2ー①

文字数 5,522文字

 三十分後、鍋島と芹沢は十三署の交通課を訪れていた。
「──今のところ、誤って転落したものと考えています」
 中村は言った。さっきの電話での言葉遣いとはまるで違っており、電話の応対に出た鍋島とその相棒の芹沢が、自分より年下でありながら上の階級にあると知って態度を変えたのだった。「巨漢」という言葉がぴったりの警官で、着ている制服一着分の生地で自分のだったら二着は作れるだろうと鍋島は考えた。芹沢は彼が府警の柔道大会に出場している写真を広報誌か何かで見たことがあった。年齢は確か、芹沢より四つほど年上だ。
「即死ですか?」鍋島が訊いた。
「ええ。ちょうど下を通り掛かった大型トラックにはね飛ばされましてね。十メートル近くも飛んで、首の骨が折れてましたよ」
「酒を飲んでたとか?」
「かなり多量に。ですから、現時点では誤って落ちたものという見方が有力です。最初は自殺の線も考えたんですが、身元が割れた今となっては、その可能性は極めて低くなったかと」
「でしょうね」
「しかし、こんな結末はそっちにとってはちょっと不本意でしょうね」
「まあね」と芹沢は小さく笑ったが、すぐに真顔になって中村をじっと見た。
「で──事故当時は上島は一人だったんですか?」
「と言いますと?」
「いえ、今そちらが、やつがちょうど下を通り掛かったトラックにはねられたとおっしゃったでしょう。確か時刻は午前五時頃ということですし、その時間にその現場──木川(きがわ)でしたっけ、そこを通る車はまだそんなに多くはないと思うんです。だからそんな風にタイミング悪く車が通ってきた時を見計らったように落ちるのも、何だか不自然な気がして。しかも大型トラックとくればね」
「つまり、誰かに突き落とされたと?」
「あるいは自分から進んで落ちたか。しかしその可能性は少ないというのは今さっきもおっしゃいましたし、俺たちも同意見です」
「う……ん」
「もちろん、これは推測ですよ。偶然だったという見解を否定しているものではありません」
「しかし、トラックの運転手は歩道橋には上島一人やったと証言しています。まあ、車は五十キロのスピードが出ていたし、ましてや運転手もじっと見ていたわけではありませんので、断言はできませんが。事故を起こしたばかりで興奮もしていますし」
「杏子とは一緒やなかったってことか」鍋島がひとりごちた。
「他に目撃者は?」
「時間が早いですからね。今のところ誰もいないんですよ」
「そうですか」芹沢は鍋島に振り返った。「仕方ねえな」
 鍋島も納得したような諦めたような、何とも複雑な表情で頷いた。
「では、こちらの処理が済み次第、事故状況を遺留品ともどもそちらに送りますので。一両日中にはお渡しできるかと思います」
「遺留品は、できれば今見せていただくことはできませんか? もちろん、全部とはいいません」
「ちょっと待ってください」
 中村はソファーを立って自分の席と思われるデスクの前まで行き、書類箱の中から紙切れの入ったビニール袋を持って戻ってくると二人の前のテーブルに置いた。
「これです」
 袋の中に入っていたのは、新幹線の切符だった。
「この他には?」鍋島は中村を見た。
「あと、裸の現金が少々。二万円ほどでしたよ」
 鍋島は切符を覗き込んだ。「新大阪─新横浜間。指定券や」
「いつのだ?」芹沢が訊いた。
「今日の午前九時三十二分発でした。残念ながら、彼は乗れませんでしたけどね」中村が答えた。「あと、切符の端っこを見て下さい。走り書きがあるでしょう」
「走り書き?」
 言いながら鍋島は切符を見つめた。「ああ、これね。『十二日、1:00PM、Hニュー横浜』やて」
「Hってのは、ホテルの略だろうな」
「そこで上島は杏子と落ち合うつもりやったんかも」
「……今からじゃちょっと間に合いそうもねえな」
 芹沢の言葉に鍋島は腕時計を覗き込み、顔を上げると彼をじっと見て言った。「どうする? 神奈川県警本部に協力を要請するか? 俺ら、わりと嫌われてるけど」
 芹沢は口許だけで微かに笑った。「……分かってるよ」

 それから芹沢は中村に「ちょっと失礼」と断って席を立ち、少し離れたところの空いたデスクに寄り掛かって懐から携帯電話を取り出した。
 ボタンを押して耳に当て、ソファーの二人にちらりと振り返った。
「鉄道警察ですか?」中村は鍋島に訊いた。
「いいえ、違うと思いますよ」
 鍋島はとぼけて答えた。
 やがて中村は別の用事ができたらしく、鍋島に断りを入れるとその場を離れて行った。
「──あ、俺」芹沢の電話に相手が出た。「……ああ、元気」
《──どうしたの? めずらしいわね》
 電話の相手は神奈川県警の一条みちる警部で、芹沢の遠距離恋愛の相手だった。
《非番──なわけないわね。だったらこんなに朝早くからかけてこないもの》
「そう、仕事中。ちょっとおまえに頼みたいことがあってよ」
《面倒な話はやめてよ。こっちだって忙しいんだから》
「ちっとも面倒じゃねえよ」
 芹沢はソファーの前に戻って鍋島からさっきのビニール袋を受け取り、中の切符を見た。
「一時までにホテルニュー横浜に行って、そこに現れるはずの女の身柄を拘束して欲しいんだ」
《はぁ?》
 一条はとんでもないと言った声を出した。《冗談言わないでよ。どういうこと?》
「ゆっくり説明してる暇ねえんだ」
《こっちだって、ゆっくり聞いてる暇なんてないわよ》
「そう言うなよ。今からその女の写真をFAXで送るから。そっちのFAX番号、何番だ?」
《ちょっと、無茶言わないでって。わたしは忙しいって言ってるでしょ──》
「三か月ほど前、俺は二週間も休みがなかったくらい忙しかったけどな。誰かさんのおかげで」
《何よ、今頃恩を売るわけ?》
「別に。それから、その後で行った出張、日帰りのはずが、誰かさんが駄々こねるから泊まりになっちまった」
《……なんて性格。そういうとこ、ホント嫌い》
「そりゃ残念。俺はおまえが好きなのに」
 電話の向こうで一条が溜め息をついた。
 電話の様子を伺いながら、鍋島はにやにや笑っていた。
「──な、頼むよ。今から俺たちが課長に出張許可もらってそっちへ行ってちゃ間に合わねえだろ。もしかしたらその女、ヤクザに追われてるかも知れねえんだ。あと、得体の知れないストーカーにも」
《そんな女なら、横浜にもいくらだっているわ》一条はにべもなく言った。《どうせ組員の女なんでしょ》
「七歳と三歳のガキがこっちで待ってるんだよ」
《ついでにヒモみたいな亭主も待ってるんじゃないの? だったらこの際だし自由にしてあげれば?》
「な、みちる?」
 芹沢はちょっと媚びるような声で言った。「おまえって、そんなに冷てえ女だったのか?」
《その手には乗らないわ。わたしは仕事で言ってるのよ。それに、本当にそうして欲しいのなら、こんな強引なやり方はよしてよ》
「それは分かってる。でも時間がねえんだ。それに、子供が置き去りになってるってのは事実なんだよ。今は俺が預かってるからいいけど、このままだと施設に送られちまうんだ。しかも、二人別々の施設に」
《あなたが預かってるって?》
「ああ、昨日からだけど」
《……本当かしら?》
「嘘だと思うんなら、俺んとこの課長にウラを取りゃいいさ」
《できないって分かっててそんなこと言うのね。──いいわ、そこに鍋島くんもいるんでしょ?》
「いるけど」と芹沢は鍋島に振り返った。
《代わって》
「何で」
《いいから代わりなさいよ。でなきゃ今すぐこの電話切るわよ》
 芹沢は黙って鍋島に電話を差し出した。鍋島は「俺?」と言うとちょっとためらいながら電話を受け取ったが、耳に当てるなり明るい声を出した。
「──あ、どーも警部、おはようございますぅ」
《……ぶっ飛ばすわよ、あんたたち二人とも》
 一条は溜め息混じりで言った。《貴志が子供たちを預かってるって、本当?》
「ああ、ほんまや」
《食事なんかはどうしてるの?》
「全部俺。俺もあいつの部屋にいるから」
《そうか。だったら安心よね》
「無茶言うてるって分かってるよ。でも緊急事態なんや。頼むわ」
《……ちょっと考えちゃうわね。わたし一人で行ってどうなるものでもないし、どうせなら何人か連れて行かなきゃならないでしょ。それがちょっとね》
「手続上の問題か」
《ええ。いくら何でもそこを勝手にできるまでの権限はわたしにはないもの》
「警部さんでもあかんか」
《ただの階級よ。あなたが一番良く知ってるはずだけど》
 自分と彼女のあいだでは平行線だなと考えた鍋島は、空いた手の人差し指で芹沢に手招きした。ソファーに座っていた芹沢は身を乗り出した。
「──あ、一条ちょっとごめん、芹沢に代わるわ」
《どうかしたの?》
「ちょっと用事ができた。それに、あんまり喋ってるとカレシがおかんむりやし」
「何言ってんだよ」
《何言ってんのよ》
 二人に同時に言われながら、鍋島は電話を返した。芹沢は受け取ると再び耳に当てた。
「嘘言ってねえだろ? 俺」
《それは分かったけど──》
 ここが落としどころだと芹沢は考えていた。一条も考えているようだった。
 やがて彼は決めゼリフを言った。「……やっぱり、駄目か」
《……分かったわ。女の写真、FAXで送って》
「悪りぃな」
 芹沢は急に笑顔になると、鍋島に振り返って親指を立てた。
《で、その女はそのホテルに宿泊してるの?》
「いや、分からねえ。こっちで追ってた男の持ってた新幹線の切符にそういうメモが残ってて、どうやらその女とそこで落ち合うつもりだったみてえなんだ」
《暴力団やストーカーに追われてるっていうのは?》 
「それも詳しい調べはついてねえんだけどよ。その女が何か持ってるのかも知れないし、ただ捜されてるだけかも知れない」
《麻薬?》
「いや、全然分かってねえんだ」
《何だかよく分からない話ね》と一条は呆れたように言った。《いいわ、とにかく女の名前や略歴なんかも一緒に送ってよ》
「ああ、そうする」
《で、もちろん結果を急ぐのね?》
「できればすぐにでも」
《鍋島くんに言っといてよ。今度会ったときにはたっぷりとお礼をいただくからって》
 芹沢は鍋島に振り返った。「おい、借りは返せってさ」
「何なりと、お気に召すまま」鍋島はゆっくりと頷いた。
「何でもするってよ」芹沢は一条に言った。
《そう、楽しみね》一条は嬉しそうだった。《じゃあFAX番号言うから控えて》

 番号を控え、電話を切った芹沢は早速交通課のFAXで田所杏子の写真と略歴を一条のいる神奈川県警山下(やました)署へ送った。それから戻ってきた中村から事故状況についていくつかの確認を取っているとき、何気なく袋の切符を見つめていた鍋島が声を上げた。
「あれぇ?」
「何だよ、変な声出すなよ」
「このチケット、殺しのあった日よりも前に発行されてるぞ」
「ほんとかよ?」
「間違いない。発行日は九月二日。大阪駅や」
「どういうことだ?」
「上島にとって、今日の横浜行きは西川殺しの結果の逃避行やなかったってことや」
「じゃあ何のためなんだ」
「そこまで分かるか」鍋島は肩をすくめた。「横浜に何かあるんやな。あいつの身内でもいてるんと違うか」
「あ!」
「何や、おまえもか」
「スナックの親父が言ってたことを思い出したんだよ。西川の話し方が標準語だったって」
「それがどうしたんや」
「そのチケット、もともと西川のものなんじゃねえか?」
「西川の?」
 鍋島はじっと芹沢を見つめて考えを巡らせた。「そうか。つまり、西川が杏子と横浜で落ち合う約束をしてたんか」
「そうだよ。やつは杏子と一緒に地元へ帰るつもりでいたんだ。だからおそらく杏子にもチケットを渡してるはずだぜ。それを知った上島は頭に来て、あの夜西川からこれを取り上げたんだ。それだけじゃ足りなくて、ついでに殺っちまったんだけど。そして上島は今朝、西川の代わりに横浜へ行くつもりだった。けどその前に酒を飲み過ぎて、杏子にじゃなくて、自分が始末した西川の方に会いに行く羽目になったんだ」
「いや、西川は杏子と一緒に行く手筈になってなかったと思うで。一緒やったら待ち合わせ場所や時間をメモしとく必要なんかないはずや」
「そうか。じゃあ杏子はもうとっくに横浜へ行ってるのか」
「……やっぱり、杏子の気持ちは西川に移ってたんやな」
 鍋島は溜め息をついた。「上島のマンションで暮らしてたから、あいつと一緒やとばっかり思てたけど」
「女なんてそんなもんさ。うっかり信じてるとひでえ目に遭う」
 と芹沢は鼻白んだ。「どっちにしたって、亮介と菜帆は放っとかれる運命にあったんだな」
「あの──」中村が遠慮がちに口を挟んだ。
「あ、失礼しました。ついこっちの話になってしまって」
「いえ、それは構わないんですがね。話を聞いてると、この切符は上島が殺した相手から取り上げたものやないかと考えておられるんでしょう。ということは、この切符にその被害者の指紋も付いてるかも知れませんよ」
「そうか。そうなりゃ上島が西川を殺ったって証拠の足しにはなるかも」
 芹沢は中村を見た。「あの、すいませんがこの切符──」
「ええ、大至急もう一度鑑識に回しておきますよ」
 と中村は頷いた。「もちろん、結果は西天満署に報告するってことで」
「申し訳ありません」芹沢はぺこりと頭を下げた。

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