1-②

文字数 4,303文字

「よう、悪いな」
 島崎は言った。一係の主任だったが、刑事と言うよりもむしろ、新興住宅街の中に出来た役所の出張所の職員のような、人の良さそうな長身の男だった。

の連中、帰ったらしいな」
「ええ。たかが男の転落死体や。そんなクソみたいな事件は自分らの出番やないってことでしょ」鍋島が答えた。
「まあええ。あいつらの使いっ走りをやらされるよりはマシや」
「向こうに言わせりゃ、その逆なんじゃねえの」芹沢が言った。
「と言うと?」鍋島は芹沢を見た。
「きっともう俺たちとは関わり合いになりたくねえんだぜ。三ヶ月前のことがあるからな」
「本部事件の捜査であっちの顔を丸潰しにしたからか」と島崎。
「ええ。しかも今回は逆に、事件かどうかも疑わしい死体のことなんかで、また所轄ごときにコケにされてたまるかってとこでしょ」
「なるほどな」
 島崎は納得したような笑みを浮かべた。そして二人の背中越しに路地を覗いた。
「──で、 その見捨てられた死体はあれか」
「四十万近い金が懐に入ったままでした」
「そんなことやろうと思たで。路地裏のゴミ箱の間で死んでる男なんて、どうせ堅気やない。身元は?」
「金しか持ってなかったんで、それはまだ」
「やれやれ。チンピラの転落死体なんて、誰もありがたがらへんはずや」
「──あの、巡査部長」
 後ろから声を掛けられ、三人は同時に振り返った。すると、さっき野本譲に付き添っていた制服警官が、今度は四十代前半の痩せた背の低い男を従えて立っていた。
「あ、主任もこられてたんですか」
「ああ、来てたよ」
 島崎はなぜか憮然として答えた。
「僕はてっきり巡査部長のお二人だけかと──」
「俺が来てたらマズいか?」
「いいえ、そんな」と制服警官は慌てて手を振った。「確か主任は今朝署内でお会いしたとき、宿直明けやとおっしゃってたので──」
「死体が見つかったら、そんなことはたちまち関係なくなるんや」と島崎は吐き捨てた。「そんなことくらい分からんでどうする? 自分、何年お巡りをやってるんや? まさか警察に労組があるなんて思てるんと違うやろな」
「いえ、そんな……」
 普段は飄々として滅多に後輩を叱りつけることのない島崎に些細なことで辛辣な注意を受け、制服警官はさっぱり訳が分からないといった表情で言葉を詰まらせた。
「まあ主任」と鍋島は苦笑しながら二人の間に入った。「で、そちらの方は?」
「あ、この方ゆうべ、ご自分の店であの亡くなった男性らしき人物が別の男と一緒にいるのを目撃されたそうです」
 三人の刑事は男を見た。グレーのスエットスーツにぼさぼさの髪をして、明らかに寝起きだと分かる眠そうな目をしている。浅黒い肌はずいぶんくたびれており、それはおそらく酒のせいなのだろう。年齢は四十代半ばと思われた。
 制服警官は男を引き合わせると三人に向かって敬礼し、そそくさと立ち去った。
「──まったく、あいつらはああやってわざとおまえらを区別して呼んでるんや」
 島崎は首を捻りながら言った。
「いいんですよ」
 鍋島はさらりと言うと中年男に振り返った。「どうも」
 中年男は黙って鍋島に会釈をした。
「ほな、ここは任せるわ。俺はちょっとホトケさんを拝んでくる」
 島崎が路地を入っていき、残った二人は中年男に向き直った。
「早速ですが、お名前をお聞かせくださいますか」
井出(いで)和之(かずゆき)と言います」
「井出さん、死んでいる男性の顔をどうやって確認されました?」
 鍋島はいくぶん厳しい目つきで男をじっと見つめた。こちらから聞き込みに行ったわけでもないのに、自ら進んで証言を申し出てくる連中ほど当てにならず、また怪しい人間はいないと彼は考えていたのだ。
「ああ、私、あの上のスナックの者なんです」
 井出は言うと、死んだ男が足を向けているビルを指差し、そのすぐ上の半開きの窓を見上げた。
「一時間ほど前にパトカーのサイレンで目が覚めて、今さっきあの窓から下を覗いたら人が死んでて警察が集まってて──よう見たら、ゆうべうちの店で閉店近くまで飲んでたお客っぽい人やったからびっくりして」
「そうですか」と鍋島は頷いた。「ご自宅もあそこなんですか?」
「いえ、自宅は天王寺(てんのうじ)なんですがね。ゆうべは店を閉めた後にこの近所の友達から麻雀に誘われててね。終わったのが明け方の四時頃やったんで、家に帰る前に仮眠を取ろうと、ここへ戻ったんです」
「そのときはあの死体にお気づきになりませんでしたか?」
「いいえ、まったく」井出は首を振り、顔を強張らせた。「ということは、あの人は一晩中あそこに?」
「まだ分かりません。で、あの男性がゆうべあなたのお店で一緒だった相手というのは?」
「ああ、そうでした」と井出は頷いた。「……何と言うか、粗暴な感じの男でしたよ。ヤクザものでしょうな」
「どんな人相やったか、覚えてらっしゃいますか」
「四角うていかつい顔で、茶色い色の入った眼鏡を掛けてよりました。それから、右の目尻にこれくらいの傷がありました」
 井出は右手の親指と人差し指で二センチくらいの幅を作った。
「ヘアスタイルとかは?」
「オールバック。きつい整髪料の匂いがしてました」
「年齢はどれくらいでした?」
「三十代の半ばから四十までやないかな」
「体格は」
「背広を肩に羽織ってたから、よう分かりませんけど……そうやねえ、引き締まった身体って感じがしました。背は特に高くもなく、低くもなくと言うところです。ちょうどおたくら二人の中間くらいの背丈やったと思います」
「170㎝ちょっとってとこか」と芹沢が呟いた。
「二人はどんな様子でしたか」
「そらもう、長いこともめてましたよ」
「どう言った内容か分かりますか?」
 井出は難しそうな顔をして首を傾げた。「──私も、なるべくお客の話は耳に入れんようにはしてるんですがね。ゆうべのあの二人の話はちょっとこじれてるみたいやったから、つい……しかもカウンター席の端で、私のすぐそばでやってましたし。どうやら女絡みのもめごとみたいでした」
 鍋島は反射的に芹沢に振り返った。芹沢は憮然として「いちいち見るな」と言った。
「具体的に覚えてらっしゃるような言葉は?」
「相手の男が『横取りしやがって』とか『どこに隠した』とか『俺に黙って二人で逃げるつもりやろ』とか言うてました。どうも三角関係ですね、あれは」
「つまり、死んだあの男性が相手の男の妻か恋人に手を出したということですか」
「ええ、そんな感じでした。でもあの男はそれを否定してましたけどね。『そっちが勝手にそう思ってるだけや』とか言うて」
「最後はどうなりました?」
「結局お互いの言うことを認めようとはせんまま、とうとうヤクザ風の男があの男の胸倉を掴んで椅子から引きずり下ろしたんです。それでもあの男は平気で、『そんなことしたら、ますますあんたの立場が悪くなるだけや』って言い返してました。何か弱味でも握ってたんと違うかな」
「女性の名前や、あるいは誰かの身元が判るようなことは何か言ってましたか?」
「いえ、どういうわけかまったく。私も聞いてるうちにどんな女なのか知りたくなったぐらいですよ。きっと、お互いわざと言わんようにしてたんでしょう。ヤクザ風の男の方は、あの男の口から女のことがひとことでも出ようもんなら、たちまち殴り掛からんばかりの剣幕でしたから」
「お店を出ていったのは二人同時でしたか」
「ヤクザ風の男が先でした。あの男に掴みかかったとき、私が思わず止めに入ったんですよ。店を滅茶苦茶にされたらたまったもんやないですからね。するとその男、私をきっと睨みつけましてね。私も怖かったけど、視線だけは逸らさずにいたんです。そしたら急にあの若い方の男を突き飛ばして、覚えてろ、みたいなこと言うて出ていきました」
「それは何時頃でした?」
「ええっと……十一時前後やったかな」
「残ったあの男性は何時頃までお店に?」
「それから一時間ほどして帰りました。『日がかわってしもた』って言うてたから」
「だいぶ酔ってました?」
「そうですねえ……泥酔とまでは行きませんでしたが、ほろ酔いでもなかったように思います。先の男が帰ってからも、ずっと飲んでましたから。ビールでしたけど」
 鍋島は頷いた。「井出さん、もう一度その相手の男の顔を見たら分かりますか?」
「ええ、分かると思いますが……それはどういうことです?」
 井出の顔にたちまち不安の色が浮かんだ。
「我々にご同行願って、お見せする写真の中にその男がいるかどうか確認していただきたいんです」
「今からですか?」
「ええ、できれば」
「見つからない場合は?」
「似顔絵か、モンタージュ写真の作成にご協力いただくことになります」
「昼過ぎに末の娘を幼稚園に迎えに行くことになってるんですが」
「それまでには済ませるようにします」
「私も、はっきりとは覚えてないし……ほら、さっきも言うたようにその男、眼鏡掛けてましたから」
「ええ、それは分かってます」と鍋島は微笑んだ。「ただ、仮にその男があの男性が死んだことに何らかの関係があったとしますよ。二人の間にトラブルがあり、それがこじれてあなたの店で口論をしてたってことは、あなたを始めとしてその場に居合わせた全員が知っているということでしょう。その男、そこから自分の存在が知れることを阻止しようと考えるかも知れない。そうなるとこれが結構、一刻を争うことやとはお考えになりませんか?」
「それは……その男が口封じに私を殺しに来るとでもおっしゃってるんですか?」
「そこまでは言うてませんよ。殺すなんてことまでは」
 鍋島はそこまで言うとさっと真顔になった。「ただ、井出さんも感じてらっしゃるように、相手は決して温厚で紳士的な男ではなさそうです。そして、その男と死んだ男性の喧嘩を止めに入ったのは、他ならぬ井出さん、あなたですよ」
「刑事さんは、私を……」井出は眉をひそめて鍋島を見た。
「あ、どうか誤解なさらないでください。決して脅しで言ってるわけじゃありませんから」
 芹沢がすかさず言って、彼もまたにっこりと笑った。
「……分かりましたよ。着替えてきますから待っててください」
「申し訳ありませんね」
 井出は二人に背を向けると、のらりくらりとした足取りでビルの中へ消えていった。
「おまえのひとことが効いたかな」
 鍋島は井出の背中を見送りながら芹沢に言った。
「何が」と芹沢は肩をすくめた。「俺はただ、あのおっさんがてめえの置かれてる状況がよく分かってねえくせにおまえに脅迫されてると勘違いしてるんじゃねえかと思って、ちょっとヒントを与えたまでさ」
「それが脅かしてるって言うんや」
 鍋島は満足げに笑った。

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