1ー②

文字数 4,337文字

 実際その通り、その男は芹沢を知っていた。
 インターホンで話したときに芹沢が自分の声に気づくのではないかと心配したが、わざと早口で手短に話したのが良かったのか、彼には分からなかったようだ。それに、二言三言で自分の正体が分かるほど近い存在でもない。
 受話器の向こうでは鍋島の話し声もしていた。子供たちの世話のために、彼もここ詰めているのは分かっていた。
 エレべーターが到着し、ドアが開いた。先に乗っていた住人が降りるのをコールボタンを押して待ち、空になるとゆっくりと乗り込んだ。自分にはちょっと派手かも知れない茶色やオレンジ色の暖色系のドット柄シャツを着て、綺麗なシルエットのキャメルカラーのパンツをはいていた。左手に大きな紙袋を下げて、明らかに宅配便の配達員のいでたちとは違っている。
 ドアが閉まると彼はごく自然に上を向き、到着階を示す数字の点滅が移動するのを眺めた。
 陽灼けした肌に気の強そうな眉が凛々しく、逆に伏し目がちの瞳と長い睫毛がナイーヴな感じを受ける三十くらいの男だった。
 やがてエレべーターが七階に到着してドアが開くと、彼はいったんは左に進んだが、部屋の番号が目指す七〇六号室とは逆に小さくなっていくのに気づき、逆戻りして今度は右を行った。そして一番奥の部屋の表札に芹沢の名前を確認した彼は、一つ軽い深呼吸をしてインターホンのボタンを押し、カメラと覗き窓の両方から自分の姿を確認される恐れのない位置まで下がった。

 廊下を通してダイニングにインターホンの音が響いたのを聞き、ドアのすぐ手前に立っていた芹沢は覗き窓を見た。案の定、相手の姿は見えなかった。
 芹沢は後ろを振り返り、ダイニングの戸口に立っている鍋島に首を振った。鍋島は頷き、戸口の向こうへ消えた。
 芹沢は真っ白いワークシャツの裾を引き上げ、ジーンズの腰に突っ込んでいた拳銃を抜いた。亮介たちの身の安全を考え、署から携帯を許されたリヴォルヴァーだった。ただし、中は空砲だ。銃弾が入っているのは、戸口の向こうに隠れている鍋島が握っている拳銃だ。彼の射撃の腕前は、芹沢より数段優れている。
「はい」
 芹沢は言い、ぴったりとドアに背をつけてロックを外した。
 そしてゆっくりと細めにドアを開け、その隙間から男の足が見えると同時に一気に開き、外に飛び出すと拳銃を胸の前に突き出した。
「うわ──!」
 目の前に銃口を突きつけられた男は声を上げ、後ろに飛び退いた。
「あ──」
 芹沢は男を見てぽかんと口を開いた。彼もまた別の意味で驚いていた。
 そして男の怯えきった顔を呆然と見つめていたかと思うと、そのうち笑い出した。
「……あんたか」
「……な、何なんや、その物騒なもんは」
 男は言った。持っていた紙袋は通路に放り投げてあった。
「悪りぃ。ちょっと別人と間違ってさ」
 芹沢は拳銃を腰に突っ込み、苦笑いした。「どうりで聞いたことのある声だと思ったぜ」
「こんな朝早うから宅配便が来るなんてことないやろ」
「だからおかしいと思ったんだ」
「何や自分、誰かに狙われてるんか?」
「ちょっとな」と芹沢は片目を閉じた。「この前

女に、男がいたらしい」
「……真面目に心配してるのに」
「堅気に心配されるようになっちゃ、俺もいよいよヤキが回ったってことだな」 
 芹沢は笑って言うと顎を上げた。「上がってよ。廊下の向こうで、鍋島も拳銃構えて待ってるから。ちなみにそっちは実弾入りだぜ」
「……ほんまに物騒なやつらや」
 男は溜め息をつき、芹沢のあとに続いた。

 男の名前は萩原豊(はぎわらゆたか)と言い、鍋島の大学の同級生だった。芹沢とも鍋島を介して何度か顔を合わせたことがあり、それで芹沢は彼の声に聞き覚えがあったのだ。
 部屋の中に入った芹沢は廊下の向こうに言った。
「鍋島、萩原サンだよ」
「ええ? 帰ってきてたんか?」鍋島が顔を出した。
「こっちへは出張?」芹沢が訊いた。
「いや、転勤してからずっと忙しかったから、遅ればせながらの夏休みや」
 萩原は言うと真新しい部屋を見回した。「それにしても自分、頑張ったな──これくらいの物件やったら、なんぼがっぽり財産もらっても、借り入れもそこそこの額になったやろ」
「もうそんな情報が耳に入ってるわけ?」
 と芹沢は萩原に振り返った。「それに、すぐにそう考えるなんて、さすがは融資係長さんだ」
「職業病や。自分らが正体の分からん来訪者に向かってすぐに拳銃を突きつけるのと同じや」
 萩原は関西系の大手都市銀行・興和(こうわ)銀行の行員で、ワシントン支店や本店営業部といった重要部署を経験したあと、二ヶ月ほど前から博多(はかた)支店勤務になっていた。博多へ行ったのは、彼のスピード出世ぶりを妬んだ先輩の陰湿な嫌味に耐えかね、ついにその先輩を殴ってしまったからだ。それが会社の外でならたいした問題にならなかったのだろうが(何かと先輩風を吹かせたがる相手が後輩に殴られたことをわざわざ表沙汰にするとは思えない)、彼がその相手を殴ったのは銀行の中で、しかも上司や同僚の見ている前だったのだ。その結果、彼はこの七月から福岡の独身寮で独り暮らしをしている。
 芹沢に続いてダイニングに入った萩原を、拳銃を直してテーブルに戻っていた鍋島が迎えた。
「突然やな。連絡ぐらいしてくれたら良かったのに」
「何かと忙しかったしな。急に休みが取れたんや。それでも何回かおまえんとこに電話したんやぞ。でもずっと留守電になってたし」
 そこまで言うと萩原は急に深刻な表情になった。「……それより、麗子は気の毒なことやったな」
「……あ、聞いたか」
「ああ。三日ほど前に真澄ちゃんから連絡が入ったんや。俺も、明日にでも弔問に行ってこようと思てる」
「ここのことは誰に?」芹沢が訊いた。
「純子ちゃんや。鍋島と連絡が取れへんかったし、実家に電話して」
「こんな時間に宅配便なんかに成りすますから、てっきり怪しいやつだと思ったぜ。巧妙にも、福岡からなんて言ってさ」
「福岡からには違いないやろ?」
 萩原は言うと持参した紙袋を指差した。「ちゃんと土産もあるし。明太子や。

に聞いてた店のやつ」
「お、やった」芹沢は素直に喜んでいた。
「それから、純子ちゃんに聞いたけど、自分らガラにもなく子供を預かってるんやて? しかも二人も」
「ああ、そっちの部屋にいるよ」と芹沢は和室の引き戸を見た。「チビの方が、ゆうべから熱出して寝込んじまってるんだ」
「熱? 医者には診せたんか?」
「ゆうべ往診に来てもらって、今は落ち着いてる」
「熱は何度?」
「三十七度四分」
「それくらいやったらもう安心やな」萩原は頷いた。「それで、自分ら今日は仕事は? 休みか?」
「いや、俺だけが行く」と鍋島が答えた。「いくら何でも、熱があるのに署に連れて行くわけにもいかんし、芹沢が残るんや」
「それやったら、俺が引き受けるよ」萩原は言った。
「おまえが?」
「ああ。純子ちゃんの言うには、おまえらが子供二人に振り回されてじたばたしてるってことやったから。今日一日くらいやったら俺が代わってやろうと思てな。それでこんな早うから来たんや。まさか熱出してるとは思てなかったけど」
「でも──」
「大丈夫や。子供に関しては俺の方が経験積んでるから」
 萩原はちょっと得意げに言った。実は彼は一児の父親で──と言っても二年前に離婚していたが──六歳になる美雪(みゆき)という娘が別れた妻に引き取られていたのだった。
「どう思う?」芹沢は鍋島に振り返った。「悪いよな」
「ああ。元気やったらまだしも、寝込んでることやし」
 鍋島はコーヒーのカップを下ろして萩原を見た。「おまえかて、せっかく帰ってきたんやったら、いろいろ用事があるのと違うんか。それこそ美雪ちゃんに会うとか」
「ええんや、休みは八日もあるんやし。美雪にもいずれ会うことになってる」
「ほんまにええんか?」
「ええから、任せろよ」
 萩原は自信たっぷりに言ったが、すぐに顔を曇らせて二人を見た。
「それとも──もしかしてここを誰かに狙われてるとかか? さっき俺を間違えたみたいに」
「そうじゃねえよ。ありゃとんだ見当違いだった」
「それやったら引き受けるよ」
「分かった。あんたがそこまで言ってくれるんだったら、お言葉に甘えて頼むよ」芹沢は言って鍋島を見た。「構わねえよな?」
「ああ。ただし言うとくけど、兄貴はちょっとひねくれてるぞ。寝込んでる妹は耳が聞こえへんし喋れへん。美雪ちゃんみたいに扱い易いかどうかは保証できひんからな」
「俺にとって美雪は、それほど扱い易いわけでもないけど」と萩原は苦笑した。「とにかく、引き受けた以上は今日一日は何とかするよ。おまえらに面倒掛けんでええように」
「頼むわ」

 和室の引き戸が開き、亮介が俯いたまま目をこすりながら出てきた。テーブルの前まで来る途中で顔を上げ、二人の刑事の他にもう一人、見たことのない男がいるのに一瞬びくっとしたように肩をすくめて立ち止まった。
「菜帆はどうや?」鍋島が訊いた。
「……まだ寝てる」
 亮介はぼんやりと答えた。その視線は萩原に向けられたままだった。
 その亮介に芹沢が言った。
「今日一日はこの人がおまえらと一緒にいてくれることになったからな。言うこと聞いて、おとなしく待ってるんだぞ」
「……だれ?」亮介は不安げな表情で芹沢を見た。「施設のひと?」
「違うよ、俺の友達や。俺らには仕事があるやろ。けど菜帆がまだ治ってへんから警察にも行けへんし。せやから今日はおまえと一緒にいてくれるって」鍋島が説明した。
「ふうん」
 亮介は曖昧に頷き、不審そうに萩原を見た。
「よろしくな、坊主」
 萩原は頬杖を突いたままで亮介に微笑み掛けた。
 亮介は何も言わずに萩原をじっと見つめていた。しかしやがてぷいと顔を逸らすと彼のそばを通り過ぎ、ドアを開けて出ていった。
 萩原はぽかんと口を開けてその後ろ姿を見送った。そしてドアが閉まると同時に鍋島と芹沢に振り返り、眉間に皺を寄せて言った。
「何やあれ?」
「な、ひねくれたガキだろ?」
 芹沢は笑っていた。
「やめるなら今のうちや」
 鍋島も肩をすくめてコーヒーを飲んだ。
 萩原は亮介が出ていったドアをちらりと見た。そして気を取り直してシャツのポケットから煙草を一本抜き取り、小さく笑いながら呟いた。
「まあ、あの程度やったらそう扱いにくいこともないな」
「だといいんだけどな」
 芹沢が言った。

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