1-③

文字数 3,165文字

 その夜、鍋島がアパートに戻ると、留守番電話にはまた新たに二件のメッセージが加わっていた。
 最初の一件は、少年課の湯川刑事からだった。
《──湯川です。今日、役所の小林さんが巡査部長を訪ねてこられました。でもお二人がいらっしゃらないんで、たまたま居合わせた僕にお二人への伝言を残して帰られました。いいですか、言いますよ。明後日午前十一時、田所亮介くんをアパートの大家さんのところへ迎えに行って、その足で母親の郷里に送って行くそうです。小林さんによると、亮介くんはお二人に逢いたがっているらしくて、それで是非お二人にアパートまで来て欲しいと──》
 そこで録音時間が切れたらしく、メッセージは終わっていた。
 鍋島は迷った。今さら亮介に合わせる顔がないという思いと、彼が逢いたがっているのなら行ってやりたいという思いが交錯して、どうしたらいいのかすぐには決められなかった。果たして亮介は元気を取り戻しているのだろうか。いや、一度に家族全員を失ったのだから元気なはずがない。しかしあのときはショックで口も利けない状態だったから、それが今は自分たちに逢いたがっているということは、少しは落ち着いたのかも知れない。杏子の郷里は岡山だが、親戚でもいるのだろうか。さあ、どうするべきや? 
 行くべきなんやろうな。

 もう一件の電話は、彼がこの世で一番大切だと思っている相手、そしてもしかしたら一番恐れているのかも知れない相手、そう、三上麗子からのメッセージだった。
《──勝也、話があるの。連絡ちょうだい、何時でもいいから》
 たったこれだけだった。
 鍋島は最初にこのメッセージを聞いたとき、思わず顔をしかめて
「うわ、キツ……」
 と呟いた。どうやら麗子にも彼の今置かれている状況が伝わっているらしい。いったい誰から?……純子や。
 リビングのロー・テーブルの前にきちんと正座し、キッチンカウンターから持ってきた電話機をテーブルの真ん中に置いた。受話器を取って耳に当て、一つ一つゆっくりとボタンを押す。
 そしてコールを三回聞いたところで突然フックを押して切ってしまった。
 まだ観念できていなかったのだ。ほっと一息ついた。
 とりあえずその前に風呂に入って、それからゆっくりと電話しようと彼は考えた。昔から嫌なことは先へ送るタイプの人間だった。
 しかし、女でもないので風呂に入るのにそんなに時間はかからなかった。おまけに、ゆっくりと湯船に浸かるにはまだ季節は早い。彼は二十分ほどで再びリビングに現れ、電話の前にあぐらをかいた。
 同じ操作を繰り返し、今度はじっとコールを聞いた。三回、四回──麗子は出掛けているのだろうか。彼は正面の壁に掛かった時計を見上げた。十時十分だった。
《──はい》
 麗子に出られてしまった。
「あ、俺……」
《勝也》
「悪いな、留守にしてて」
《あら、いいのよ》と麗子は意外そうに笑った。《忙しいのはお互いさまよ》
 ──これは皮肉か? 鍋島は咄嗟に思った。
「話って?」
《あ、そうね。そう改まって聞かれるほどのことじゃないんだけど》
「何でや、おまえから言うてきたんやろ」
《ええ、そうよ》
 麗子の声は強気だった。どうやら母親の急逝のショックからも立ち直っているようだ。
《ねえ》
「ん?」
《あたしたち、知り合ってからどれくらいになる?》
「十年経った」
《出会った頃は、まだ二人とも十代だったわ》
「そうやな」
《そのときはお互いの将来がどうなるかなんて、分かってた?》
「まさか結婚しようなんてことになるとは思てへんかった」
《違うわよ、お互いの進む道のことよ》
 麗子はちょっともどかしそうに言った。《あんた、あたしが学者になるなんて思ってた?》
「いや、正直言うて、まったく思ってなかったな。確かにおまえは秀才やったけど」
《じゃあ、何になると思ってたの?》
「……何や、何の尋問や?」鍋島はちょっと苛立ってきた。
《尋問?》と麗子は即座に訊き返した。《……

言うのね》
 あいた、と鍋島は心の中で言い、片目をつぶった。やはり麗子は知っているのだ。鍋島は黙り込んでしまった。
《勝也》
「……何や」
《あたし、あんたがどんな警察官なのか、具体的に想像したことってほとんどないの》
「実際、想像しにくいと思うよ」
《確かにあんたは警察官よね。でもそれって、あたしとあんたのつき合いの歴史から言うと、半分ちょっとの期間に過ぎないのよね。あたしにとってはむしろその前の半分がとても大きくて、そしてその期間こそが、今あんたのことを想ってるあたしを存在させてるんだと考えてるのよ》
 鍋島はどう答えていいのか分からなかった。
《あんたも、大学講師のあたしが好きってわけじゃないんでしょ?》
「そらまあな」
《あたしもそうなの》麗子は自信たっぷりに言った。《あたしは、あたしのことが好きだって言ってくれる勝也が好きなの。それだけでいいと思ってるわ》
「麗子──」
《だから、気にしないで》
「え?」
《……あたしのことなんか気にせずに、やりたいようにやって》
 鍋島は麗子の言わんとしていることが痛いほど分かって、とても申し訳なく思った。
「……ごめんな」
《あら、どうして謝るの?》
「せやかて──」
《あたしだって自分の好きなようにやりたいから、あんたにもそう言っておこうと思っただけよ》
「分かってるよ」──その言い方、おまえらしいな。
《分かってくれた? ならいいのよ。言いたかったのはそれだけ》
「麗子、あの──」
《勝也、あたしのこと愛してる?》
 麗子は突然訊いてきた。
「でも俺は──」
《どうなの?》
「知ってるんやろ? 俺が──」
《訊いてるのはあたしの方よ》
「ああ、うん」
《答えて。あたしが好き?》
「……ああ、もちろん」
《良かった。あたしもあんたが大好きよ。世界で一番》
 麗子は恥ずかしそうに、しかしはっきりと言った。
 鍋島は口元を緩めて俯いた。分かってはいたが、こうもはっきりと言われるとやはり照れ臭かった。
《──だけど》麗子は急に声のトーンを落とした。
「え?」鍋島は顔を上げた。
《ちょっと引っかかってる》
 ──え、何が? せっかくいい雰囲気になってたのに、また急に雲行きが怪しくなってきたぞ。何が悪かった? やっぱり俺の今の状況を怒ってるのか? 鍋島は混乱してきた。
 麗子は言った。
《あんたさっき、あたしたちが『結婚しようってことになる』って言ったわよね》
「え、ああ、言うたけど」
《それ、いつ決まったの》
「えぇ?」鍋島は受話器を落としそうになった。あ、そのことか。「え、せやかて──」
《あんたね、あたしの父に挨拶して承諾を得たからって、それでプロポーズした気になってんじゃないわよ》
「そうなんか……」鍋島はため息をついた。
《ちゃんと言ってもらってないからね、あたしまだ》
「……うん」
《どさくさに紛れようなんて、考えてたら承知しないから》
「分かってるよ」
《ならいいのよ》と麗子は明るい声で言った。《じゃあ、もう切るわ。まだ少し仕事が残ってるの。夏休みの論文の採点よ》
「……うん」
 鍋島は素直に頷いた。そこへ── 
《おやすみなさい。


「!────」
 不意を突かれて返す言葉を失った鍋島を受話器のこちらに置き去りにして、麗子は電話を切っていった。
 鍋島は受話器を置けないでいた。接続音の鳴るのをしばらくのあいだぼんやりと聞いたあと、ゆっくりと戻した。
 そのまま受話器に手を置いて深く息を吸い込んだ。吐くと同時に笑いが出た。

 恋をしているんやな、とそれだけ思った。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み