第4話 オトナとコドモ

文字数 2,261文字

 基本的に、大人と子どもに、明確なラインなど引けやしないだろう。ひとは、個人個人という、個の存在があるだけなのだから、と思う。
 まず、大人と子どもについて議論すえるときに、世にいる「子ども」と親子関係における「子ども」を、分けてから話をした方がいいだろう。同じ「子ども」という日本語なので、よくごっちゃになってしまうのだ。
 最近私が思うのは、極端に言うと、
 ── 子どもは尊大な死を選ぼうとし、大人は卑小な生を選んでいく。
 ということだ。これは、世にいる子どもが、子ども時代に考えがちなことではないかと思われる、ひとつの時期についてのことだ。個人が何か成長めいていく過程での話である。私の個人的体験に根づく思いである。
 私はむかし、自分を天才だと思っていた。他の人達とは違うのだ、と考えていた。もっとさかのぼれば不登校児だったため、普通の子どもとは違うのだ、との意識を強くもっていた。もたされていた気もする。
 毎日よく自殺を考えていた。自殺を考えることが、私にとっての活力源、生きる力であった。「死ぬ気になれば何でもできる」を地で行っていたのかもしれない。フランス人が書いた本から死ねる薬を知り、それを薬局で注文し、どこに行くときも所持していた。それはお守りのようなものだった。

 高野悦子の「二十歳の原点」(新潮文庫)、原口統三の「二十歳のエチュード」(角川)、シルヴィア・プラスの「自殺志願」(絶版)、小林美代子の「髪の花」(講談社?)などをわくわくしながら読み、涙した。四人とも、自ら、自分の人生を途中で放擲していた。自殺した人の書き遺したものは、その言葉に強い吸引力をほとんど生理的に感じていた。
 死ねる薬(その薬は脳死になるだけで完全な死には至らないことを、あとで知ったのだが)は、ぶらさげていた紙袋に穴があいていて、どこかへ落としたりして、いつのまにか失くしてしまった。
 とにかく私は自殺に憧れていた。ほんとうは二十歳までに死ぬつもりであった。結局勇気がないだけで、今に至っているが、今は、以前ほど、死にたくなる時間が少なくなった。
 今、私は何だか大人になったような気がしている。
 二十歳の頃、私は、自分は天才なのだ、ほかの奴らとは違うのだという意識を強く持つことで、自己の存在価値をつくっていたように思われる。
 映画「アマデウス」を観て、おれはモーツァルトに近い、と確認もした。しかしサリエリにも近い自分がいて、いやになった。日々の生活でふっと俗物的な己を感じるようになり、最後の手段・自己防衛として自殺があった、という面もあった。自殺に対する抱き方が、微妙に変化していたことを自覚する。
 つまり自殺に憧憬を抱く気持ちが希薄になっていった時、私は大人になったように思うのだ。死ねる勇気のない人間が、そんな自分とつきあっていく中で、おのれの防御壁が年とともにうっすらと取り壊されてしまった感じがした。

 そして、話はいきなり学校教育へ跳ぶ。
 公教育は、軍国主義下にあった戦時中と、いまも何も変わっていない。生徒手帳に記されていない暗黙のルール、もっとも厳しい校則は、
「みんなと同じになりなさい」
 ということだ。
 個人を、義務教育下で集団生活に押し込んで、誰もが兵隊の如く同じたらしめん、とする目的が、学校の原点なのである。これは、戦争反対をずっと絵にしている老画家から聞いた話だが。
 今は「天皇のために」がなくなり、「社会に役立つ人間」を生産しようとしているだけで、根本は変わらない。要は、個人のためでない、ということだ。私はこの暗黙の規則が耐えきれずに、不登校をしていたように思う。
 そんな中で、イジメというのは、残念なことに行われて然るべきだろうと思う。(この残念ささえ当然化されしまうような恐ろしい空気を感じるが)
 みんなと違う、異質の者は排除、あるいは「矯正」されようとする。問題は、イジメなんかではないのだ。イジメをなくしたとしても(そんなことはできるわけないと思うが)、その代わりに何かまた問題が起こって、同じところへ行くだろう。私は、学校がよくなるわけがないと考えているのだ。

 そんなルールに縛られて空気を吸ってきた人達が大多数であるのが現実だとしたら、大人と子どもの境界線など、いよいよ曖昧になって当然と思われる。
 つまり、自分自身、自己自身について考える時間がない── これはきっと大人もそうだろう。おのれについて考える時間よりも、排除されないように皆に合わせたり、結果の見える勉強にいそしんだ方が、はるかに建設的なのである。また、多くの親が、「子どものために」の自己欺瞞をもって、それを意識にも上げず、そんな環境をつくってきた。
 自我について、どれだけふかく考えられるか。それは、他者に対してどれだけふかく考えられるかに繋がっていくだろう。順番が、あべこべなのだ。

「大人」「子ども」は、個人個人の内面の自覚にすぎず、そもそも明確な線引きなどできないものだ。たいした意味のある言葉でもない。今の大人に、どれだけ「自分は大人だ」と自分の足を着地して、自分の言葉で、心臓から胸を張って言えるひとがいるだろうか。もしそんなひとが目の前に現れたら、私など、真っ先に飛んで逃げるか、ピエロになってひれ伏す。
 個人個人が、その内面を向き、考える時間を、削除に近い情態にしている・させられているとしたら、なおのこと、大人も子どもも、形だけの死語に等しい、無意味な区分けだろう。
 そう、私は小さくなっているのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み