2ー②

文字数 4,347文字

 そのあと鍋島はもう一度母親の霊前に手を合わせ、今日のところはこれで帰ると父親に告げた。しかし父親はぜひ麗子に会っていって欲しいと言って彼を引き留めた。
 鍋島はどうしたものかと迷ったが、真澄の勧めもあって、結局麗子の顔を見てから帰ることにした。

 階段を上り、廊下を進んだ鍋島は、突き当たりから一つ手前のドアの前に立つと深呼吸してからノックした。
「はい」
 中から麗子の疲れた声がした。どうやら目を覚ましているようだ。鍋島はドアを開けた。
 麗子は正面の窓際に置かれたカウチ・ソファーに座り、こちらに振り返ったところだった。白いブラウスに黒のスカート姿で、薄く化粧をしていた。
「起きてたのか」
「眠ってたら、どうするつもりだった?」
 と麗子は微笑んだ。「ごめんね。来るまで起きて待ってようと思ったんだけど」
 鍋島は首を振り、静かにドアを閉めた。そしてゆっくりと麗子のそばにやってきた。
「真澄が、いろいろよくしてくれてるの」麗子はぽつりと言った。
「そうみたいやな」鍋島は麗子の隣に腰を下ろした。「いざって言うとき、頼りになるのはやっぱり身内やから」
「勝也はどうなの?」
「俺はあかん。ことが起こる前とそのあとにちょっと手助けしてやれるだけで、肝心なときにはまるであてにならへん人間やから」
 鍋島は自嘲気味に言って肩をすくめると、麗子に振り返って彼女の顔をじっと見た。
「……辛かったな」
「うん」と麗子は俯いた。「女って駄目ね。普段は誰にも負けないって突っ張ってるつもりでも、女親を亡くすとひとたまりもないんだもの。一週間経ったのに、まだ気持ちが切り替えられなくて……涙も涸れちゃったわ」
「当たり前や。俺かて、あのときのショックは忘れてへん」
 麗子は顔を上げた。「やっぱりそうなの?」
「ああ。まだ子供やったからな。もしかしたら、って覚悟はしてたものの、一方ではオフクロが死ぬわけないなんて考えてた。純子が泣いて──俺は呆然として。親父は仕事に夢中やし、こんなアホなことがあるかって」
 鍋島は足下を見つめたままで言った。「次の日から純子にまとわりつかれて。あいつの手前もあったし、必死で平気な顔してたけど、そのせいで余計にきつくてな。夜、寝るときに布団の中で泣こうと思うんやけど、そのときには呆けたみたいになって涙も出てけぇへん。それがまた情けなくて──母親が死んだのに泣かへんなんて、俺はなんて薄情なやつなんや、これやったら親父と一緒やないかって」
 麗子は黙って俯いていたが、やがてその美しい瞳に涸れたはずの涙をいっぱい溜めて鍋島を見上げた。
「……おい、やめてくれよ」
 鍋島はどこかが苦しそうに笑った。そして麗子の背中に腕を回した。
 彼に引き寄せられ、麗子は倒れ込むようにしてその胸に顔を埋めた。鍋島は微かに震える彼女の肩を抱いた。少し小さくなったように感じるのは気のせいだろうかと思った。
「さあ、疲れが溜まるだけやから、もう休めよ。俺も帰るし」
「もう帰るの?」
「芹沢に仕事を押しつけてきたからな」
「泊まっていってくれると思ったのに」
「まさか。そんな図々しいことしたら、せっかくいい位置につけてる親父さんの俺に対する信用が、あっという間に奈落の底に墜ちる」
「父だって勝也のことは認めてるわ。あたしたち、子供じゃないのよ」
「どうかな」と鍋島は首を傾げた。「とにかく、今のおまえには休養が必要や。言うこと聞いてゆっくり休めよ。いずれ仕事にも行くんやろ?」
 麗子は心細そうに鍋島を見つめていたが、そのうち納得したように頷いた。
「分かったわ。心配してくれてありがとう」
 二人は立ち上がり、ドアに向かった。そして鍋島がノブに手を掛けたとき、麗子がもう一方の腕を掴んだ。鍋島は振り返った。
「少しのあいだはメソメソしてるかも知れないけど、そのうちすぐに元気になるから。そう、次に会ったときは、またいつものあたしだからね」
 鍋島は微笑んだ。「無理すんなよ」
「ううん、駄目なのよあたし。自分にプレッシャーを掛けないと、つい楽な方に逃げたり、投げやりになったりするのよ。だから今までもそうやって乗り越えてきたの」
「麗子──」
「本当は、甘えることになれてないのよ。淋しい女よね」
 そう言って笑った麗子を見て鍋島は深く溜め息をついた。そして半開きのドアをもう一度閉めると、両手でしっかりと麗子を抱いてキスをした。
 やがて二人は顔を離し、お互い幸せそうに微笑んだ。
「じゃあな」
 鍋島はこれ以上優しく言えないと言うくらい柔らかな声で言った。
「あんまり我慢することないからな。しんどかったらいつでも来るから」
「……ありがとう」
 麗子は感極まっていて、そう言うのがやっとだった。


 玄関で三上父娘に見送られ、鍋島は夕食の買い物に出かけるという真澄とともに家を出て、芦屋の駅に向かった。
 少しずつ色を変え始めた街路樹が美しい舗道を並んで歩きながら、鍋島と真澄は他愛もない話をした。途中、鍋島は何度か真澄に彼女の結婚の話を差し向けたが、真澄はもったいつけたように笑うだけだった。
「──なあ、真澄」
「何?」
 真っ白な自転車を押しながら、真澄は鍋島を見上げた。
「こんなこと言うたら、おまえは俺が思い上がってると思って気ィ悪くするかも知れんけど──」
「麗子のことでしょ」真澄はすかさず言って前を見た。「……大丈夫、安心して。あたしできる限り麗子のそばにいるつもりやから」
 鍋島は俯いた。「……悪いな」
「従姉妹同志やもん、あたしたち。勝ちゃんが麗子と知り合うずっと前から、あたしと麗子は姉妹(きょうだい)みたいなもんやから」
「そうやったな」
 やっぱり真澄は気を悪くしたのだと思った。
「……勝ちゃん」
 と、今度は真澄が言った。
「うん?」
「さっき、勝ちゃんがおじさまと話してたの、あたしちょっと聞いてしもたの。別に盗み聞きするつもりはなかったんやけど、おじさまにお茶をお出ししようと思ってたら、つい──」
「そうか」と鍋島は照れ臭そうに笑った。「別にええよ、聞かれてまずいことではないんやし」
「……聞いてると、勝ちゃんがどれだけ麗子のことを想ってるのか、よう分かったわ。ああ、勝ちゃんはほんまに麗子のことが好きなんやなあって。好きなんてもんやなくて、もっともっと大きい愛情で麗子のこと包んであげてるんやて、そう思った」
「……からかうなよ」
「ううん、ほんまにそう思たもの」真澄は真顔で首を振った。「あたし、今までの自分のことを考えると、ちょっと恥ずかしかった。あたしは、想ってる人のことをあれだけはっきりと誰かに話したことないもの」
「俺かて、誰にでもあんなこと言わへんよ」
「それはそうかも」
 真澄はふふっ、と笑ったが、その後すぐにその笑顔を引っ込めた。
「……それでね、勝ちゃん」
「うん」
「そう言うこと考えてるうちに、あたし──」
 顔を上げた真澄を、鍋島は少し首を傾げて見つめた。
 真澄は肩で大きく息を吐くと、思いつめたような表情で言った。
「……治ったはずの古傷が、また痛み出してきたみたい」
 鍋島は目を閉じて重い溜め息をついた。
「……真澄、俺は──」
「分かってるわ。あたしがこんなこと言うても、今さら何も変わらへんってこと」
「そういうことやなくて──おまえはもうすぐ結婚するんやから」
「そうなの、でも──」
「あかんて」
 鍋島は押し込むように言った。「おまえの言うた通り、それはあくまで昔の傷なんやて。誰かてそんな経験はあるし、たまに思い出すと胸が痛むとも思うよ」
「三年以上も好きやったのよ、勝ちゃんのこと」
「分かってる」と鍋島は頷いた。「俺にも責任があるとは思てるんや。おまえの前から消えるどころか、姉妹みたいに思ってる女とつき合うてるんやから」
「……麗子には、かえって悪いと思ってるの。いまだにこんなことばっかり考えて」
 鍋島はポケットに手を入れ、困り果てて俯いた。
「……なあ。俺はどうしたらええ?」
「勝ちゃん──」
「おまえにはほんまに申し訳ないと思うけど、俺はおまえの気持ちに応えることはでけへんよ」
「……ええ」
「おまえにも婚約者がいてるんやし。忘れたらあかん」
「せやから、何とか、どこかで区切りをつけなあかんと思ってるの」
 真澄は途方に暮れたように自転車の前輪を見つめていたが、そのうち消え入りそうな声で言った。
「……思い出……」
「えっ?」
「……思い出、つくって欲しい」
「──────?」
 真澄の言葉の意味が分からなくて、鍋島は彼女の顔を覗き込んだ。しかし彼女は彼を見ようとしなかった。
「……一度でいい。あたしとの思い出作ってくれる?」
「それは──」
 鍋島は歩調を落とし、そして立ち止まるとゆっくりと真澄に向き直った。
「──それは、一晩つき合うってことか?」
 真澄は俯いたまま、一つ大きく息を呑んだ。自転車のハンドルを握る手に力が入っているのが分かった。
 そして真澄は言った。
「勝ちゃんがそう思うんやったら……そういうことよ」
「おまえはそれでええんか」
 鍋島の冷たい声を聞いて、真澄は顔を上げた。
「一回寝たら忘れられる、そういうことか?」
「──ごめん」
 真澄ははっとした顔をした。間違ったことを言ってしまった、という表情だった。
「俺はええよ、おまえにその程度に思われてたって。でも、婚約してながら別の男とそんなことしようと考えるおまえを、俺はこれからどう思っていくやろな。自信がないよ」
 真澄は深く項垂れたままで、何も言えずにいた。
「それに、さっきおまえが言うた通り、俺は麗子のことを──」
「そう、そうやったわね」真澄は鍋島の言葉を遮るように言った。
「おまえのことも大事に思ってるし。麗子の従妹やからというのとは違て」
「……よう分かったわ。ほんまにごめんね、変なこと言うて困らせて」
 真澄はわざとにっこりと笑った。「あたし、どうかしてたわ。久しぶりに勝ちゃんに会うたから、何か急にいろんな思いが沸き上がってきて──これってきっと、マリッジブルーってやつかも」
「……そうなんか」
 鍋島は返答に困って俯いた。
「実際、俺みたいなんにそこまで言うてくれて嬉しいよ」
「やめて」
 と真澄は鍋島を見上げた。「……嬉しいって言われると、あたし、アホやから、駄目って分かっててもまた気持ちを引きずってしてしまうし」
「ごめん……」
「……ううん、ええの」
 本当はごめんの方がもっと辛いのよと、真澄は言いかけて呑み込んだ。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み