文字数 4,188文字

 翌日のことだった。

 料理が得意で、今や素人の趣味の域を越えるほどの腕前を持つ鍋島にとって、何日も家に引きこもって過ごすことにさほど不便はなく、むしろこの機会に久しぶりに本格的なメニューに挑戦できたりして、謹慎中のストレス解消にはもってこいとなっていた。
 しかし、嗜好品と酒はさすがに自家製というわけにもいかない。普段からそんなにストックを確保しておくタイプではなかったので、四日目となるとそれも切れた。

 近所のコンビニで缶ビール六本パックと焼酎一瓶、セブンスターを一カートン買い、鍋島はアパートへ戻る道をのんびりと歩いていた。仕事帰りに買い物をした主婦や部活帰りの学生が家路を急ぎ、そろそろ陽も落ちて、ぽつぽつと街灯が灯り始めるころだった。
「鍋島」
 アパートの建つ四つ角まで来たときに声をかけられて、鍋島は振り返った。
「立花……」
 豊崎署の立花だった。スーツのスラックスのポケットに両手を突っ込んで、真顔で鍋島を見つめている。普段は明るくて威勢のいい体育会系そのものの好人物だったが、今はその片鱗すら見えない。短髪に大柄な体格のせいもあって、仁王立ちという言葉がぴったりだった。
「ちょっと顔貸せよ」
 立花はそれだけ言うと、くるりと踵を返してすたすたと歩き始めた。鍋島は俯いて小さくため息を漏らし、黙って後に続いた。

 百メートルほど歩いたところに公園があった。立花は迷うことなくその入口に向かっている。きっとアパートに来る道すがら下見しておいたのだろうと鍋島は思った。
 公園は無人だった。一番奥のベンチの前まで行って、立花は振り返った。
「俺が何を言いに来たか、分かるやろ」
「ああ」鍋島は穏やかに言って頷いた。「ちょっと遅いような気もするけど」
「ふん。強がんなよ」
「別に」
 鍋島は軽く言ってベンチに腰を下ろすと、買ったばかりの缶ビールを二本取り出し、一本を立花に差し出した。「飲むか? あんま冷えてへんけど」
「要らん。おまえも飲むな」
「……ちぇ」鍋島はビールを袋に戻した。
 立花は腕を組んだ。「何で俺の忠告を無視した」
「無視したわけやないよ」
「結果的にそうなっただけやて言いたいんか」
「ああ、そうやな」
「自分が何をやったか、分かってんのやろな」
「もちろんや。周到な準備をして、確実に実行に移した」鍋島は得意げな笑顔を見せた。「気持ちいいくらいハマったで。おまえにも見せたかったわ」
「黙れ。その結果がこれやろ」
「ああ。それが何か?」
「おまえらの謹慎だけで済んでないって、それが言いたいんや俺は」
「分かってるよ。それも想定済みや」鍋島は強い眼差しで立花を見上げた。「せやから責任は俺らで全部負う。他のどこにも、誰にも負ってもらう必要なんてない」
「そんな簡単にいくか!」
 立花は声を荒げた。「おまえらはな、全部潰したんや。極道の組一つだけやない。自分らの上司の顔はもちろん、本店も、うちの署も、十三も、全部おまえらに潰された。本店に至っては、今までの時間と労力もや。大事に耕した畑を、所轄のイカれた若造にブルドーザーでめちゃくちゃにされたわけや」
 立花は怒りを抑えることができないのか、一気に言うと鍋島の座っているベンチの端を蹴った。
「……おまえとあのチャラい相方のショボい首だけで済むと思ってんのやったら、めでた過ぎるぞその脳みそ」
 鍋島は公園の中央にある遊具を眺めながら黙って聞いていたが、やがてははっ、と笑った。
「何がおもろい」
「何もかもや」
 鍋島は言うと立花に振り返った。「うちの上司の顔、本店の顔と時間と労力、おまえんとこの顔、十三の顔、そんで俺と芹沢の首。それが何やて? たかが知れてるやんけ」
「あぁ?」立花は眉間に皺を寄せた。
「クソしょーもない。潰れたところでなんも変わらんわ。俺らの首かて、代わりはなんぼでもおる。次から次へと湧いてきよる。数だけは豊富やからな、警察ってとこは」
 立花はこめかみに青筋を立て、一歩前に踏み出した。鍋島も立ち上がり、それを食い止めるかのように続けた。
「罪のない、儚い三年の命を守られへんのやったら、そんなもん全部ゴミや。後生大事にぶら下げてて何になる? それを分からせてやったんや。そのゴミとも比べもんにならへん、最悪のクソを掃除することでな」
「そのやり方が間違うてるて言うてるんや。お前らがやらんでも、東条組はいずれ本店が一掃する計画やった」
「その決め手がないから、なかなか踏み出せへんかったんと違うんか」鍋島は言い返した。「仮に踏み込んだとしても、どうせ結果は見えてる。トカゲの尻尾切りや。密造に関わった幹部の二、三人を引っ張ってきて、矢野を挙げて、本店はそれで(ほこ)を収める気やったやろ。最初(はな)から壊滅させる気なんてない。ところが、もたもたしてそれも出来んうちに女にサンプル盗まれて、矢野も死んで、完全に証拠がなくなってしもた。その結果――菜帆が死んだ。これは最大の失態やぞ……!」
「女の子が死んだんはおまえらの失態やろ!」
「――――」
 立花に言い切られて、鍋島は思わず絶句した。それを言われると、何も言い返せなかった。俯いて抱えるように腕を組み、やがて頭に右手をやった。
 立花は鍋島の様子を見て、失言だったと気づいた。そして静かに言った。
「……俺はこんなことを言いに来たんやない。おまえの――」
「おまえやったら、どうした」
「えっ?」
「立花。おまえが俺やったら、どうしてた?」
 鍋島は顔を上げた。「みんなの顔を立てて、正式な手順を踏んで、トカゲの尻尾切ってそれで終わりか。女の子の命は、大変遺憾ながら尊い犠牲と捉えて今後に活かすことを誓い、慎んでお悔やみ申し上げます、ってか」
 立花は顔を歪めて笑った。「……嫌な言い方しやがって」
「どうなんや」鍋島は真顔だった。「答えろ」
「……そうやな。すんなりと従うかどうかは分からんけど」立花は首を傾げた。「でも、おまえと同じことはやらんやろな」
「そうか」
 あっさりと言った鍋島を立花はじっと見つめた。そして残念そうに目を伏せ、弱々しく言った。
「――おまえも知っての通り、俺は去年結婚した」
「ああ、ええ披露宴やったな」
「暮れには子供も生まれる。男の子や」
 立花は一瞬だけ嬉しそうに表情を崩し、そしてすぐに曇らせた。「……嫁はん、実は持病持ちでな。妊娠できたのも奇跡やて、医者が――」
「分かったよ。悪かった」
「鍋島……」
「独身の俺と守るもんができたおまえでは立場が違う。分かってるはずやのに、訊いた俺が間違ってた。おまえにそんなつまらんこと言わせたらあかんかった」
 鍋島は言うとぎこちなく笑ってベンチに戻り、コンビニの袋を持って立花に振り返った。「迷惑と、心配かけて悪かった。最初にこれを言うべきやったな」
 そして鍋島は両手を太腿に添え、深々と頭を下げた。
 立花は困ったように腕組みして鍋島を見つめていたが、やがて観念したように首を振り、何とも言えない表情の笑顔で言った。
「――おまえら、ええコンビなんやな」
「え?」
「あの

とおまえや」立花は片目を閉じた。「おんなじこと言うてる」
「……芹沢(あいつ)んとこにも行ったんか」
「ああ。ここへ来る前にな」
「どう同じやて?」
「ほぼ全部。言葉や言いまわし違うけどな」と立花は肩をすくめた。「それとも、打ち合わせでもしてたか?」
「いや、してない」
「ならもうなす(すべ)なしやな。何を言うても無駄や」
 立花は言うと両手でポンと自分の腰を叩いて辺りを見渡した。「時間とらせたな。ほな行くわ」
「悪かったな。わざわざ来てくれたのに」
「……いや、ほんまは俺が納得したかっただけなんかも知れん。きっとおまえは後悔してないって、それは内心分かってたからな。そこを会って確かめようって、考えてたんかも知れんわ」
 そう言った立花はいつもの笑顔に戻っていた。「……まぁ、処分がどうなってもおまえはおまえや」
「ああ。変わりようがない」鍋島は頷いた。
 立花も頷いた。「じゃあな」
 公園の入口に向かっていく立花の背中を見送りながら、鍋島は貴重な仲の良い同期を追い詰めるようなことをしてしまったことへの忸怩(じくじ)たる思いに駆られた。悪いな、立花。確かにおまえと俺とは立場が違う。けど、家族を持ったからこそおまえには――
「立花!」
 気が付くと、声をかけていた。
 立花はゆっくりと振り返った。「何や?」
「結婚して、守るもんができたからこそ――」鍋島は大声で言った。「俺らのやったこと、理解してほしいって思うよ――!」
 立花は黙って頷いた。
「ほんまの悪を野放しにすること――つまりは家族に胸を張れへんようなことは――絶対にやったらあかんって――」
「もうええよ、聞き飽きた!」立花はふてくされたような顔をした。
「えっ?」
「イケメンチャラ男もおんなじようなこと言うとったわ!」と言って立花は笑った。「クッソ腹立つ! じゃまたな!」
 鍋島も笑って手を挙げ、立花が去って行くのを見送った。

 やがて鍋島も公園を出た。帰る道すがら、ぬるい缶ビールを開け、夜の始まった街並みをぼんやりと眺めながら歩いた。通行人がすれ違いざまに自分を避けるのが分かった。
 立花に偉そうなことを言ったところで、結局は俺も守れなかったのだと思った。だからどんな結果も受け入れる。職を解かれ、家族からは非難囂々(ひなんごうごう)だろうし、もしかしたら麗子も失うかも知れないけれど、だからと言って、とうていそれで帳消しにはできないけれど、菜帆が犠牲になったことと、亮介から母親と菜帆を奪ってしまったことの僅かながらの償いとなるだろうか。

 ――菜帆。いつか許してくれるかな。

 そんなわけはないと思った。
 鍋島はビールを飲み干し、ちょうど通りかかった酒屋の前の自販機に隣接されていたゴミ箱に空き缶を捨てた。店番をしていた主人に睨まれたが、構うもんかとばかりに睨み返し、左手をデニムの後ろポケットに突っ込み、右手でレジ袋を肩に引っかけて歩き出した。

 だから俺たちは、一生背負っていく。


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