文字数 3,782文字

 信号待ちの車の中から、鍋島は強い陽射しを尾翼に反射させて遠ざかっていく飛行機の姿をぼんやりと眺めていた。
 車のデジタル時計は十四時十二分と表示していた。麗子の乗る成田発全日空便は十六時三十五分発のニューヨ-ク行きで、そこから母親の収容されているコネティカット州の病院に到着するのは夜の八時頃、日本時間だと明日の朝九時頃だろうとゆうべ麗子は言っていた。
「──なあ、おまえアメリカ行ったことあるて言うてたな」
 窓にぴったりと額をつけ、空を見上げたままの鍋島は芹沢に言った。
「ああ。でも俺の行ったのは西海岸だぜ」芹沢は振り返った。「三上サンのことか」
「アメリカはあいつにとっては生まれ故郷やし、一人で何回も行き来してるから、今さら旅先での心配なんてしてないんやけどな。ただ……今回の場合はちょっとヘビーやろ」
「確かにな。おまえ、せめて出発までだけでもついててやらなくて良かったのか?」
「結婚してるわけでもないのに、そんなことできるか?」
「構やしねえさ。どうせこっちの仕事だって、目の色変えて必死になるほどのもんじゃねえだろ」と芹沢はうそぶいた。「たかだか売人殺しだぜ」
「まあな」と鍋島は頷いた。「でもどっちにしろ朝イチで大学に顔出しして、昼頃の成田行きに乗るて言うてたから。ゆうべもよっぽどすぐ家に帰らせようと思たんやけど、あの様子ではちょっと──」
「当たり前だろ。何のためにおまえに会いに来たと思ってんだよ。そういうときにそばにいてやるのがおまえの役目だろうが」
 芹沢の言葉に、鍋島は口の端だけで笑った。「おまえやったら、部屋を訪ねてきた女をそのまま帰すなんてことは絶対にないもんな」
「……なに言ってんだよ?」芹沢は眉をひそめて振り返った。
「あれ、違うか」
 芹沢はむっとして前に向き直った。「人がマジで心配してやってるのに、ふざけやがって」
「分かったよ、悪かった」
「もうおまえとは喋らねえよ」
「怒らんでもええやろ。謝ってるんやから」
「うるせえ」
 信号が青に変わり、芹沢はチェンジ・レバーをローに入れてサイドブレーキを下ろした。しかしいつものように渋滞はひどく、車は一、二メートルほど進んだだけだった。
 やがて鍋島が真顔に戻って呟いた。「……あいつがあんなに泣くとは思わへんかった」
 芹沢は鍋島に振り返り、またゆっくりと前を向いた。「だから今朝、おまえも死にそうな(ツラ)してたんだな」
 鍋島は溜め息をついた。「ほとんど一晩中や」
「そうか」
「眠ったかなと思うと、また鼻をすすって──」
「おい、よせよ」
「えっ?」
「そういうこと、俺に言うなよ」
「何で」
 芹沢は前を見たまま言った。「よその女のことなんか興味ねえんだ」
「……そうか。そらそうやな」
「ああ。おまえさえ分かってりゃいいんだよ」

 車は天六の交差点を二百メートルほど東へ入ったところで北に折れ、田所杏子のアパートに向かった。昨日、亮介と菜帆を保護したためにきちんとできなかった家宅捜索をするためだった。ただ、昨日のようにアパートの目の前まで車で入っていくことはせず、芹沢は少し手前の比較的広い道で車を端に寄せた。
 肩を寄せ合うようにして建つ軒の低い家の並びを奥へ行くと、正面に寺の土塀が見えてきた。そして、その手前の目指す木造アパートの玄関前で、四人の中年から初老の男女が輪になって立ち話をしているのが目に入った。
「井戸端会議が真っ盛りだぜ」芹沢が言った。「よく飽きねえこったな」
「あれが仕事なんやろ」
 鍋島は興味なさそうに答えた。
 二人が近づいていくと、輪の中の一人が二人に気づいていち早く他の連中に警官の到来を告げた。残りの者は一斉に振り返り、二人を見て怖じ気づいたように一、二歩後ずさりをした。
 鍋島は丁寧に頭を下げながらも、心の中ではいやな気分だった。大罪を犯しながらもまるでその意識もなく横柄な態度に出る犯罪者──政治家や大企業の経営陣などに多いタイプだ──は見ていて実に腹の中が煮えくり返るが、こうして何も悪いことをしていないのに妙におどおどして腰の低いのも、何だかイライラしてくる。何もしてへんのやったらもっと堂々としてたらええやないか。たかがお巡りのどこが怖いんや。俺らはしょせん、あんたらが自分たちの血税で雇った公僕なんやで。鍋島はそう考えながら連中を眺め、苛立たしい思いでいっぱいになっていた。
「──あの、刑事さんですよね」
 もう何日も洗濯していないようなずず黒い割烹着を着た痩せぎすの中年女性が、二人に交互に視線を向けながら訊いた。
「ええ、そうですが」鍋島が頷いた。
「あ、そうやそうや、昨日亮くんと菜帆ちゃんを連れて行かはったの、この人らやわ」
 割烹着の女性の後ろから、対照的に丸々と肥り、着ているTシャツとスカートがはち切れんばかりになっている背の低い女性が顔を出した。
「ほら、この男前の人。いっぺん見たら忘れへんわぁ」
「西天満署刑事課の者です」芹沢が面倒臭そうに答えた。
「警察の人らが今日ここに来られるの、おたくらが初めてやね?」
「ええ、そうですが」と芹沢の表情が少し険しくなった。「何か?」
「いやぁ……それやったらやっぱりおかしいわぁ……」
 肥った女性は割烹着の女性と顔を見合わせた。
「何かあったんですか?」
 井戸端会議の構成員たちは皆それぞれに困った表情で互いの出方を伺っているようだったが、やがて細い金縁の眼鏡を掛けた白髪の男性が力強く頷くと、二人の刑事に向き直った。
「さっき、一人の男がこのアパートに来てね。二十分もせんうちに帰っていきましたけど、どうやら田所さんとこに用があったみたいですよ。私らはじめは警察の人かと思てたんですけど、それにしては車がライトバンやったし、昨日来はったおたくらとはえらい感じが違たから、何かおかしいなあと思て──」
 鍋島と芹沢は一瞬だけ顔を見合わせると、慌ててアパートの中に入って行きかけた。しかしすぐに振り返り、芹沢が全員に言った。
「あの、皆さんちょっとここで待っててください。すぐに戻ってきますから」

 杏子の部屋に入った二人は、そのひどい荒らされように一瞬、ドアの前で立ちすくんでしまった。
 二帖ほどの台所と六帖の居間は、昨日亮介と菜帆を見つけたときの状態よりもさらにひどく、地震でも起こったあとのようだった。押し入れ、部屋の中央の畳、クロゼットと安っぽい造りの鏡台、そして冷蔵庫から小さな食器棚の引き出しにいたるまで、すべてひっくり返り、中のものがそこら中に散らばっている。
「上島かな」芹沢が言った。
「けど、ライトバンに乗ってきてたって言うてたやろ。別に何に乗ろうと自由やけど、ちょっと結びつかんな」
 散乱している靴やおもちゃの間を縫って、鍋島は部屋に上がった。
「それに、上島やとしたらこんなに家捜しする必要ないと思うけどな。自分の女の部屋なんやから、捜し物があったら女に訊いたらええことやろ」
「もしかしたら、上島と杏子は一緒じゃねえのかも」
「それにしても、何を探してたんやろ」
「畳までひっくり返してるところを見ると、薄っぺらいもんらしいぜ」
「杏子がここへ戻ってきたのは三日前、つまり殺しのある日の夕方や。でもそのときの杏子はいつもと変わらへんかったって、亮介は言うてた」
「子供にゃ気づかれねえようにして、何かを隠していったのかも」
「金かな」
「金ねえ……」と芹沢は考え込んだ。「もっと特別な物のような気がする」

 そのとき、開いたままのドアの向こうから一人の若い男が顔を覗かせた。青白い肌に死んだ魚のようにトロンとして濁った目の、不健康そうな男だった。
「あ、ちょっと」男に気づいた芹沢が声を掛けた。
 男はドアの内側に回ってきた。まだ暑いというのに、Tシャツの上に紺のジャージの上下を着ていた。
「ここの住人の方?」
「ええ、隣ですけど」
 男は無表情のまま答えて芹沢をまじまじと眺めた。
「西天満署刑事課の芹沢と言います」
 芹沢はジャケットから警察バッジを出して男に示した。「さっきまでこの部屋にいた男を見ませんでしたか?」
「見ましたよ」と男は答えた。「あんな大きな音を立てられたら、誰かて何ごとかと思って見に行きますよ」
「それ、この男と違いましたか?」
 部屋の奥から鍋島が出てきて、上島の写真を男に見せた。
「いえ、全然違います。歳は同じくらいやったけど」
「何か特徴を覚えていらっしゃいませんか?」
「さあ。僕もドアの間から見ただけやから」
 男はその折れそうに細い首を傾げた。「ベージュ色の作業着のようなものを着てました。それから──その写真の人ほどやないけど、確かにあんまり人相はようなかったな。ちょっと様子もおかしかったし」
「と言うと?」
「何か、ひどく怒ってると言うか──キレて、見境がなくなってしもてる感じです。悪いけどそのくらいしか分かりません」
「そうですか。どうもわざわざありがとうございます」
 男はのらりくらりと隣へ帰っていった。
「東条組やないな」鍋島が言った。
「……面倒臭ぇ。だったら誰なんだ」
 芹沢は舌打ちしながら言うと部屋を見渡して溜め息をついた。

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