1ー②

文字数 4,711文字

 部屋に入った瞬間、二人は反射的に顔を逸らせた。
 彼らの目に入ってきたのは、うつ伏せで背中に血の流れ出る二つの穴を開けた杏子──オフ・ホワイトのニットと髪に結んだリボンが朝に会った彼女と同じだった──と、彼女に守られるようにしてその腕の中に横たわっている菜帆の姿だった。菜帆の着ている花柄のワンピースは胸の下から腹のあたりが真っ赤に染まり、小さな身体の下にできた血溜まりが、今はささくれだった畳に染み込みつつあった。部屋にはまだ火薬の匂いが残っていた。
「鍋島、嘘だろ……?」
 芹沢はすぐに背を向けると、開け放たれたドアから外の廊下の染みだらけの天井を仰いだ。「まだ生きてるよな?」
「……分からん」
 死んでいると分かっていても、鍋島は無意識にそう答えていた。
 狭い部屋には四人の鑑識係員がいて、写真を取る者、飛び散った血痕のそばに番号札を立てる者、俯きながら小声で話し込む者など、鍋島や芹沢にとってはすっかり馴染みとなっているはずの光景だった。しかし今は、この連中が杏子と菜帆の無惨な姿を目の前にしてどうして平気で仕事を進められるのか、鍋島には理解できないでいた。
──みんな、何でそんなに平然としてる? こんな小さい子が身体の真ん中を撃ち貫かれて、血だらけになって倒れてるんやぞ。どうして平気な顔してられるんや? 母親かて、娘をかばったから二発も銃弾を受けたに違いない。なんやかや言うたって、この女もやっぱり、紛れもない母親やったんや──。
 鍋島は力が抜けたように、へなへなと母娘のそばにしゃがみ込んでしまった。
「菜帆……?」
「──は、バカだなおまえは。菜帆は耳が聞こえねえんだってこと、もう忘れちまったのか?」
 芹沢は廊下を向いたまま、無理に笑って言った。
「声かけただけじゃ駄目だぜ。ちゃんと顔を見て、手を触れてやらなきゃ分からねえよ」
 鍋島はその指示通りに菜帆の顔を覗き込み、恐る恐る手を伸ばしてそのふっくらと丸い頬にそっと触れた。つい二日前まで熱で苦しんでいたのが嘘のように、ひんやりと冷たかった。
「芹沢──」
 鍋島は菜帆の顔からゆっくりと手を引っ込めると、立てた膝の上に戻して固く握り締めた。そしてがっくりと項垂れて首を振り、まるでこびりついた泥でも拭うように両手で顔を覆って呟いた。
「……死んでるよ」
 鍋島の言葉が背中に突き刺さったかのように、芹沢は顔を上げ、悲痛な表情で目を閉じた。そしてすとんと肩を落としたかと思うと、そのまま左半身をドアに押しつけてずるずると座り込んでしまった。
「……何でだよ……」芹沢の声は震えていた。「今朝まで、俺の部屋であんなに元気で──声は出せねえけど、にこにこ笑ってたんだぜ──」
 鍋島はまだ顔を伏せていた。上体を大きく前後に揺らして、両腕の間から長い息を吐いた。やがて喉の奥から搾り出すような、それでいて消え入りそうな声で呻くように言った。
「菜帆……ごめんな──」

 部屋にいた四人の鑑識係は、この二人の刑事の様子にすっかり驚かされていた。管轄外の刑事がわざわざ現場に駆けつけるのだから、彼らがこの親子と何らかの関わりがあるということは分かる。しかしこのひどい哀しみようはちょっと特別だ。まるで二人がこの血塗まみれの母娘の身内であるかのような取り乱し方ではないか。どんな事情があるにせよ、少なくともこの二人は今、自分たちが警官であることを忘れているのだと彼らは考えた。
「芹沢刑事」
 廊下の先から名前を呼ばれ、芹沢は顔を上げた。
 声をかけたのは、電話で事件を知らせてきた立花だった。身長185cmはある長身の男で、水泳選手のような広い肩幅の逞しい身体をしていた。放心状態の亮介を伴って、彼をかばうようにして静かに近づいてきた。
「亮介──!」
 芹沢は膝を起こして手を差し伸べ、亮介の手を取った。亮介はふらふらと芹沢に引き寄せられたが、その表情は虚ろで、ただぼうっと芹沢の肩越しに部屋の真ん中に横たわる母と妹の遺体を眺めていた。
「亮介、おまえ無事だったのか」
「一階の共同トイレに行ってたらしい。そのあいだに──」
 立花は言葉を濁した。
「そうか……良かった」
 芹沢は亮介の顔を覗いた。しかし亮介はどうやら芹沢を認識していない様子で、まるで初めて見る相手であるかのように物珍しげな眼差しで彼をじっと見つめている。
「可哀想に……ショックで、一時的な失語症みたいになってしもてるんや」
 立花が言った。「無理もないで。トイレから戻ったら、このありさまやったんやから」
「いったい、どうしてこんなことに?」
「一瞬の出来事で、他の住人もみんな部屋の中にいたからまだはっきりとは分からんのやけど」
 立花は亮介の肩に視線を落としたまま言った。「このドアを開けるなり、何も言わんと四発続けて撃ちよったらしい。一発は逸れたけど、残りは見ての通り命中してる」
「……東条組の鉄砲玉か」鍋島の背中が言った。
「東条組?」と立花は片眉を上げた。「連中が、何のために?」
「口封じさ」芹沢が答えた。「その男、何も喋れねえの?」
「まあな。でも、鉄砲玉が自殺なんか計るか?」
「……そうか。二人を撃ったあとすぐに自分も死のうとしたってことは──」
 芹沢は立花を見上げた。「そいつの人相風体は?」
「年齢三十五から四十、中肉中背、顔つきは悪いがヤクザではない」
「まさか──」
「矢野や」鍋島が言った。
 芹沢は亮介の手を取ったままゆっくりと立ち上がり、厳しい顔をして立花と向かい合った。
「男が喋れるようになったら、俺たちに話をさせてくれないかな」
「あんたらに?」
 立花は言うとちらりと鍋島の背中に目をやった。その視線を感じたのか、鍋島はくるりと振り返り、重い体を引きずるようにしてドアのそばまで来るとゆっくりと立ち上がった。
「立花、頼むよ。これはうちの事件(ヤマ)と関係があるんや」
「どういうことや?」
「この被害者(ガイシャ)は、東条組の上島ってやつの女やったんや。組の拳銃密造に関する重要な証拠を掴んでて、おまけにそれで組を強請ろうとしてたんや」
「上島って言やあ──確か何日か前に、十三署の管内でトラックにはねられて死んだヤクザと違たっけ」
「そうさ。けどその事故死にしたって、まるで怪しいんだ」
「組の仕業ってか?」
「ああ。歩道橋から転落する数時間前まで、やつは組の連中と十三のスナックで一緒やった。そこの店主が目撃してるんや」
「どんなやつらや?」
「一人は金縁眼鏡のインテリ風。もう一人は大柄としか分からん」
「ああ、きっと山瀬(やませ)や。ということは大柄なんは滝川(たきがわ)と違うか」
「知ってるのか?」芹沢は立花を見た。
「山瀬の女がうちの管内でブティックをやってて、隠し部屋作って賭場を開いてるって噂や」
 そう言うと立花は怪訝そうに鍋島を見下ろした。「でも、十三署は事故死で片付けたのを、おまえらが掘り返して大丈夫なんか?」
「あんまり大っぴらにはできひんのやけどな。うちの上司は黙認してる」
「そうか……」
「せやから、俺らにその男と話させてくれへんか?」
「悪いけど、それはでけへん」
「立花──」
 立花は溜め息をつくと、困り果てた表情で二人を見た。
「なあ。おまえらも分かってるはずやと思うけどな。被害者がおまえらの事件と無関係やないってことはよう分かったし、そう思たからこそおまえらに連絡もしたよ。けど、おまえらがこの家族にどれだけの思い入れがあるにせよ、この殺しはうちの事件や。ええか、セコい縄張り根性で言うてるんやないぞ。話を聞けば聞くほど、おまえらには手を出させるわけにはいかへん。いくら何でも、おまえら越え過ぎや。これ以上は危ないぞ」
「それはよく分かってるつもりさ。分かった上で無理言ってるんだよ。でないと俺たち、このままじゃ引けねえんだ」
 芹沢は言い、やりきれないように俯いて亮介の頭を撫でた。
「被害者への必要以上の肩入れなんて、おまえららしくもないな」
 立花は首を振った。「いったい、どないしたって言うんや?」
「借りは必ず返す。せやから立花、ここは俺らの──」
「ええから、うちに任せろ」
 立花はぴしゃりと言って鍋島をきつく見据えた。「これで最後にしてくれよ、俺に言わせるのは」
「たち──」
「任せるんや」
 立花が鍋島の肩を掴み、それが交渉決裂のサインだった。

 実況検分が終了し、杏子と菜帆の遺体も車に運び込まれた。鍋島と芹沢は立花に連れられて豊崎署に向かう車に乗った亮介を見送り、自分たちも西天満署へと引き返した。
 署に戻るのにそう時間は掛からなかった。そしてその短い道のりのあいだに二人は、一気に、しかし静かにこみ上げてくる激しい怒りと正面から向き合っていた。いや、向き合うと言うより、むしろそうなるのを待っていたようだ。
 怒りは彼らの身体の中心深くに核のように芽生え、徐々に、しかも確実に大きくなっていった。そうしてその核がどんどん育つのを、二人はじっと黙ったまま感じていた。感じながら、最も効果的な噴火の機会を伺っているようだった。あるいは、試合前のアスリートが、身体の底から沸き上がってくる激しい闘志に武者震いしながら、自分のコンディションの良さを確認しているのと似ていなくもなかった。

 署に着き、車を駐車場に滑り込ませた芹沢は、サイドブレーキを引き上げると短く溜め息をついた。
「──ひとつおまえに確認しときたいことがあるんだ」
 芹沢は前を見たままで言った。
「うん」
 怒りを抑えるため、鍋島は短く返事をした。
「俺が警察に入った理由は知ってるよな」
「ああ。おまえらしくもなく、狂ったセンチメンタリズムに囚われてるってことはな」
「じゃあおまえはどうなんだ?」
「え?」
「何で警官になったかってことさ。訊いたことなかったよな」
「別に。何となく」
「親父さんの意向か? なわけねえよな」
「それやったら願い下げや」
「じゃあ、オフクロさんの遺言とか」
「違うよ」
「だったら、自分の意志だな。俺と同じで、なりたくてなった、そういうことでいいんだな?」
「そうや、自分の意志や」
 鍋島は振り返った。芹沢の考えが分かっていた。
「せやから、辞めるのも自分の意志で辞められるんや。つまりおまえは、そこんそこを確認したかったんやろ?」
 芹沢は小さく頷きながら鍋島をじっと見つめた。
「……じゃ、やるぜ」
「望むところや」鍋島も大きく首を縦に振った。「どの線から行く?」
「上島殺ししかねえだろうな。そこなら完全に俺たちの自由になるんだから」
「勝手にやれって言われたことが、今となっては好都合やてことか」
「そうさ」
 芹沢は意味ありげに笑って言ったが、すぐに厳しい表情になった。
「けど、もちろん俺はそれだけで済ませるつもりなんてねえぞ」
「当たり前や。拳銃の密造も、菜帆の仇討ちも、ちゃんとカタ付けさせてもらうで。時間はたっぷりあるんや。完璧な計画を立てられる」
「そうと決まりゃ、まずはあのケースを取ってくる」
 芹沢はドアを開け、車から身体が半分出掛かったところで鍋島に振り返った。「臆病風に吹かれて逃げるんじゃねえぞ」
「アホな。それはこっちの台詞や」
 鍋島は煙草に火を点けながら笑った。

 その日の夜遅く、豊崎署の立花刑事から二人に連絡が入った。
 田所杏子と菜帆を殺した犯人・矢野光彰が収容先の病院で死んだとのことだった。

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