリーム色のパンツをはいたあまり背の高くない男だった。黄金色の照明に包まれた店内をゆっくりと見渡したかと思うと、こともあろうに、通路からは最も奥にある例の美人のテーブルへとまっすぐに進んでいく。そして美人の前に立つと顔を上げた彼女に向かって右手を上げ、「悪い」と言って片目を閉じた。
 店にいた男たちはそれぞれに自分の役割をこなしながらも、まさかという気持ちでこの光景を見ていた。しかしそのあと美人が本を閉じ、男に「何時だと思ってるの?」と言いながらも女神のような笑顔をたたえたのを見て、皆は心の底からがっかりした。……ちくしょう、なんて不届きで、そしてなんて幸せな男なんや──。
「もう食べたんか?」
 席に着いた幸せな男・鍋島はバツが悪そうに笑いながら目の前の美人の恋人・三上(みかみ)麗子に訊いた。
「そんなはずないでしょ、いつ来るか分からないのに」と麗子は恨めしそうに鍋島を見た。「いい加減に携帯持つ気ないの?」
「まあそう言うなって。それやったら早よ頼めよ」
 鍋島は振り返り、近づいてきたウェイターからメニューを受け取った。
 オーダーを済ませた後、鍋島は改めて麗子をじっと見つめながら重い溜め息を漏らした。
「どうかしたの?」
「……あとちょっとのとこで、マル被(被疑者)に逃げられた」
 麗子は何も言わずに頷いた。
「ガサ入れしてたとこに、当の本人が帰ってきてな。奥の部屋に潜んでおびき寄せようとしたんやけど──」
「見抜かれた」
「ああ。アホな話や」と鍋島は情けなさそうに笑った。「念のために制服を連れていって待機させとけって、課長に言われてたんやけどな。それを無視して芹沢と二人で行ったら、そんなことに」
「怒ったでしょ、課長さん」
「もちろんや。頭から火ィ吹いてた」と鍋島は頷いた。「ガサ入れの成果は上がらんし、マンションの住人には疑わしげな目で見られるし。実りのない一日やった」
 麗子は苦笑した。「それで今までお灸を据えられてたのね」
「そう。『おまえら仮にも巡査部長やろ。それを学校出たてのど素人みたいに──』って、いつもの台詞や」
「ありきたりな言い方だけど、いろいろ大変よね」
 鍋島は肩をすくめ、空いた椅子に置いたジャケットのポケットから煙草を取り出したが、店内が全席禁煙なのに気付いてまた引っ込めた。
「そっちは? 新学期、始まったんか」
「あさってからよ。後期から担当の講義が一つ増えて、気が重いわ」
 そう言うと麗子は脇に置いたさっきの本に目をやった。今度はその表紙の『比較憲法研究論』というタイトルがはっきりと読みとれた。

 麗子は市内にある大学の講師だった。数学者の父親の都合でアメリカのボストンに生まれ、高校までをそこで暮らした。十八歳の夏に帰国子女として京都の私立大学の法学部に編入学した。成績優秀な彼女は大学院に進み、四年もすると今度はドイツに留学した。
 そして一昨年、帰国した彼女は今の大学に講師として迎えられ、今ではその美貌も手伝って、すっかり人気講師となっていた。
 鍋島とは大学の同級生で、二人は十年のつき合いだった。とは言えこうして恋愛関係になったのはここ八ヶ月ほどのことで、長い間二人は性別を超えた正真正銘の親友同志だったのだ。鍋島がこれだけ美しい麗子とどうして九年以上もの間そんな関係が保てたのかはまるで疑問だったが、彼女のその男勝りの気性が、知り合ってすぐの鍋島に、彼女を恋愛の対象から外す手助けをしたようだ。だが最終的には鍋島は麗子を選び、彼女もそれを受け入れた。二人とも今となっては他の異性のことなど考えられないほどお互いを必要としていたが、つき合いはじめた最初の頃は、互いに相手をどう扱ったら良いのかずいぶん迷ったようだ。

「嫌やったら、辞めて今すぐ俺んとこに来るか?」
 鍋島は悪戯っぽい目をして言った。
「なに言ってんの」と麗子は笑った。「辞めたところで、研究だけでどうやって食べてくのよ」
「だから、俺の扶養家族に」
 麗子は肩を使ってため息をついた。「……あんたね。いまどきそういう考え――」
「分かってるって。冗談や」鍋島は言った。「そんなに稼いでへんし」
「笑えない冗談ね」
 麗子は鼻のふもとに皺を寄せて首を振った。

 二人の前にオードブルが運ばれてきた。グラスにワインが注がれ、しばらくの間二人は黙って食事をすすめた。
「あ、そうや」
 鍋島がおもむろに顔を上げた。
「何?」
「親父さんとオフクロさん、いつこっちに来られるって?」
「それが──」麗子の顔がたちまち曇った。「ちょっと分からなくなったの」
「何か都合の悪いことでもあったんか?」
「……あとで話すわ」
「何で。何があった?」
「だから、あとで話すから」
「すぐにそうやってもったいつけるんやな」
「もったいつけてなんかいないわ」
 鍋島はワインを飲みながら麗子を見た。納得していない顔だった。
「……そうじゃないの」
 麗子はテーブルの中央に置かれた一輪挿しの花に視線を落とした。
「……今話すには、勝也がそんなとこにいたんじゃ遠すぎる」
 そう呟いた麗子の唇が微かに震えているのを見て、鍋島は彼女が今、とてつもなく大きな重荷を背負い込んでいるのを感じ取った。

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