2ー②

文字数 4,164文字

「──あの、すみません」
 後ろで声がして、二人は振り返った。刑事部屋はいくぶん遅めの昼食時で人が出払っており、部屋には彼らだけだったので、応対に出る者がいなかったのだ。
 廊下に立ってこちらを見ていたのは、三十歳前後の女性だった。クリーム色の半袖のスーツを着て、肩にショルダーバッグを掛けている。長い髪を顔の両側から引き詰めて、頭の後ろで編み込んでいた。派手さはないが、品の良い日本的美人だった。
「はい、何か」
 女性に目がない芹沢が立ち上がって近づいた。
「私、大阪市児童福祉課から来ました小林(こばやし)と申します。こちらで二人の児童を保護されたと伺いましたので」
「ああ、施設の方ですか?」
「いえ、私は市のものです。施設へは私が子供たちを連れていきますので」
「そうですか。ご苦労様です」
 芹沢は女性だけに見せることに決めている魅力的な笑顔を浮かべた。
「どうぞこちらへ」
「失礼します」
 小林は芹沢に促されて間仕切り戸を入ってきた。そしてバッグの中の名刺入れから名刺を取り出すと、刑事たちに一枚ずつ渡した。刑事たちもそれぞれに自己紹介をし、小林はそれに答えて二人に丁寧な会釈を返した。
「あの子たちですね」
 小林はソファーの二人を見て言った。
「そうです。田所亮介くん、七歳。妹の菜帆ちゃん三歳。今日の昼前、自宅アパートの部屋で二人きりでいるところを保護しました。母親はおとといから戻ってきていません」
 小林は子供たちを眺めながら説明を聞いていたが、やがて刑事たちに振り返り、ちょっと、と二人を兄妹から離れたデスクまで呼び寄せた。
「──母親が何かの事件に関係していると聞きましたが……」
「その点に関してはまだはっきりとは判明していませんが、いずれにせよずっと以前からたびたび子供たちを二人きりにしていたようです」
「つまり、保護責任者としての義務違反だと」
「そのあたりの判断は、そちらのような専門家とこっちの意見が一致するかどうかは分かりません。ただ、これからますますその心配が強くなることだけははっきりと言えますね」
 分かりました、と小林は頷いた。
「施設の方ですが、現在のところ、私どもの一時保護所では受け入れ態勢に余裕がないんです。他の保護所も当たったんですが、今のところ市内には見つからなくて。母親の失踪に事件性を否定できない以上、民間施設というわけにも行きませんし。そこで、やむを得ず委託保護施設でということになったんですが……府下も含めてあちこち手配しましたが、今日は週明けなので役所がどこも多忙で──」
「駄目でしたか」
「いえ、ご心配なく」小林は清楚な笑顔を見せた。「少々手間取りましたが、豊中市に見つかりました」
「そうですか」と鍋島はほっとしたような溜め息をついた。「あ、ただ──」
「何か?」
「妹の方が聴力障害児なんです」
 聞こえないとは分かっているものの、鍋島はつい声のトーンを落とした。「その施設、それでも受け入れてもらえますか?」
「まったく聞こえないんですか?」
「ええ、そうみたいです」
「そうですか──まあ、当面は大丈夫だと思いますよ」
「当面と言うと?」芹沢が訊いた。
「三歳と言えば、女の子なら最も良く言葉を覚えて、使いたがる時期です。そのあいだに然るべき教育を受けておかないと、そのままずっと他の障害児と比べても後れをとることになりますから。そういうことを考慮して、できるだけ早い時期に専門の施設に移さなくてはならないと思います」
「てことはつまり、あの兄妹はバラバラに?」鍋島は言った。
「可哀想ですけど、そういうことになると思います」
 小林は比較的冷静にそう答えた。
「でも、母親が失踪してしもて戻ってくる確証のない今となっては、たった二人きりの身内なんですよ」
「いいですか、ええっと──」
「鍋島です」
「鍋島さん」と小林は頷き、毅然として言った。「一時的な同情でおっしゃらないでください。私としても、二人一緒にいることが、本人たちにとってどんなに心強いかが分からないわけではありません。でも、私たちが第一に考えなければならないのは、子供たち一人一人の将来のためには今、何をするのがベストなのかということです。たとえ今は辛くても、本人たちがこれからの長い人生において困ることのないように、ちゃんと手を打っておいてあげること。それが私たち大人の仕事だと思うんですが、違いますか?」
 鍋島は黙っていた。その彼に芹沢が言う。
「二人一緒ってのも大切だろうけど、そうなったらどっちかが犠牲になっちまうんだよ」
「……分かったよ」と鍋島は言った。「俺にはあいつらに対する何の権利もない代わり、責任の方もここで終わりなんやからな」
「お分かりいただければ、それでいいんです」
 小林は少し困ったように微笑んだ。「では、子供たちを連れていきますから」

 そうして三人は面倒な書類上の手続きを済ませた。小林は二人に、兄妹を受け入れてくれる豊中の施設の住所と電話番号を教え、緊急の場合以外はなるべく自分を通して連絡を取って欲しいと付け加えた。
「──それでは、お手数かけました」
 両方の手で兄妹の手を取り、廊下に出た小林は刑事たちに言うと静かに頭を下げ、子供たちに微笑みかけながら階段へと歩いていった。兄妹の姿はどちらも淋しげで、亮介には疲れさえ感じられた。今まで、母親の代わりに耳の聞こえない妹の面倒を一生懸命見てきたのだ。そして今度は新しい環境の中に入っていって、兄は引き続き妹をかばってますます疲れることだろう。

「──俺らのやったことって、あいつらにしてみたら迷惑やったんと違うかな」
 階段から子供たちの姿が見えなくなったあと、鍋島はぼんやりと言った。
「二人がいずれ離ればなれになるからか?」
「それもあるけど……あのアパートで二人きりで暮らしてるのも、俺ら周りの人間から見たら可哀想に思うけど、あの二人はそれでも良かったのかも知れんと思えてさ」
「俺はそうは思わねえよ」芹沢は言った。「確かに、今はそれでいいかも知れねえけど、そんな母親のことだから、そのうちまた赤ん坊でも連れて帰ってきて、すぐに置いて出ていっちまわねえとも限らねえんだぜ。もしそうなったら、兄貴はどんどんキツくなるだけさ。妹が成長したって、耳が聞こえねえんじゃまったく手が離れてくれるわけでもねえしよ。だいいち兄貴だって、世間じゃまだまだ頼りないガキもいいとこだろ。そんな子供に親代わりなんて到底できっこねえんだよ」
「……相変わらず、おまえは何でもそうやって感情抜きで考えられるんやな」
「人を冷血人間みたいに言うなよ」
 芹沢は苦笑したが、すぐに俯いた。「……あいつらを見てると、哀れすぎて何だか逆に腹が立ったんだ」
 鍋島は呆れたように笑って芹沢を見た。「おまえは屈折してるな」
「そう言うおまえだって、ただ純粋にあの兄妹に同情したんじゃねえくせに」
「何やそれ、どういう意味や」鍋島は興味深げに腕を組んだ。
 そんな鍋島を芹沢は真顔になって見つめ、それから言った。
「あの兄妹に、自分と純子ちゃんをだぶらせて見てたんだろ」
 鍋島は何も言わずに俯いた。


 その夜、鍋島はアパートのベッドの上で、缶ビールを飲みながら昼間の出来事を思い出していた。
 確かに芹沢の言ったとおりだった。亮介と菜帆に、自分と妹の純子の姿を見ていたようだ。歳も同じ四つ違いだったし、菜帆が亮介にまとわりつく様子が、母親を失ったばかりの頃の純子を思い起こさせた。そして何より、アパートの部屋に踏み込んだときの亮介のあの目だ。絶望の闇に突きとされた者の、あの眼差し。
 とはいえ、七歳の頃の鍋島にはちゃんと家族がいたし、もちろん学校にだって行っていた。純子も言葉を覚えて良く喋り、うるさくなってきた頃だった。どこにでもあるごく普通の家庭で、特別裕福ではなかったが逆にこれと言った不幸にも見舞われず、今から思えば三年後の母親の発病が家族にとって初めての苦難だったのだ。
 やがて長い闘病の末、母親は三十八歳でこの世を去った。胃癌だった。臨終のとき、純子が母親の手を取って泣きじゃくり、いつまでも離そうとしなかったのを親戚の誰かが剥がすようにして諦めさせたのを鍋島は覚えている。妹に先に泣かれて、自分は泣けなかった。男だし、兄だし、泣いてはいけないと思った。その兄の決意を敏感に感じ取ったのか、翌日から純子は彼にぴったりとくっついて離れなくなった。相変わらず泣いてばかりで、しばらくは言葉らしい言葉を口にしなかった。それでも彼には妹の気持ちがよく分かった。何が言いたくて、何をして欲しいのかが、涙で溢れた彼女の目を見ればすぐに理解できたのだった。ただ、不幸にもその代償として──彼はそれ以降、女性の涙に圧倒的恐怖感を抱くようになってしまったのである。

 あの頃の自分たち兄妹の様子が昼間の亮介と菜帆の姿と重なって、鍋島は二人にひどく同情した。ましてや歳はあの二人の方がずっと小さい。帰ってくるかどうか分からなくても、母親を待っていたいという気持ちは当然だろう。鍋島だって、母親が死んだあとになっても、病院へ行けばまた会えるかも知れないと本気で思ったことが何度かあった。
 鍋島は大きく溜め息をついて身体を倒した。あの兄妹はこれから先どうなるのだろう。このまま母親が戻らない場合は、小林の言うようにいずれは別々に暮らすことになるのだろうか……。

 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。鍋島は身体を起こし、そばの目覚まし時計を見た。十時三十五分だった。
 ドアを開けると、立っていたのは麗子だった。
 麗子は小刻みに身体を震わせ、バッグの紐をしっかりと握り締めていた。涙のいっぱい溜まった瞳で、鍋島をじっと見つめている。そして小さく首を振り、消え入りそうな声で言った。
「……間に合わなかったの……」
 ここにも一人、母親を失ったばかりの哀しみに耐えかねている娘がいたのだ。
 鍋島は急激に襲ってくる不安を何とか無視しようともがきながらもゆっくりと麗子の前に進むと、黙って彼女を抱き寄せた。

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