2ー①

文字数 4,178文字

 少年の名前は田所亮介(りょうすけ)、少女は妹の菜帆(なほ)と言った。
 二人は異父兄妹で、田所杏子がホステスになって十年の間に店の客や従業員との間に産まれた子供だった。長柄のあのアパートには亮介が生まれてすぐの七年前に越してきて、そのとき彼女はすでに亮介の父親とは別れていた。そしてその四年後には菜帆が生まれたが、杏子はそのあいだ一度たりとも男性を部屋に連れてきたことはなかったという。
 だらしない性格の彼女は子供たちの面倒をほとんど見ず、二人を置いたままよく部屋を空けていたらしい。それでも人情味溢れるアパートや近所の人たちのおかげで子供たちは何とか今まで無事に育ち、最近は亮介もしっかりしてきたので皆はあまり世話を焼かなくなったと、アパートの大家は話してくれたのだった。
 杏子はここ一ヶ月ほどアパートでは寝泊まりしておらず──そのあいだは上島のマンションで暮らしていたことは警察の調べで分かっている──たまに姿を見せても一時間もしないうちにまた出ていってしまうということだった。大家も子供たちの将来を心配して、しかるべき施設へ預けた方が良いのではないかと考えた。しかしそうやって時々は杏子が戻ってくるし、また家賃が滞っているわけでもなかったので、可哀想だと思いながらも結局はそのままにしておいたのだった。

 しかし、二人を保護した警察としては大家と同じように考えるわけには行かなかった。
 親がきちんと面倒を見ていない子供をそのままにはできない。母親が戻ってくる保証はないし、それどころか犯罪の容疑者と一緒に逃げてしまった可能性がある。ここは心を鬼にして──警察の得意とするところだ──というより規則に従って──これも公務員ならお手のもの──二人を児童相談所に預けることにしたのだった。

 鍋島と芹沢の二人は今、刑事部屋の奥に陣取る来客用のソファーに二人の子供を座らせ、自分たちも向かいに腰を下ろしてじっと腕組みをしていた。児童相談所からの迎えが来るのを待っているのだった。
「──本来なら、これは豊崎(とよさき)署の仕事だよな」
 芹沢が言った。
「ああ。今度の事件との絡みさえなかったらな。長柄は豊崎署の管轄や」
「それがある以上、うちの責任ってわけか」
「それがなくても、こいつらを見つけたんは俺らやし、どっちにしても俺らの仕事はなくならへんってことや」
 そして鍋島は深く溜め息を漏らして子供たちを眺めた。
「なあ、気づいてたか? この坊主」
「ああ。この前のガキだろ」
 芹沢は前屈みになり、亮介の顔を覗き込んだ。「おい、おまえおととい万引きしただろ。天六のコンビニで」
 亮介はぷいと顔を背けた。
「とぼけるんやないで。俺にぶつかってきといて、謝りもせんかったやろ」
 鍋島が追い打ちをかける。
 亮介は二人を交互に見て、はっとしたように目を見開いた。
「思い出したか」鍋島はにやりと笑った。「また会えて嬉しいよ」
「見たんか? 僕が盗むの」
「……見上げたもんだぜ。いっぱしのスリみてえな口を利きやがる」
 芹沢はふんと鼻で笑った。
 鍋島は肩をすくめた。「ところで坊主、学校はどうしたんや?」
「行ってへん」
「何でや」
「何でって──」
「オフクロさん、手続きしてねえのか?」
「……知らん」
 と亮介は俯いた。母親のことを訊かれて、つい心細くなったのだろう。
「学校からは何の連絡もなかったのか?」
「知らんと言うたら、知らんのや」
「……なんて親だ」と芹沢は首を振った。「ヤりっぱなしの産みっぱなしってやつだぜ。生まれてきたガキの方はいい迷惑だよな」
「そういう言い方はやめとけ。子供の前や」
 鍋島がたしなめると、芹沢はまたふんと鼻を鳴らした。
 すると亮介が顔を上げ、芹沢をじっと睨んだ。
「何だよ、その(ツラ)。何か文句でもありそうだな」
「……お母ちゃんのこと、悪う言うな」
 そう言った亮介を芹沢は腕を組んでじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「おまえらをこんな目に遭わせてるのは、その母ちゃんなんだぜ」
「お母ちゃんは悪うない」と亮介は下を向いた。「ときどきしか帰ってけぇへんけど、帰ってきた時は僕らに優しくしてくれる」
「母親なんだから当たり前さ。だからって、それでいいはずがねえだろ」
「僕らはそれでええんや」
「……ふん、良くできたお坊っちゃまだよ、おまえさんは」
 そう言うと芹沢は鍋島と顔を合わせ、二人は同時に溜め息をついた。
 そんないい加減な親でも、子供の方はしっかりと育ち、親を慕う。親子の絆なんて、その関係の形態に関わらず、それほど強いものなのかも知れない。
 鍋島が訊いた。「お母ちゃんがどこへ行ったか知らんか?」
「知らん」
「お母ちゃんの身の安全にも関わる重大なことなんやからな。隠し立てするんやないで」
「嘘と違う、ほんまに知らんのやもん」
「ほな、最後にお母ちゃんが帰ってきたのはいつや?」
「土曜日」
「土曜日って──おとといの土曜か?」
 亮介は頷いた。
「殺しのあった日だ」芹沢が呟く。
「何時頃?」
「夕方。四時くらい」
「何しに帰ってきたんや?」
「別に……何も」
「何や、何か隠してるな」
「何も隠してへん」
「金をくれたんか? それやったら、取り上げたりせえへんよ」
「金もらってたら、その夜すぐに万引きなんてしねえよな」
「ああ……そうか」と鍋島は頷いた。「ほな、何か特別なこと言うてなかったか? これからどこかへ行くとか、誰かに会うとか」
 亮介は首を振った。「何も言うてへんかった。いつもと一緒のことしか」
「いつもと一緒って、どんなことや」
「『何か変わったとこはない?』とか、『菜帆は風邪ひいてへん?』とか」
「それだけ言うて、また出ていったんか?」
「……うん」
「……信じられん」鍋島は呆れて芹沢に振り返った。「それが子育て?」
「かと言って、本当のことが言えるかよ」
 鍋島は再び亮介に向き直った。「──で、次はいつ帰って来るって言うてた?」
「…………」
「はっきりとした日でなくてもええんや。一週間後とか、十日後とか」
「何も言うてなかった」
「ほな、普段やったらだいたい何日後に帰ってくる?」
「分からへん。すぐに帰ってくるときもあるし、二週間あとのこともある」
「いつもそうなのか?」芹沢が訊いた。
 亮介は頼りなげに頷いた。
「……そうか」
 亮介は顔を上げ、すがるような眼差しで鍋島を見た。「なあ、お母ちゃんに何かあったん?」
「いや、それは──」
「お母ちゃん、悪いことしたん?」
「それもまだ分からねえ。今のところ、おまえの万引きの方が重罪だな」
 芹沢が答えた。「だからしばらくは施設でおとなしく待ってるんだな。うまく万引きやって食いつないでるつもりでも、そのうち見つかってパクられちまうからよ。そうなったら今度は妹とまで離れなきゃならねえんだぜ」
 亮介は黙っていた。万引きのことをまだとぼけようとしているようだった。
「施設だったら、ちゃんと学校へも行かせてもらえるよ。まだ二学期が始まったばかりだろうし、その気になりゃすぐに追いつけるだろ」
「……施設なんて行きとうない」亮介はぽつりと言った。
「行きたいとか行きたくねえとか、今はおまえの希望が通る状況じゃねえんだ。だいいち、施設に行きたくていくやつなんていないぜ。USJじゃあるまいし」
「でも施設って、お父ちゃんやお母ちゃんのいてない子供が行くとこと違うの? 僕らにはお母ちゃんがいてるもん」
「その母ちゃんがどこで何やってるか分からねえんだから、仕方ねえじゃねえか」
「戻ってくるよ」
「そんなこと、どうして分かるんだよ」
 亮介の視線が泳いだ。「……いつもそうやから」
「いつもはどうだか知らねえけど、今度はそうはいかねえだろうな」
「……それでも、戻ってくる。僕には分かるんや」
「はいはい、親子の情愛ってやつですか。美しすぎて涙が出るぜ」
 芹沢は言うとうんざりしたように顔をしかめて鍋島に振り返った。「……冗談じゃねえ。ガキの話し相手なんかしてる場合かよ」
「いつ戻ってくるか、お母ちゃんはおまえらに言うて出ていったんか? 言うてないんやろ?」
 亮介は俯いた。
「とにかく、今は俺らの言うこと聞いてしばらく我慢するんや。おまえの言うとおりにお母ちゃんが帰ってきたら、そのときはまた一緒に暮らせるやろうし」
 亮介はようやく頷いた。
「ところで、こっちのチビさんはいくつなんや?」
 さっきから大きな目をくるくると動かして、二人の刑事を交互に見つめている菜帆に向かって鍋島が言った。
「三歳」亮介が答えた。
「三歳か。腹減ってないか?」
 菜帆は左の親指を口の中に入れたまま、潤んだ瞳で鍋島を見つめていた。
「指咥えてるから、減ってるんじゃねえか」
「ほな、婦警のお姉ちゃんに何か買うてきてもらおか? 何が食べたい?」
 しかし菜帆は何も答えなかった。三歳ではまだうまく喋れないだろうが、それにしてもまるで無反応で、人形のように可愛らしいきょとんとした顔で、鍋島をじっと見ているだけだった。
「……嫌われてしもたみたいやな」
 と鍋島は苦笑して身体を起こした。「無理もないか。最初の出会いがあれでは」
「聞こえてないんや」亮介が言った。
「え?」鍋島は亮介を見た。「聞こえてないって、まさか──」
「菜帆は生まれつき耳が聞こえへんのや」
 亮介はさらりと言って菜帆を見た。「声かて、変な声しか出せへんし」
「…………」
 二人の刑事は言葉を失った。父親は始めから不在、母親は自分たちを捨てて男と逃げた疑いがある。二人のうち兄は気丈で頭も良さそうなのに小学校へも行けず、妹にいたっては先天性の聴力障害があると言う。こんなにも多くの困難がこの兄妹の身に降りかかっているなんて、まったく神も仏もあったものではない。
「……マジかよ」と芹沢は吐き捨てた。
「……とにかく、施設に行ったら何とかしてもらわんとな」
 鍋島もそう言うのがやっとだった。
 亮介は目の前の大人の頼りない反応に、ああ、やっぱりそうかと言わんばかりの諦めに似た表情を浮かべて頷いた。

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