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文字数 1,922文字
翌日、二人は非番だった。芹沢は亮介と菜帆を署に連れていって香代に預け、その足で十三の歓楽街に行って上島が酒を飲んだ場所を捜し出す予定にしていた。昨日亮介にあんなことがあったので、彼は子供たちを刑事課に預けることに一抹の不安がなかったわけではないが、他に方法がないのでやむを得なかった。
午前十時を過ぎ、ようやく目を覚ました芹沢がダイニングに現れた。テーブルでは亮介と菜帆が鍋島の用意した遅めの朝食を摂っているところだった。
「鍋島は?」
芹沢はあたりを見回して言った。
「顔洗うとこ」亮介は無愛想に答えた。「どっか行くみたい」
「──ああ、そうだったな」
芹沢は思い出したように頷くと、カウンターに置かれた新聞を取って席に着いた。
「今日は警察には行かへんの?」
トーストにべったりと苺ジャムを塗りながら、亮介は眠そうに大欠伸をしている芹沢に訊いた。
「今日は休みや」
芹沢は関西弁(のつもり)のイントネーションでのらりくらりと言った。「せやけど、おまえらは行くんやで」
「なんで?」
「俺も鍋島も用があるからさ」
「……ふうん」
「何だよ、また何か良からぬこと考えてるんじゃねえだろうな」
そう言うと芹沢は新聞を広げながら向こう側に洗面所のあるドアを顎で示し、続けた。
「今度逃げたら、あの兄 ちゃんは間違いなくおまえを撃ち殺すぜ」
「……僕ら、ここにいたらあかん?」
「あかん」芹沢はまた下手くそな関西弁を使った。
「逃げたりせえへんから」
「おまえ、自分にまるで信用がねえってことを分かってねえようだな」
芹沢は新聞から顔を上げた。「人の言うこと聞いて、一日くらいおとなしくしてたらどうなんだ?」
「ここでおとなしくしてるから。ほんまに」
「聞き分けのねえこと言うんじゃねえよ」
「……菜帆が、嫌がってるんや」
「妹のせいにするのかよ? 卑怯な兄貴だな、おまえは」
「ほんまやて。朝起きてからずっと元気がなくて──泣きそうにもしてるし」
芹沢は菜帆に振り返った。しかし彼には菜帆が特別いつもと変わった様子には見えなかった。少し癖のある柔らかそうな髪を肩のあたりまで垂らし、張りのあるふっくらとした頬をほんのりと紅潮させて芹沢をじっと見つめている。濁りのない大きな瞳は見ているうちに吸い込まれそうで、これ以上見つめられると今度は芹沢の頬が赤くなりそうだ。
「泣いてなんかいねえぞ」
芹沢は言うとにやりと笑った。「それより、将来男を泣かせるかもな」
「……真面目に言うてんのに」
「駄目なものは駄目なんだよ。頼むから余計なことで俺をイライラさせるなよ」
亮介はがっかりして俯くと、トーストを四分の一に割って菜帆の手に持たせた。
ドアが開き、鍋島が入って来た。「おい、ロリコンのスケベ野郎」
「聞いてたのかよ。俺はロリコンじゃねえし」
芹沢は顔をしかめた。しかし鍋島の格好を見るとすぐに真顔になり、声の調子を落として言った。「……早く行った方がいい」
「そのつもりや」
答えた鍋島はダークグレーのスーツに黒いネクタイをしていた。「──って、スケベは否定せえへんのかぃ」
昨夜、麗子から連絡が入り、昨日帰国したとのことだった。
亡くなった母親は父親との結婚後アメリカでの生活が長く、告別式もボストンで済ませたらしい。そして一緒に帰ってきた父親が二、三日うちにもボストンに戻ってしまうとのことで、麗子は鍋島にできれば一度父に会いに来て欲しいと言った。
鍋島は当初、いくら父親がまたすぐに日本を去るからと言って、こんなときに麗子の言うまま会いに行っても良いものかどうか迷った。会えば必ず結婚の話が出るに決まっている。別にその話を避けるつもりはなかったし、むしろかねてから機会があれば麗子の両親に承諾を得たいと思っていたから、ちょうどいいと言えばそうなるが、母親の亡くなった今は時期として最も相応しくないのではないかと思ったのだ。
しかし、結婚の承諾を得る得ないの事情を抜きにしても麗子とは長いつき合いだ。ここはまず弔問に行くべきだと思ったし、それよりも電話での麗子の憔悴しきった声を聞いた鍋島は、とにかく自分が彼女のそばについていようと考えたのだ。
「夕方には戻って来るつもりやけど、あいつの様子次第ではどうなるか分からんから。そうなったら連絡するし、晩メシはおまえが何とかしてくれるか」
「構わねえさ。今日くらい外食したっていいんだし」
「ほな、頼むわ」
鍋島が部屋を出ていったあと、芹沢は食べる手を休めてじっと自分を見つめている亮介に言った。
「ほら、ぐずぐずしてねえで早く食っちまえよ」
午前十時を過ぎ、ようやく目を覚ました芹沢がダイニングに現れた。テーブルでは亮介と菜帆が鍋島の用意した遅めの朝食を摂っているところだった。
「鍋島は?」
芹沢はあたりを見回して言った。
「顔洗うとこ」亮介は無愛想に答えた。「どっか行くみたい」
「──ああ、そうだったな」
芹沢は思い出したように頷くと、カウンターに置かれた新聞を取って席に着いた。
「今日は警察には行かへんの?」
トーストにべったりと苺ジャムを塗りながら、亮介は眠そうに大欠伸をしている芹沢に訊いた。
「今日は休みや」
芹沢は関西弁(のつもり)のイントネーションでのらりくらりと言った。「せやけど、おまえらは行くんやで」
「なんで?」
「俺も鍋島も用があるからさ」
「……ふうん」
「何だよ、また何か良からぬこと考えてるんじゃねえだろうな」
そう言うと芹沢は新聞を広げながら向こう側に洗面所のあるドアを顎で示し、続けた。
「今度逃げたら、あの
「……僕ら、ここにいたらあかん?」
「あかん」芹沢はまた下手くそな関西弁を使った。
「逃げたりせえへんから」
「おまえ、自分にまるで信用がねえってことを分かってねえようだな」
芹沢は新聞から顔を上げた。「人の言うこと聞いて、一日くらいおとなしくしてたらどうなんだ?」
「ここでおとなしくしてるから。ほんまに」
「聞き分けのねえこと言うんじゃねえよ」
「……菜帆が、嫌がってるんや」
「妹のせいにするのかよ? 卑怯な兄貴だな、おまえは」
「ほんまやて。朝起きてからずっと元気がなくて──泣きそうにもしてるし」
芹沢は菜帆に振り返った。しかし彼には菜帆が特別いつもと変わった様子には見えなかった。少し癖のある柔らかそうな髪を肩のあたりまで垂らし、張りのあるふっくらとした頬をほんのりと紅潮させて芹沢をじっと見つめている。濁りのない大きな瞳は見ているうちに吸い込まれそうで、これ以上見つめられると今度は芹沢の頬が赤くなりそうだ。
「泣いてなんかいねえぞ」
芹沢は言うとにやりと笑った。「それより、将来男を泣かせるかもな」
「……真面目に言うてんのに」
「駄目なものは駄目なんだよ。頼むから余計なことで俺をイライラさせるなよ」
亮介はがっかりして俯くと、トーストを四分の一に割って菜帆の手に持たせた。
ドアが開き、鍋島が入って来た。「おい、ロリコンのスケベ野郎」
「聞いてたのかよ。俺はロリコンじゃねえし」
芹沢は顔をしかめた。しかし鍋島の格好を見るとすぐに真顔になり、声の調子を落として言った。「……早く行った方がいい」
「そのつもりや」
答えた鍋島はダークグレーのスーツに黒いネクタイをしていた。「──って、スケベは否定せえへんのかぃ」
昨夜、麗子から連絡が入り、昨日帰国したとのことだった。
亡くなった母親は父親との結婚後アメリカでの生活が長く、告別式もボストンで済ませたらしい。そして一緒に帰ってきた父親が二、三日うちにもボストンに戻ってしまうとのことで、麗子は鍋島にできれば一度父に会いに来て欲しいと言った。
鍋島は当初、いくら父親がまたすぐに日本を去るからと言って、こんなときに麗子の言うまま会いに行っても良いものかどうか迷った。会えば必ず結婚の話が出るに決まっている。別にその話を避けるつもりはなかったし、むしろかねてから機会があれば麗子の両親に承諾を得たいと思っていたから、ちょうどいいと言えばそうなるが、母親の亡くなった今は時期として最も相応しくないのではないかと思ったのだ。
しかし、結婚の承諾を得る得ないの事情を抜きにしても麗子とは長いつき合いだ。ここはまず弔問に行くべきだと思ったし、それよりも電話での麗子の憔悴しきった声を聞いた鍋島は、とにかく自分が彼女のそばについていようと考えたのだ。
「夕方には戻って来るつもりやけど、あいつの様子次第ではどうなるか分からんから。そうなったら連絡するし、晩メシはおまえが何とかしてくれるか」
「構わねえさ。今日くらい外食したっていいんだし」
「ほな、頼むわ」
鍋島が部屋を出ていったあと、芹沢は食べる手を休めてじっと自分を見つめている亮介に言った。
「ほら、ぐずぐずしてねえで早く食っちまえよ」