2-①

文字数 2,869文字

 事情聴取のあと杏子は、アパートに戻ったら部屋の片付けに取りかからなければならないので今日一日だけは子供たちを預かって欲しいと願い出た。植田課長は当初、そう言いながらも彼女がまた姿をくらますのではないかと疑ったが、結局は明日の午前中に子供たちを署に迎えに来るという約束をさせて承知した。そして念のために若手の北村刑事に明日の朝まで彼女に張りつくようにと指示して、彼女をアパートまで送らせた。
 杏子が帰っていき、芹沢と鍋島はさっきの事情聴取の報告書作成に取りかかった。今ひとつすっきりしない気分だったが、これ以上杏子を追求してもおそらく彼女からは何も出てこないことを、二人は三年を迎えようとしている刑事の経験からよく分かっていた。それより、叩かなければならないのは矢野光彰と東条組の方だ。昨日、大阪駅構内のコインロッカーから拳銃を発見したことで、二人はまた新しい──しかもまるで代わり映えのしない──仕事を自ら背負(しょ)い込んだのだった。

 刑事課の時計は午後四時半を回っていた。宿直の刑事たちも全員顔を揃え、子供たちをマンションに留守番させてきた芹沢と鍋島はそろそろ引き上げようかと考えていた。
「──なあ、芹沢」
 帰り支度をしている島崎巡査部長が、向かいの芹沢に声を掛けてきた。
「はい?」
 報告書を読み返していた芹沢は顔を上げた。
「彼女、えらい感じが変わったと思わへんか」
「彼女って?」
「横浜の警部さんや」
 島崎はデスクの課長と話している一条を顎で示した。
「そうですかね」
 芹沢はちらりと一条を見ると、すぐに関心のないふりをして手許に視線を戻した。「別に変わりないと思うけど」
「確かに、見た目はそうも変わらんけどな。雰囲気や、雰囲気。初めてここへ来た頃と比べると、だいぶカドが取れて、逆に余裕が出てきた」
「少しは刑事らしくなったんじゃないですか」
「違うって、あれは男のせいや」
「男?」
「そうや。ありゃあ男が代わったんやで」
「……へえ」芹沢は上体を起こして面白そうに笑った。「そんなもんですか」
「ああ。あの年頃の女の子はな、つきあう男で良くも悪くもころころ様子が変わるもんなんや。彼女はもともと可愛かったけど、それに加えて色気も出てきた」
「主任、そんなことばっかり考えてるんですか?」
「何や、おまえは考えへんのか? おまえやったら一番にそういう見方をすると思たけどな」
「別に、興味ないですよ」
 芹沢は肩をすくめた。しかし、実際は背中がむず痒かった。
「なあ鍋島、おまえはどう思う?」
 コーヒーを持ってデスクに戻ってきた鍋島に島崎が訊いた。
「え? 何の話?」
「一条警部や。彼女、何となく変わったと思わへんか? 俺はあれは付き合う男が代わったせいやと思うんやけどな」
「さあねえ」鍋島は首を傾げると芹沢を見た。「おまえはどう思うんや?」
「……俺に訊くなよ」芹沢は俯いたまま顔をしかめた。
「まあ、俺には分かりませんけどね。ええ感じに変わったんなら、それでええのと違いますか」
「……そういうことやな」
 二人がいつものようにテンポ良く話に乗ってこないので、島崎はつまらなさそうに呟いて肩をすくめた。
 そこへ、当の一条がこちらへ向かってやってきた。今日の彼女は光沢のある白いブラウスに淡い花柄のスカーフ、薄いブルーのスーツという格好だった。女性の参考人を連れて来るという任務だけとあって、運動しやすい服装とはいえなかった。靴も、高価そうなヒールを履き、ジャケットの袖口から覗く時計は間違いなく高級ブランドのものだ。相変わらず良家のご令嬢のファッションだった。
 芹沢にはつき合う相手の服装に関してうるさく注文をつける趣味はなかったので、彼女の服のセンスは以前とそう変わった感じは受けなかった。しかし言われてみれば、何となく艶っぽくなったように見えないこともない。島崎の言うようにそれが男(つまり自分)のせいだとすれば、女というのは本当に怖い生き物だと、芹沢はわざと知らんぷりをしながら心の中でそう考えていた。
「じゃあ、わたしはこれで」
 一条は三人の刑事に向かって言った。
「ああ、ご苦労様」島崎がにこにこして頷いた。
「まさか日帰りか?」鍋島が訊いた。
「いいえ、今日はこっちに。こんなに早く役目が終わるとは思ってなかったから」
「せっかくやから、美味しいもんでも食べて帰りや」
 島崎は言うと立ち上がって椅子をデスクの下に押し込んだ。「ほなお先に。警部、お元気で」
「島崎主任もお元気で。失礼します」一条は丁寧に頭を下げた。

 一条が大阪へ来るという連絡が刑事課に入ったのは昨夜の八時頃のことで、芹沢が知ったのもその直後だった。田所杏子を保護したのが一条刑事だったという偶然に、刑事課の捜査員たちは皆一様に驚いたが、芹沢には彼女がこっちへ来るということもまた驚きだった。別にやましいことは何一つなかったし──あくまで彼独自の常識においてだが──急に来られると都合が悪いわけでもなかった。しかし、ここ数日芹沢には、女遊びのことなどまるで頭になかった。それは彼が今、不本意とはいえマンションに子供を預かっているからに違いなかったが、彼自身の意識の中にそんな気が起こらなかったのもまた事実だった。

 島崎が去ったあと、デスク周辺は三人だけになった。そこで鍋島が言った。
「芹沢、おまえもうええぞ」
「何で」
「あとは俺がやっとくし、一条につき合うてやれよ」
「構わねえよ、どうせすぐに終わるんだから。だいいち、仕事は仕事だろ。なあ?」芹沢は一条を見上げた。
「そうよ。子供たちもマンションで待ってるんだし」
「あいつらは俺だけでも大丈夫やて。どうせメシ作るのは俺やし」
「いいって、ほんとに」
 そう言うと芹沢は一条に振り返って眉をひそめた。「おまえがわざわざこっちへ来るからだろ? 向こうへ行ってろよ」
「そうね」
 一条は頷いてその場を立ち去ろうとした。
「おい一条、行くなよ。しょうもないやせ我慢は見てるこっちが疲れるんや」
 一条は立ち止まると振り返り、肩をすくめて二人を見た。
「何も仕事サボって逢うってのと違うんやからええやないか。しょっちゅう逢えてるわけでもないんやし」
「鍋島くん……」
「俺かて、これで借りを返したことにしてもらいたいしな」
 鍋島はにやりと笑った。「それに、一つ忠告しとくけど、こっちに来たときぐらいしっかり捕まえとかんと危ないぞ。この男は」
「余計なこと言うなよ──!」芹沢が慌てて口を挟んだ。
 一条は納得したようにふうんと頷いて腕を組み、怖い顔で芹沢を見下ろすと言った。
「……どういうことかしら?」
「……何でもないんです、ほんとに」
 芹沢は背中を丸めて呟き、鍋島をじっと睨んだ。
 こうして、鍋島が子供たちのことを引き受けてくれたので、芹沢は残りの仕事を簡単に済ませ、あとは鍋島に任せて先に署を出た一条との待ち合わせ場所に向かった。

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