1ー①

文字数 3,453文字

 翌日の明け方になって菜帆の熱は三十七度台まで下がり、苦しそうだった表情にも一応の穏やかさが見られ始めた。医者の言うには熱さえ下がればあとは快復も早いということだったので、とりあえずこの日は芹沢が一日そばに付き添い、仕事には鍋島だけが行くことにした。二人とも、今やすっかり子供中心の生活に慣らされていた。

 朝、鍋島が朝食の支度を終えてダイニングの席に着いていると、芹沢が兄妹の寝室となっている和室から出てきた。
「どうや?」
 鍋島は顔を上げて言い、後ろのカウンターに置いたサラダボウルを取ってテーブルに移した。
「三十七度四分のまま」芹沢は答えた。「でも、よく眠ってる」
「汗掻いてたら、着替えさせた方がええぞ」
「そうだな」
 芹沢はカウンターの前に立ち、新聞を取って広げた。
「亮介は?」
「あいつも眠ってる。ゆうべはあんまり寝てねえみたいだし」芹沢は答えた。「つくづく、あいつには頭が下がるよ」
「そう思うんやったら、今日はそっとしといてやるんやな。あんまり口うるさく言うなよ」
「言わねえよ」
 芹沢はふてくされたように言って席に着いた。そしてさっきから鍋島がコピー用紙のようなものに何か書いているのを見て訊いた。
「何書いてんだよ?」
「いや、何となく行き詰まってな。今までの整理をしてたんや」
「俺の訊き込みも成果がなかったしな」
「おまえ、昨日はどの辺を調べたって言うてたっけ」
「十三駅の、あれは──東側。駅の周りを中心に二十件くらい」
本町(ほんまち)の飲屋街には行ってへんのか? あっちの方が中心やのに」
「木川に近いのは、東側だろ」
「ほんなら俺は今日、本町を回らされるってわけか」
「そうだな。頼む」
 あっさりと答えた芹沢の言葉が気に食わなかったらしく、鍋島はゆっくりと顔を上げて目を細め、彼を見ながら不満げに言った。
「どれだけの店があると思てるんや。一人では到底無理やぞ」
「新地よりマシだろ」
 そう言うと芹沢は鍋島の手許を覗き込んだ。「うわ……相変わらず汚ねえ字だな」
「これでも書道習ってたんやぞ。小学生のときやけど」
「ワード、使いこなせるようになっといた方がいいぜ」
 芹沢は笑って、用紙の端っこを指で摘んだ。「ちょっと見せろよ」
 そうして芹沢が引き寄せた用紙には、事件の一連の経過が書かれていた。



*西川 一朗(東条組の覚醒剤密売人)
 九月四日午後十一時、杏子を巡って上島と口論     
   (井出和之証言)  
 上島、西川を殺害、新幹線の切符を奪う?  
   (九月二日大阪駅発行・
    同月十二日午前九時三十二分新大阪発新横浜行)
    ※切符は上島の遺体から発見

*上島 武(東条組構成員)
 九月十二日午前五時三十分頃、淀川区木川の歩道橋から転落死
  (十三署は事故死とほぼ断定)
   〈仮説〉
    何者かが上島を酔わせ、歩道橋から落として殺害か       
     (東条組? 杏子?)

 *田所 杏子(上島の愛人)
   西川が東条組と手を組んだのを機会に知り合う?
   横浜のホテルで九月十二日十三時に落ち合う予定?
   西川の死により単独で横浜へ?  ホテルには現れず
   九月七日、部屋が作業着の男に荒らされる(捜し物?)

 *作業着の男
   杏子のストーカー?


 *東条組
  拳銃の密造計画(四課、近々家宅捜索の予定)

 ※九月十四日現在、杏子の所在は不明。



「──何が見えてくる?」
 鍋島は自分の書いた図式をじっと見つめている芹沢に訊いた。
「小学生のおまえが書道の先生を絶望させてる様子」
「要らんこと言わんでええねん、真面目に答えろ」鍋島はむっとした。
「いろいろ見えてきそうで、そうでもねえようで──」芹沢は言った。「それにしても、杏子は何でまだ姿を見せねえんだろうな」
「上島が死んだことを知らんのと違うか」
「杏子本人が上島の死に関わってないとしたらな。けどそれもにわかに信じにくい。だって、西川と駆け落ちみてえなことを計画してたってことなら、西川が上島に殺られた時点でやつの動向にはかなりの注意を払ってるはずだ。何しろ次にてめえの身が危なくなっちまったんだからな。だからきっと上島が死んだことも知ってるはずだぜ。なのに、どうしていまだにまるっきりの消息不明なんだ? 子供をここまで放ったらかしにするほどの理由がなくなったんなら、いい加減に出てきても良さそうなのによ。いくら無責任な母親だとしても、ちょっと考えにくいぜ」
「他に理由があるってことか」
「そうさ。そこでおまえが気にしてる例の作業着の男だ。アパートの部屋があんなに荒らされたのは、確かにそいつが危ない感じのストーカー風で、杏子がいないと知ってキレちまったからだとしても、一方では、おまえもここに書いてるように、何か捜してたってことも考えられる。仮にそれと上島が死んだことを結びつけたとしたら?」
「そうか、つまり──」
「その男は杏子が持ってる何かを捜してアパートの部屋を家捜しした。けどそれが見つからなかったから、今度は彼女の男である上島に問い質した。ところがそれもうまく行かなかったから──」
「事故死に見せかけて殺したってか」
「ああ。同時にそれは杏子への警告ってことさ。『観念しねえと、次はおまえがこうなるぞ』ってな」
「……亮介と菜帆をここへ引き取っといて良かったな」
「そうだな。結果論だけど、園長の考えは正しかったってわけだ」
「捜し物って何やろ」
「いくらその男が危ねえ野郎だとしても、気の荒いヤクザを一人殺すくらいだから、そいつにとってはかなりの代物なんだろうぜ」
「そこで、俺らはどうするかや」
 鍋島はサラダを自分の皿に取り分けながら言った。「十三の聞き込みが空振りに終わったあとのことやけど」
「杏子の周辺から、その作業着の男を割り出すのは無理だったんだっけ」
「ああ。アパートに現れたのを目撃されたのはあのときが初めてやったし、タレコミ屋にも頼んで、杏子の勤めてたクラブにそう言う感じの男が現れたことがなかったか調べさせたけど、まったく浮かんでけぇへんかった」
「そうなるとあとは──」
 芹沢はもう一度用紙を取り上げた。そして手に持っていたトーストをゆっくりと口に運び、やがて言った。「こうなりゃ仕方ねえな」
「何や」
「ここに書いてある連中のうち、西川と上島はもう死んじまってるし、ガキどものオフクロさんも行方知れずだ。その女を追いかけてるキレた野郎もまるで正体が分からねえ。そうなると、残りは東条組しかねえだろ」
「奴らをつつくのか?」と鍋島は眉をひそめた。「今は手を出しにくいぞ」
「拳銃密造の件で、本店の邪魔はできねえってやつか?」
「まあな」
「そんなのクソ食らえだぜ」と芹沢は鼻白んだ。「こっちは殺人さ。尊い人間さまのお命が、こともあろうに二つも奪われてるんだ。しかも、麻薬の売人と極道の命がさ」
「……課長に文句言われたら、そう言い返してみるわ」
 鍋島は呆れ顔で言った。
 そのとき、ダイニングから廊下へ出るドアの脇に取り付けられたインターホンが鳴った。芹沢は不審そうに立ち上がり、その前まで行くと受話器を取った。
「はい」
《──芹沢さん、宅配便です》
 一階のエントランスから呼びかけている男の声が言った。
「宅配便?」
 芹沢がそう言ったのを聞いて、鍋島は壁の掛け時計を見上げて呟いた。
「……えらい朝早うから来るんやな」
 時計は八時十分前だった。
 芹沢はエントランスの画像を見た。しかし男はかなり不自然な場所に立っている様子で、顔がはっきりとは分からなかった。
「どこからです?」と芹沢が訊いた。
《福岡からです》
「あ、そうですか」
 芹沢はインターホンの横にあるボタンを押して一階のオートロックを解除し、鍋島に振り返った。
「実家からだよ。また何か送って寄越したみたいだ」
「ほんまに至れり尽くせりやな、おまえんとこの親は。話には聞いたことあるけど、九州の旧家の長男ってのは、よっぽど値打ちがあるんやな」
「……旧家ってのは大袈裟だよ」
 芹沢はぽつりと言った。そして頭の中では、今の宅配便の男の声が、なぜか聞き覚えのある感じだったのが気に掛かっていた。
「おい、ちょっと──」
 芹沢は言うと、厳しい表情でテーブルに戻った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み