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 それから二人は非番をもらった。植田課長は小言や嫌味は多いが言ったことは必ず守る人物だったので、二人は翌日からの張り込みのローテーションからも外された。
 やがて純子が車で署を訪れた。芹沢の強い要望で結局鍋島も彼のマンションで同居することになってしまい、彼女は兄の荷物もアパートから運んできた。
 そして三人は芹沢のマンションに向かった。

「──なあ、どうしても俺もおまえんとこに泊まらなあかんのか?」
 鍋島は納得のいかない様子で運転席の芹沢に言った。
「往生際が悪いよ、お兄ちゃん」
 田所兄妹と後部座席に座っていた純子が答えた。「芹沢くんだけに子供たちを任せるなんて、男らしくない」
「そうだぜ。やっぱり、純子ちゃんだけは俺の気持ちをよく分かってくれてるよ」
 芹沢は嬉しそうに言うと純子に振り返った。「なあ、本当にもうすぐ結婚しちまうのか?」
「何を言うてるんや、おまえは」鍋島は芹沢の肩を突っついた。
「もったいねえって言ってるんだよ。こんな可愛い子をみすみすよその男に取られちまうのはよ」
「芹沢くんにそう言われると、何か決心が揺らぐわぁ」
 純子は頬を赤らめた。
「純子、おまえもいらんこと言うな」
「ええやん。言うだけやったら罪ないでしょ」
 純子はおどけて言った。「ねえ、もし今結婚をやめたら、代わりに芹沢くんがあたしのこともらってくれる?」
 芹沢は意味ありげに笑った。「もらいてえのはやまやまなんだけどよ。純子ちゃんにはめんどくせえ兄貴がいるからな」
「うるさい」
「おまえがいつまでもぐだぐだ言ってるからだろ?」
 芹沢は鬱陶しそうに振り返った。「どうしても嫌だって言うんなら、別に泊まらなくても構わねえさ。俺だって野郎なんかと一緒に暮らしたかねえからな。ただし、メシはきっちり作ってもらうぜ」
「ちぇっ、結局はそれが目的か」
「当たり前だよ。おまえが作らねえで誰が作るって言うんだ」
「おまえでもええやないか。どうせこいつら今までろくなもん食うてへんかったんやから、おまえの作ったもんでも上等やろ」
「俺は部屋を提供してるんだぜ。それ以上はごめんだよ」
「お兄ちゃん、ええやない。お兄ちゃんの料理の腕前は誰かて高く買うてるんやから」
「……俺はこいつらの飯炊き男やないっての」

 車がマンションの前に着いた。鍋島と芹沢はトランクから山ほどの荷物を出して両手一杯に抱え、純子は亮介と菜帆の手を引いて七階に上がった。 
 部屋に入り、鍋島と芹沢が荷物の整理──と言っても空いた場所にただ無造作に並べるだけだったが──をしているあいだに純子は近所のスーパーで数日分の食料を買ってきた。そして自分も早く戻って食事の用意をしなければならないのだと言い、明日からの通勤に必要だからと車を置いて豊中へ帰っていった。


 ダイニングの掛け時計は午後六時二十分を指していた。テーブルの席に着いて鍋島が夕食を作るのを待っているあいだ、芹沢は隣に座らせた亮介に言った。
「いいか、今から俺の言うことをこれからずっと守るんだぞ」
 亮介はぼんやりと芹沢を見上げた。
「まず、自分のことは自分でやれよ。俺はおまえらの親父でも何でもねえんだし、おまえらの世話を焼くつもりなんてねえからな」
 芹沢は言うと亮介の向こうに座った菜帆を見た。「チビの面倒もおまえに任せるぜ。おもらしやおねしょなんて死んでもさせるなよ」
 亮介は黙って芹沢の言うこと聞いていた。
「それから、俺たちの仕事中は二人でおとなしく署にいるんだぞ。昼メシは署で食わせてもらえるし、金だって少しは渡しといてやるよ。ただし、領収書の出ねえもんは買うなよ」
「りょうしゅうしょって?」
「レシートのことさ。万引きばっかりやってるから知らねえんだろ」
「どんなものが、そのレシートをもらえへんの?」
「どんなものって──そうだな、自動販売機で買うものなんかそうだよ。ジュースとか、アイスのやつもあるな」
「芹沢、細かいぞ」キッチンから鍋島が言った。
「細かくて当然さ。慈善事業じゃねえんだし」芹沢は振り返った。「おまえにはローンってものがねえからそんな悠長なことが言えるんだよ」
「はいはい、分かりました」
「あと、一番大事なことを言っとくけどな。間違っても逃げ出そうなんて考えねえことだぜ。アパートに帰っても、もうおめえんとこのあの部屋は住めるような状態じゃねえんだから」
「なんで?」
「おまえの母ちゃんの知り合いらしいのが、部屋を滅茶苦茶にしちまったんだ」
「なんで? なんでそんなこと?」
「知らねえよ。母ちゃんに逃げられてキレちまったか、それとも何か探してたか」
「それ、ほんま……?」
「ああ。それが見つかったのかどうかも分からねえし、気をつけねえとおまえらの命も危ねえかもな」
「おまえが脅かしてどうするんや」
 キッチンの鍋島が手許に視線を落としたまま言って笑った。
「これくらいは言っとかねえとな。こいつには逃亡の前科(マエ)があるからよ」
 そして芹沢は亮介に向き直り、「分かったな?」と言った。
 亮介はゆっくりと頷いた。
「ほらできたぞ、亮介、取りに来い」
 亮介は高くて足の届かない椅子からずり落ちそうにして下りると、カウンターの前に並んだ丸椅子の一つに上がって、鍋島からパスタの盛りつけられた皿を受け取った。小さな手でしっかりと掴んだ皿を顔の前あたりで掲げ、ゆっくりとテーブルに戻って来た。
「ほら、やっぱこういうのは俺には作れねえ」
 亮介がテーブルに置いた具のたくさん入ったミートソースのパスタを見て、芹沢は感心しきりで言った。
「それは子供の分やぞ。俺らはこっち」
 鍋島は両手に持ったパスタ皿をカウンターに置いた。そちらはペペロンチーノだった。
 亮介は鍋島が作った料理をせっせとテーブルに運んだ。パスタの他にクレソンと人参のサラダ、アサリのズッパ、トマトとツナのガーリック・トースト、茄子のチーズグラタンなど、亮介にとっては初めて目にするものばかりだった。
 もちろん、菜帆も同じだ。大きな目をいっぱいに開け、隣の兄が食べさせてくれるのをじっと待っている。鍋島も芹沢も小さい子供に食事を食べさせた経験がなかったので亮介に任せていたが、菜帆は三歳のやんちゃ盛りにしてはとてもおとなしく、女の子で、口が利けないということを差し引いてもそのお行儀の良さは感心するほどだった。
「どう、美味い?」
 白ワインをグラスに注ぎながら、鍋島は正面に座った亮介に訊いた。亮介は口一杯にパスタを頬張っており、声を出して返事ができないので黙って頷いた。
「ほんと、おまえの料理は美味いよ」と芹沢が言った。「刑事を辞めたって、ちょっと修業すりゃこれで食っていけるんじゃねえか?」
「考えてみてもええな」鍋島はまんざらでもなさげに頷いた。
「何で、そんなに上手なん?」と亮介が訊いた。
「まずは作るのが好きやから」と鍋島はにっこりと笑った。「それから──母親が早くに死んで、さっき来てた妹が大きくなるまではずっと俺が作ってたし」
「死なはったん? お母ちゃん」
「うん。俺がおまえより六つほど年上のとき。中学一年やった」
 ふうん、と亮介は俯いたが、すぐに顔を上げた。「なんで?」
「病気」
「病気って、なんの病気?」
「言うて分かるんか?」と鍋島は小さく笑った。「癌や、が、ん。聞いたことあるやろ?」
「……あるかも。でもよう知らん」
「そうやろ。気づくのが遅いと、助からへんのや」
 そう言うと鍋島は菜帆を見た。「ほら、妹が欲しがってるぞ」
 亮介はフォークに少量のパスタを巻きつけると、大きく開いた菜帆の口に入れてやった。そして抜き取ったフォークで再びパスタを巻いていたが、やがてその手を止めてじっと下を向いた。
「どうした、もう腹一杯か?」
 亮介は首を振った。しかし相変わらずフォークを持った手はそのままだった。
 そしてそのうち、がっくりと肩を落とすと小声で言った。
「お母ちゃんが死んでいてないやなんて……可哀想やな」
 鍋島は驚いて顔を上げた。亮介の肩は微かに震え、前髪の間から見えるダンゴ鼻の頭が赤かった。そう、彼は泣いているのだった。
 鍋島はちらりと芹沢を視線を合わせたが、すぐに逸らせて俯いた。そしてグラスを持つと、力なく笑って言った。
「……アホやな、おまえが泣いてどうすんねん」
 亮介は大きく鼻をすすった。

 食事のあと亮介と菜帆は風呂に入り、純子が実家から運んできた布団で眠りについた。
 芹沢はこの数日間、まともに睡眠をとっていないとあってさすがにぐったりと疲れ、真新しいレースのカーテンを通してバルコニーから心地よい風が流れてくるリビングのソファーに寝そべってうたた寝をしていた。つけっぱなしのテレビでは、NHKのニュース番組が流れていた。
「──風邪ひくぞ」
 鍋島に声を掛けられ、芹沢は目を開けた。「……ああ、つい──」
「あいつら、もう寝たか?」
 ダイニングの椅子に腰掛け、肩に掛けたバスタオルで髪を拭きながら鍋島が訊いた。
 芹沢は欠伸をしながら起き上がった。「みたいだぜ。自分で布団敷いてたから」
「それにしても、面倒見のええ兄貴やな」鍋島は言った。「無理もないけど。妹があの調子で、何より母親がええ加減過ぎるんやし」
「……信じられねえよ」
 芹沢は首を振って立ち上がり、キッチンに向かった。「俺も決してガキは得意じゃねえけどよ──自分の子供だぜ。どんな男との間にできたにせよ、それこそ腹を痛めたってやつだろ? 何で平気で見捨てられるんだよ」
「そういう女もいてるんやな。せやからたとえ戻ってきても、放っといたらどうせあいつらはあのままやぞ。兄貴が学校へ行けるわけでも、妹がちゃんとコミュニケーションの手段を身につけられるわけでもなく、ずっと今のままや。母親にその気がない限り、何一つ変わらんやろな」
「施設や福祉課の連中だって、あの調子じゃな」
 芹沢は冷蔵庫から缶ビールを取りだしてプルタブを開け、一口飲んだ。「……ったく、何が子供たちにとってのベストだけを考える、だ。見てもいねえ男一人を恐れて、たった三歳と七歳の子供を放り出すんだからな。偽善者もいいとこだぜ」
「けどな、どっちにしたって、今の俺らにかて何ができる? せいぜいこうやってメシと布団を提供してやるくらいや」
「そうさ、非力なもんさ」芹沢は頷いた。「俺は自分も含めたオトナってやつらの能力を過信してたよ」
「ああ。たかが知れてる」
「だから、あいつらのこれからのことは俺たちが首を突っ込まねえ方がいいのかもな。俺たちの仕事は、あいつらの母親と一緒にいると思われてる上島を捜すことが第一なんだから」
 芹沢の言葉に鍋島は頷き、呟くように言った。
「……いったい、どこに雲隠れしてしもたんやろ。まるで手がかりなしや」


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