1-②

文字数 3,132文字

 鍋島の方は、その頃すでに行動を起こしていた。とは言っても、難波のパチンコ屋の前で開店待ちの列に並んでいただけだったが。

 この二日間、彼はアパートの部屋からほとんど出ることなく過ごしたのだが、そのあいだに電話が何本か掛かってきて、そのほとんどが今回彼らのしたことによる様々な反応を伝える内容のものだった。彼は電話を留守番機能に切り替えており、応対に出ることはなかったが、部屋にいながらそれを聞いているのもなかなか煩わしいものだった。特に純子からの電話がそうだった。父親が府警を退職したのはつい二年ほど前だったので、早くもかつての部下から今回のことが耳に入ったらしい。それで純子が慌てて電話してきたのだ。
 彼女の話によると、父親は特に何も言いはしないが、様子を伺う限り相当頭にきているらしい。だからしばらくは豊中には帰ってこない方がいいと純子は兄に忠告していた。親父がどう思おうと知ったことか、と鍋島は思った。どうせ俺のやることなすこと、あいつは全部気に入らへんのや。今に始まったことやない。
 その程度の内容なら彼は何とも思わないのだが、耳が痛かったのはもう一つの話だった。
 ──お兄ちゃん、いったい何考えてんの? もし懲戒免職にでもなったら、麗子さんとは結婚できひんわよ。たとえ麗子さんが何も言わへんかっても、麗子さんのお父さまが承知してくれへんわ。誰が大事な娘をクビになった警察官なんかと結婚させると思う? お兄ちゃんはそういうこと何も考えんと女の人とつき合うてるの? 無責任よ、お兄ちゃんは。

 その通りだった。それに、純子は言わなかったが、もし自分が懲戒免職処分を受けたら、彼女の縁談にも少なからず影響が出るに違いない。

──ロクでもない兄貴やな、俺は。

 純子のそんな電話を中心として、同僚からの似たような内容の電話がいくつもあった。中にはかつて彼が所属していた署内の草野球チームの主将である庶務課の警官が、一週間後に迫った本部二課との試合に暇があるのなら出てくれないかというお気楽なものもあったが、他は彼の身を案ずるものばかりだった。彼らは芹沢にも掛けているようで、芹沢は携帯の電源は落としているらしく、固定電話の方も、一応電話口には出るものの相手を確認するとすぐに切ってしまうらしい。あいつらしいな、と鍋島は妙な感心をした。

 そんなことが丸二日も続いて、さすがに鍋島もうんざりしたのだ。三日目の今日、彼は朝八時に起きて朝食をしっかり摂り、出掛ける用意をした。今日は一日部屋を空けて、誰からの電話も聞かずに過ごそうと思った。誰が何と言おうと、もう済んだことだ。たとえ純子の言うように麗子との話が壊れたとしても、それは耐えるしかない。自分は麗子には相応しくない男だったのだ。これくらいの年齢になると、愛情だけがたくさんあっても、それでいいというわけには行かないときもある。
 でも、純子の縁談が壊れたら……俺はどうしたらええんやろう。
 咥えていた煙草を足下に落とし、踏み消しながら鍋島は腕時計を覗いた。九時四十五分だった。普段なら、もう捜査に出ている時間だ。
「──あれ、鍋島さん?」
 後ろから声を掛けられて、鍋島はしまったと思いながらゆっくりと顔を上げた。
 通りに立っていたのはタツだった。Tシャツの上に派手なスカジャンを羽織って、だぶだぶのコットンパンツをはいている。相変わらず図体のでかい男だ。思わぬところで鍋島を見つけて、何とも嬉しそうだった。
「ああ……おまえか」鍋島はほっとして溜め息をついた。
「こんなとこで何してるんです?」
「パチンコ屋が開くのを待ってるんや」
「そんなこと、見たら分かりますよ」
 タツは呆れたように笑って近づいてくると、急に声をひそめて言った。
「……非番ですか? それとも仕事?」
「ああ、非番も非番。三日前から非番で、この先もずっと非番かも」
 反対に鍋島は声を上げた。
「ち、ちょっと、鍋島さん──」
 タツは慌てて周囲を見回し、怪訝そうに二人を見ている連中に愛想笑いをした。それから鍋島に振り返ると、今度は困り果てた表情で囁いた。
「困りますよ、そんな大声出されたら」
「何でや」
「この辺は俺の庭みたいなもんですからね。あんたの正体がバレるとヤバいんですよ」
「俺の正体?」鍋島はにやりと笑ってタツを見上げた。「俺の正体って、何や?」
「何言うてるんですか、将来有望の刑事(デカ)が」
「それが、そうでもなくなりそうやぞ」
「え? 何て言いました?」
 そう言うとタツは何かをひらめいたように片眉を上げた。
「……あ、もしかしてあんたか? 東条組の山瀬を強引にパクったっていうの──」
「さすがに耳が早いな」
「その筋の話には敏感ですからね」
 タツは鍋島の耳元で言うと周囲を見渡した。「とりあえず、どっかで話でも」
「ええよ」
 鍋島は頷いて列を離れた。

 三角公園の広場を囲む階段に腰掛けて、二人はたこ焼きを肴に缶ビールを飲んだ。飲みながら鍋島は、四日前の出来事をタツに話して聞かせた。
「──へえ、そういうことか」
 事情を聞き終えたタツは妙に納得して頷いた。
「そういうことや」と鍋島も頷いた。「今から考えたら、かなり強引やったと思うけどな。あのときは子供が殺されたのを見て完全に頭に血が昇ってたから、俺も相方も、書類上の手続きなんてどうでも良かったんやな」
「それで……処分されるんですか?」
「さあ。とにかく、ただでは済まへんやろ」鍋島はたこ焼きを頬張った。「自分とも、これっきりかもな」
「惜しいな。せっかくの縁やったのに」とタツは溜め息をついた。「あんたと組んでから、新聞やニュースであんたの署が手柄を上げたのを知るたびに、俺みたいなゴロツキでもちょっとは役に立ってるんやなあと思えて嬉しかったけどな」
「何やったら、俺の代わりを紹介しよか」 
「そんなん、ええですよ」とタツは顔の前で手を振った。
「誰か心当たりあるんか?」
「違いますよ。俺はあんたやからこうして卑怯なスパイみたいなことをやって来たんですよ。他のポリなんかにまでタレ込むつもりは全然あらへんね」
「へえ、そうか」鍋島は嬉しそうに笑った。
「あんたは、どうも警察らしくない。その──お巡り独特の偉そうなとこがないし、むしろこっちの世界の人間に近いところがあるよ」
「褒められてるのか、けなされてるのか」
「褒めてるんやって。嬉しくないかも知れんけど」
「いや、充分嬉しいよ」
 その言葉を聞いてタツは満足そうに微笑んだ。しかしその顔からすぐに笑みが消え、今度は眉をひそめて言った。
「せやけど、あんたもしクビ切られたら、その先どうするんや?」
「さあ、どうしよう」
 鍋島は清々しささえ感じさせる表情で周りを取り囲むビルを見回して言うとタツに振り返った。「おまえに弟子入りして、パチプロにでもなるか」
「冗談」とタツは大きく首を振った。「だいいち、そんなことしたらあの別嬪のお姉ちゃんに泣かれまっせ」
「……あいつはそんなことで泣くような女と違うよ」
 そう言いながらも鍋島は表情を曇らせ、俯いた。「俺の収入なんてあてにしてへんからな」
「へえ、そんなによう稼ぐのか?」タツは振り返った。「売れっ子モデルか何かか?」
「大学の講師。将来的には教授になるやろ」
「ひえっ、それはまた──」タツは心から驚いていた。「あんた、それこそクビになったらヤバいで。愛想尽かされるのと違うか」
「おまえもそう思うか」
 鍋島は真顔でタツを見た。
「……え、ええ……まあ」
 タツはそこで言葉を呑み込んだ。


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