1-①

文字数 3,389文字


 初めて見た人なら、震えが止まらなかったかも知れない。

 人が一生のうちに死んだ人間を見る回数なんて、そう多くはないはずだ。しかもそのほとんどが身内や知人の死に立ち会ったときで、そういう場合の遺体は顔色こそ生きた人間とは違って青白く変わってはいるが、他はいたって綺麗なものだ。それがかえって生命の儚さや死というものの無情さを呼び起こすこともあるだろうが、かと言って目を覆いたくなるほどの気味の悪さはまずないだろう。

 ところがその死体は、そんな誰もが一度や二度は見ることのある「穏やかな」死体とはまるでほど遠いものだった。
 バーやスナックの袖看板が軒並みに連なる雑居ビルの裏手の狭い路地の、積み上げられたビールケースと生ゴミから出た汁の汚れがこびりついたポリバケツの間で、三十歳くらいの男が、醜く腫れあがった顔をアスファルトの地面に擦りつけて倒れている。髪の生え際から広い額に掛けて固まった血が赤黒く肌を汚していた。右腕が肘から外側に不自然な曲がり方をしており、おそらく骨が折れているものと思われた。
 そしてこの死体の最も醜いところは、男の内臓がまだ働いていた頃に彼がまき散らしたと思われる血と胃の中のものとの混合物の存在だった。襟元が大きく破れた男の衣服を汚しているだけならともかく、辺り一面に飛び散っているのだ。強烈な臭いこそもう薄れてはいるものの、風が吹くとやはりまだ少しは臭う。朝、出かける前のテレビの天気予報で、昨夜は平年より五度以上も気温が下がり、九月の一週目にしてはかなりの冷え込みだったと言っていたが、そうでなければ──あるいはこれがもう一週間早ければ──この狭い路地には男の死臭と嘔吐物のひどい臭いがいまだに充満して、とてもではないがこうして近づく気にはならなかったかも知れないと鍋島は考えた。
 それでも鍋島は世間の多くの人間とは違っていくつもの「穏やかではない」死体を見ていたし、それに馴れてもいた。出勤前に植田課長から電話が入り、この現場へ急行するようにと命じられ、朝からあまり気分の良いものではないなと思ってアパートを飛び出したが、刑事課の中でも強行犯を担当する一係に所属している以上は、いちいち死体を見るのを嫌がっていては仕事にならない。頭の中でそうきちんと割り切れているわけではなかったが、鍋島はその男の死体を見てもたいして気分は悪くならなかった。

 芹沢にいたっては、まるでその死体が人形だとでも思い込んでいるような冷静さだった。
「──あれま、お行儀が悪いったらありゃしねえな」
 芹沢は死んでいる男を見下ろして言った。少し丈が短く、光沢のある明るい煉瓦色の半袖シャツにベージュのパンツを合わせ、焦げ茶色のメッシュのショートブーツを履いている。派手さはないが確かに洗練されており、刑事と言うよりはオフタイムのビジネスマンと言った感じだった。
「……相当酔うてたみたいやな」
 鍋島が呟いた。彼の方は白地にストライプのシャツに黒のジャケット、クリーム色のパンツという、彼にしてはめずらしく改まった格好をしていた。
「で、

は先に来て、もう帰ったって?」
 芹沢はそばにいた制服警官に訊いた。
「ええ。先ほどまで三班の方が数人来られてたんですがね。巡査部長たちが到着されるちょっと前に帰りました」
「また西天満署(うち)に任せるってか」
「……ええ」
 と制服警官はまるで自分が責められているかのように顔を曇らせた。
捜査一課(あちら)さんに手間を取らせるほどの事件やないってことやろ」
 鍋島は慣れっこさと言わんばかりに頷いた。
「本音は別のところにありそうだけど」
 芹沢は言いながらあたりを見回した。「発見者は?」
「あの男ですよ」
 制服警官の示した方向に視線を移すと、ランニングにジョギング・パンツ姿の二十歳過ぎの男が別の制服警官と話していた。
 芹沢は男に声を掛けた。「あの、発見者の方ですか?」
「ええ」
 男が頷いたので、二人は彼のところへ近づいていった。男もそばの警官に促されて二人に歩み寄った。
「お名前は?」
野本(のもと)です。野本(ゆずる)」男は答えた。
「この近所にお住まいなんですか?」
「うちはここからもう一筋向こうのボロアパートです。一階に麻雀屋が入ってて、汚くてうるさいとこです」と野本は顔をしかめた。
「そうですか」と芹沢は苦笑した。「発見されたときの状況ですが」
「僕、毎朝ジョギングするのが日課になってるんです。今朝もアパートを出てこの前の通りを通ったら、普段はきちんと片づいてるこの路地にゴミ箱が転がってたりビールケースが倒れてたりしてたもんで、野良猫にしてはちょっと派手な散らかし方やなあと不思議には思ってたんです。でも別に自分の働いてる店の前がそうなってるわけやないから──」
「自分の働いてる店?」
「あ、僕、そこのお好み焼き屋でバイトしてるんです」
 と野本は路地を出て真正面にあるビルの一階に入った店を指差した。ぴたりと閉められた格子戸の上の看板には、かなり太い毛筆で書かれたような『お好み焼』の文字が踊っていた。
「分かりました。それで?」
「あ、はい、ええっと──」
「自分の店の前が散らかってるわけじゃないからって」
「そう、そうです。だからわざわざ片付けんでもええかなと思て、そのまま通り過ぎました。それからジョギングを終えてまたここへ戻ってきたら、最初には気がつかへんかったけどポリバケツの間から人間の足みたいなものが出てるのが見えて、もしかしたら酔っ払いが寝てるのかなってここへ入ってきたんです。そしたら──」
「このありさまやった」と鍋島が受けた。
「え、ええ、そうです」
 野本はそのときの様子を思い出したのか、身震いしてから頷いた。
「何時頃でした?」
「時計は見なかったけど、七時五十分かそこらやったと思います。いつも七時にはジョギングを始めて、終わってアパートに帰るのが八時数分前やから」
「あたりで不審な人物を見かけたとか言うようなことは? ジョギング中でも結構です」
「いえ、特には。この辺は飲屋街やから、朝はまるで人通りがないし、誰かいたら気がつくはずです」
「そうですか」と芹沢は言った。「じゃあ昨夜のことですけど、野本さんはあのお好み焼き屋さんでお仕事を?」
「はい」
「お仕事を終えて店を出てこられたのは何時でしたか」
「十二時前でした」
「そのとき、この路地で変わったことは?」
「特に気をつけて見てるわけではないんで確信はないですけど……別に何もなかったように思います」
「大声とか、悲鳴とかは聞かれませんでした?」
「そんな声はしょっちゅうですよ。この辺は」
 野本は顔を歪めて笑った。「ゆうべも十時を過ぎたら、通りはそんな声ばっかりでした」
「確かに」と芹沢も笑った。「分かりました。また後で何かお訊きすることがあるかも知れませんが、ここはもう結構です。ありがとうございました」
 野本は軽く頭を下げると、少し離れたところで横たわっている死体が視界に入らないようにしたいらしく、不必要なまでに顔を大きく背けながら路地を出ていった。

「夜中のうちに落ちたんだな」
 芹沢はもう一度死体を見下ろし、それから上を見上げた。
 そこには雑居ビルの外階段があった。人一人が下りるのがやっとの狭い鉄製の階段で、踊り場も小さかった。各階に続くドアはほとんど使われていないらしく、前に段ボールが置いてあったり、ドアノブと壁の外枠が針金のようなものでくくりつけられたりしていた。
「酔っ払って足を踏み外したってとこか」鍋島が言った。
「そうだといいけどよ」
 芹沢は死体のそばにしゃがみ込んだ。相変わらず平然とした顔で今度は死んだ男が着ている上着の内ポケットを覗き込んだ。
「……おまえもようやるな」
 鍋島は芹沢の様子を眺めて腕を組み、顔をしかめた。
「どうってことねえさ」芹沢は言った。「お、いいもん見つけたぜ」
「何や」
 芹沢は手袋をした手で男の懐から数十枚の紙幣を取り出し、鍋島に示した。
「わっ、金持ち。いくらある?」
「えっと──」芹沢は紙幣を数えた。「三十八万六千円」
「何モンや、こいつ」鍋島は男を見下ろした。
「見たところ、すっ堅気とは言いにくいな」
 立ち上がった芹沢がちょうどそばを通り掛かった鑑識課の係員に紙幣を渡し、二人は死体のそばを離れた。そして路地を出たところで、遅れて到着した島崎(しまざき)良樹(よしき)巡査部長に出くわした。

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