2-②

文字数 3,168文字

 法善寺横町(ほうぜんじよこちょう)にある寿司屋のカウンターで、芹沢は一条と冷酒を酌み交わしていた。
 芹沢とつき合いはじめてから一条が大阪へ来るのはこれで三度目だったが、そのたびに彼女はこうして、どちらかと言えば若い男女のデートには似つかわしくない場所へ来たがるのだった。大阪に暮らして六年目になる芹沢はわざわざそんなところへ行きたくはなかったのだが、彼女が大阪らしいと言って喜ぶのだから仕方がなかった。
 しかもそれはまるでお姫様が窮屈なお城を抜け出して城下に現れ、めずらしい庶民の暮らしぶりを見て喜んでいるようで、正直なところ、芹沢には何となく気に入らなかった。その反面、可愛いお姫様の望みとあらば、何でも叶えてやりたいとも思っていた。

「──昼間は驚いたわ」
 一条は微かに笑って言った。
「何が?」
「彼女をぶつなんて」
 ああ、と芹沢は頷いた。「コンプライアンスも何もあったもんじゃねえよな」
「まあ、それはそうね」一条は肩をすくめた。「ちょっと感情的でもあったし」
「事情を知らねえからそんなことが言えるのさ」
「違うわよ、彼女が悪くないって言うんじゃないの。ただ──あなたが手をあげるなんて考えられなかったから」
「おまえも聞いたろ。自分の子供の障害のことをあんな風に言うんだぜ」
 芹沢は思い出してまた腹を立てているようだった。「それに……俺がやらなくたって、そのうち鍋島がやってたさ」
「確かに、無責任な母親だったわね。今度のことは子供たちのためにやったなんて言ってたけど、到底信じられる話じゃないわ」
「そうなんだよ。けどあんな女でも、子供たちにとっちゃ母親には違いねえんだからな」芹沢は溜め息をついた。「あいつら今頃きっと、鍋島から母親が見つかったって聞いて喜んでるよ」
「名残惜しい? 子供たちと別れるの」
「まさか」と芹沢は肩をすくめた。「それも事情を知らねえから言えるんだ。俺たちがどれだけあいつらに翻弄されたか」
「そうかしら?『心ここにあらず』って感じよ」
「冗談言うなよ」
 芹沢は力なく笑い、すぐに真顔になった。「──確かに、最初とはずいぶん違う気持ちにはなってるけど。はじめはほんとに、ただ厄介な連中とだけ思ってた。兄貴はしっかりし過ぎて勝手なことばっかりするし、素直そうな妹は何言っても聞こえてねえし喋れねえし……早くこんな状況から解放されたいって、そればっかり考えてたよ。けど、妹を気遣う兄貴の献身的な姿を見てるうちに、こっちの態度を反省させられちまってさ。だって、健気なんてのを通り越して、痛々しいくらいなんだもんな」
「子供って、本当にそうなのよね。最初のうちはこっちも自分の子じゃないからとか子供が苦手だとか言ってちっとも可愛がろうとしないのに、そのうちいつの間にか、そんなことは忘れて引き込まれている自分に気がつくの。我が子ならそんなためらいなんてないものだろうけど、他人の子でもやっぱり可愛いものなのよ」
 一条は目を細めた。「……知らないうちに、こっちの心を掴んでるのね。純粋で、汚れがなくて──大人なんかよりずっと神に近いところにいるんだって気がしてくるわ」
「振り回されてるこっちの器が小さいのかもな」
「そんな風に考えるようになるものなのね」
 一条は嬉しそうに微笑んだ。
 芹沢も一条を見ると穏やかに笑った。そしてしばらくのあいだ、二人は黙って酒を飲んだ。
「──ねえ、貴志」
 空になったクリスタルのぐい飲みを見つめたまま一条は言った。
「うん?」
「本当に帰らなくていいの?」
「どうしたんだよさっきから」芹沢は分からないなと言うように首を振った。「俺がそう思ってるように見えるのか?」
「だって──あなたがほんとに今さっき言ってたような気持ちになったんだったら、最後までそれに正直になった方がいいと思うから。子供って、すごく敏感だから、あなたのそんな気持ちをちゃんと分かってると思うし、逆に裏切っちゃうとそれもすぐに感じ取るんじゃないかしら」
「せっかくおまえが来てるのに?」芹沢は困ったような笑顔を見せた。
「あら、勘違いしないで。わたしは仕事で来たのよ。暇さえあれば女の子のお尻ばかり追いかけてるどこかの刑事さんが、今回はめずらしく女を見逃しちゃったんで、わたしが代わりに見つけて、わざわざ連れてきてあげたのよ」
「みちる……」芹沢は溜め息をついた。
「その代わり──」一条は言うとすぐに俯いた。
「え?」
「ちゃんと、わたしのことだけ見てて欲しいの」
「何言ってんだよ、見てるじゃないか」
「そうかしら」
「鍋島の言ったことを気にしてるのか? あれはほんの冗談で──」
「いいえ、わたし分かるのよ。今まで、離れてるから仕方がないと思ってたけど……やっぱりわたし、嫌なの。あなたがいつもその瞳の端っこで、他に何か愉しいことはないかって捜してるのが」
「そんなわけないだろ」
「たまにしか逢わないから分からないと思ってるんでしょ? それは逆よ。たまにしか逢わないから分かるの」
 一条はここでやっと笑顔になった。「まあ、刑事なんかを相手に選んじゃったことを後悔するのね」
 芹沢は何も言うことができなかった。一条に図星を突かれたからと言って、それですぐにでも自分の姿勢が改まるとは思わなかったが、少なくとも今の自分にとっては彼女が必要だと思っていたし、その彼女がそんな風に考えていたのが少しショックでもあった。
「すみません、お酒をもう一本お願い」
 一条がカウンターの中の板前に言った。
「へい」
 凛々しい眉に彫りの深い顔立ちの板前は威勢良く返事をした。
 芹沢は短い溜め息をつくと、自分の気持ちを確かめているかのようにまっすぐ前を見つめて冷酒のグラスを握りしめる一条を見て言った。
「──帰らねえよ」
「えっ?」
「あいつらは嫌いじゃないさ。けど、俺は子供より女の方が断然好きだから」
 そう言うと芹沢はにっと笑った。
「貴志……」
「強がってるの、バレバレだぜ」
 一条は一瞬、泣きそうな表情になり、何も言わずに肩をすくめた。
「ほらな」と芹沢は笑った。「そんな顔で見つめられて『じゃあな』なんて席を立てるやつがいたらお目にかかりてえよ」
「……わざとじゃないもん」一条は口を歪めた。
「分かってるよ。要は素直じゃないんだよな」
 芹沢は嬉しそうに言うと自分をじっと見つめている一条のおでこをちょんと指で弾いた。「その代わり、明日のことで鍋島に連絡入れさせてくれるよな?」
「……うん」芹沢に言われたせいか、一条は素直に頷いた。
 芹沢は片目を閉じて一条に微笑むと、携帯電話を取り出して立ち上がった。ボタンを押し、耳に当てながら狭い店内を横切って格子戸へ向かった。
 一条は嬉しさを隠しきれない様子でその後ろ姿を見送り、格子戸が閉まると手許に視線を戻して小さく息を吐いた。
「──お客さん、甘いねえ」
 板前に話しかけられ、一条は驚いて顔を上げた。「えっ?」
「あのお兄さん、そう簡単には治りそうにもありませんで」
 と板前は手際よく寿司を握りながら言った。「あれだけの男っぷりしといて、真面目に人生過ごすアホがどこにいてます?」
「やっぱりそう思う?」
 一条は面白そうに笑って板前を見た。「それは分かってるつもりなんだけど、ついつい丸め込まれちゃうのよね。諦めた方がいいのかしら?」
「けど、そない無茶苦茶な遊びはせんのでしょう?」
「たぶんね」
 板前は一条をちらりと見ると、すぐに手許に注意を払った。
「まあ、お姉さんが好きやったらしゃあないな」
「惚れた弱み、ってやつ?」
「そう、惚れた弱み」
 俯いた板前の口許から白い歯がこぼれた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み